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6.佑の未来

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 二月、まだ梅も蕾んでいる時季だ。暦の上では春でも、吹き曝しの野球グラウンドは寒い。
「強豪相手の練習試合があるから見に来て欲しい」と、一昨日佑に頭を下げられて、逸樹は今ここに居る。父兄も多く観覧するらしく、佑の家族も来るとのこと。佑の弟は寒がりだから心配で、逸樹はカイロを買い込んだ。その後、他の父兄のことも気に掛かってしまった逸樹だ。何人来るかも分からないので、とりあえず鞄にいっぱい、入るだけのカイロを詰め込んだ。
 金網の向こうに練習している選手が見える中、冷たい地面に直接シートを敷いて座っている、佑の家族に逸樹は混ぜてもらう。カイロを温めてから佑の弟に渡すと、とても喜ばれた。気分が良くなって、逸樹が他の観覧者にもカイロを配って回ると「ありがとうございます」と重宝された。

「気の利く方ね、誰のお兄さん?」
「うちの子の家庭教師をしてくださってるの。YK大の優秀なひとよ」
「すごい」

 そんなに褒めそやされることなんて滅多にない逸樹だ。照れて笑っていると、背中から声が掛かった。
「逸樹さん!」

 振り向くと、人懐こそうに佑が笑っている。ユニフォームがとても似合っていて、がっしりとした体型を強調している。逸樹は不覚にもときめいてしまった。

「来てくれてありがとうございます。─そんな中腰で何してるんです」
「皆さんにカイロ配ってた」
「え?」

 目を見開いた佑に、こっちの方が驚いてしまう。こういう所に来るのは初めてだから、マナー違反だっただろうかと逸樹は不安になった。

「迷惑かな?」
「いえ、そんなことないです。そんなに気を遣ってもらえるなんて、思わなかったから」
「ああ、おれ、八方美人だからさ」

 周りの顔ばかり窺ってしまう性質は、もう自分ではどうしようもないと逸樹は思っている。そんなだから、白嶺に奴隷扱いされたのだろうと。

「そんな風に自分を貶めないでくださいって。逸樹さんに救われてるひとはきっといっぱいいます」

 愛おしげな眼差し、というものを、逸樹は生まれて初めて知った。佑がこちらに向けるのはそれであると、それだけは自信を持って言えるほどの、温かな視線。
身体が発熱した。理由もないのに。

(何でおれ、こんなに嬉しいんだ?)

 佑の差し出すもの全てが、逸樹を高揚させる。佑はただの教え子のはずなのに、逸樹を正確に捉えて離さないのは、きっと彼が誠実で嘘のない男だから。

(本心から、そんなこと思ってるのか、佑は)

 そして、逸樹のことを「好きだ」と。
 逸樹は──真っ赤になった。

(知らない男に尻の穴を舐められたときより恥ずかしい、なんて)

 比較対象が間違っている自覚はある。それほど薄汚れた逸樹は、真っ直ぐに佑を見られない。だから佑と目が合わないように振り向いてから、精一杯の真心を告げる。

「折角来たんだから勝てよ」
「当たり前です。格好いいとこ見てもらうために呼んだんで」

 その言葉通り、佑はとても格好よかった。目で追えないほど速いボールを受け止め、選手たちに指示を出し、打ってはグラウンドの端っこまでボールを運ぶ。右に左に大活躍だ。
 得点が大差になったからか、佑は途中で交代になった。しかし、控え選手とはやはり格が違うのが逸樹の素人目にも分かる。一緒に座った佑の家族が、心の底から佑を誇りに思っているのが、ひしひしと伝わってくる。
 逸樹も、純粋に、すごいと思った。
 逸樹はあんな風に、花形で光を浴びるようなことなどない。無意識に比べてしまった控え選手と同じ──否、グラウンドに立つこともない、ベンチウォーマーにすらなれるかどうかだ。精々、使い走りがいいところ。

(何で、佑は俺なんか好きなんだろ)

 自分の取り柄と言えば、身体くらいのものなのに。
 次の家庭教師の時には、逸樹は佑を褒めに褒めた。佑が素直に接してくれる以上、逸樹もなるべく思ったままの言葉を言った方が、公平だと思ったからだ。

「あれなら、ドラフト? だっけ? からもお声が掛かるんじゃないか。教え子がプロ野球選手だって、おれ、自慢して回るよ」
「教え子じゃなくて恋人ですって。まあ、でも俺は、大学志望なので。ドラフトとかはちょっと」

 気まずそうな顔をした佑に首を逸樹は捻る。浅い知識だが、高校球児はプロ野球を目指しているものだと、そう思っていた。特に強豪校の選手ではそのはずだ。
だというのに佑は、どうしてそんな顔をするのだろう。不審な目で逸樹が佑を見ると、彼は申し訳なさそうに苦笑した。

「野球は高校までと決めているので。第一志望も逸樹さんの大学だって、言ってあるじゃないですか」
「あんなにすごい奴だと思わなかったから! 何で続けないんだ、別の夢でもあんの」
「父の設計事務所を継ぎたいんです。事務所の建築士は父だけなので」

 それはそれで、素晴らしい仕事だと逸樹も思う。だが、あれほど熱中し、かつ成功している野球を捨てるなんて。

「そんなの勿体ねえよ」

 きっと何か考えがあるのだろうが、逸樹はそう言ってしまった。ちょっぴり後悔するが、それでもそれが逸樹の本心だ。まだ、佑がプレーするのを見ていたい。

「スポーツ選手は過酷ですから。安定した職業に就いて、お嫁さんを楽させてあげたいので」
「お嫁さんって……」
「逸樹さんのことですよ」
「こんなときに冗談言うな」

 ぴしゃりと叱った逸樹に、佑は困ったように笑う。こんなに態度を有耶無耶にする彼は珍しい。

「……建築が好きなのか? あれはあれで、大変な仕事だぞ」

 白嶺の取り巻きの一人が建築学科で、レポートや卒業研究がきついのを契機に、白嶺に寄りつく暇もなくなったのを知っている。元クズが、生協で図画用紙を購入して学内を走っていたのが印象的だったのだ。
 それを佑に教えると、いよいよ分が悪そうな顔をして、彼はついに白状した。

「好きというか……お金も掛かるのに、ずっと野球をさせてくれた両親に、恩返しがしたいんです。──俺はゲイで、孫の顔も見せてやれないから」

 そうして佑は目を伏せた。自分がゲイだと両親には告白してあると佑は言っていたが、それがどれだけ勇気が要って、かつ後ろめたいことであるか、逸樹はようやく理解した。そのことに今まで気付けなかった自分を恥じる。
 だけど。
 それでも、佑の選択は、間違っていると逸樹は思ってしまう。

「……そんなの、本当にご両親が望んでるのか? お前の独りよがりじゃないのか」
「え?」
「お前のお母さん、お前のこと本当に誇らしそうにしてたよ。弟くんもお前をキラキラした目で見てた。お父さんも、満足そうに見てた。恩返ししろなんて、きっと誰も思ってない。一度、話し合ってみろよ」

 早口に、大声で、逸樹は言った。これまで、こんな風に誰かに考えを告げたことなんか、逸樹はない。正しいことをしたかも分からない。でも、逸樹が言いたかったから、言うのだ。
 佑が恥ずかしそうに俯いた。

「逸樹さん、本当に周りをよく見てるんですね」
「……八方美人なだけだって」
「そうかもしれないですけど。俺は、そういう逸樹さんが好きですよ。すごく尊敬します」

 縁のない言葉を向けられて、頭が爆発した逸樹だ。こんな優秀な生徒に尊敬なんてされるべきじゃない、自分は、と思う。だのに佑は、例の『愛おしげな眼差し』をする。

「抱き締めていいですか。俺に、勇気をください」
「……いいけど」

 逸樹が言うや否や。年下の腕の中にすっぽりと収まってしまって、羞恥が弾ける。頭が真っ白になって、逸樹の身体はかちこちだ。

「好きです。俺を好きになってください」

 肺を握り込まれたみたいに、逸樹は胸が苦しい。そのせいで、首を動かすことも、唇を動かすことも、できなかった。
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