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二年。それが、住み込みでの弟子入りの期限だった。
静岡市の伝統工芸士育成事業にかかる助成金をもらったのだが、眞下師匠への授業料に全て充てて、手元には家を出たときに持参した僅かな金しかない。それでも、衣食住の心配がないだけありがたかったし、何より毎日が楽しかった。
眞下師匠は厳しくも優しい師だった。昔気質の「見て覚えろ」という態度ではなく、必ず一度は手取り足取り作業を教えてくれた。
そうして、至が眞下師匠の門戸を叩いてから二年目のその日。
「後はもう、自分でやっていきなさい」
そうして眞下師匠の家を離れた。
眞下師匠の弟子とはいえ、彼の工房の名を冠して至の作品を売りに出すには、至は未熟だ。師匠に、彼の昔の弟子の工房の下働きを紹介してもらい、預金と合わせて数ヶ月食いつないだ。
しかし。
(これでは暮らしていけない)
職人の世界の厳しさは、至も二年で味わったつもりだった。だが、職人を取り巻く世界の厳しさは、眞下師匠の庇護下では気付けなかったことだ。
(せっかくここまで来たのに)
貧困が原因で夢を追えない、なんて事態は、想定もしなかった至だ。本当は、自分の工房を持ち、直接客を取りたいが、保証人もいないのに金を貸してくれるほど世間は甘くない。
(どうする)
散々迷って、万が一に賭け、実家の父に頭を下げることに決めた。金を貸して欲しいと。屈辱だし、はっきりと挫折しているのを父に悟られるなんて真っ平だ。だが、恥をかいてでも、嘲笑われても、至はまだ竹細工をしていたいのだ。
二年数ヶ月ぶりに、実家で使っていたスマートフォンの電源を入れた。そうして、父の個人用の番号に電話をする。すぐに応じた父の声は、冷たかった。
「そろそろ来る頃と思っていた。到底無理だっただろう、お前の力などでは」
そのまま父に罵倒されるかと至は身を竦めたが、至が何かを言う前に続きの言葉が飛んできた。
「まあいい。支援はしてやる。ただし、香坂のアルファとしての役割を最低限果たすことが条件だ」
何を言われているか、至には分からなかった。だが、父はとんとんと話を進める。至が一言も発していないのに。
(このひとは、肉親の情なんて、ひとつもないんだな)
長く離れていた息子の声が聞きたいとも考えないような男なのだ、至の父親は。
しかしながら、そんな父の提示した案は、破格の好待遇だった。
鎌倉の別荘をまるごと至が使っても良いこと。生活や仕事をするのにかかる費用は全額負担すること。芸術好みの客も紹介するし、さらに使用人を一人用意すると。
「使用人を替えることだけは許さない。オメガの男だが、それなりに使ってやれ」
その条件だけは解せなかったが、思い出のある鎌倉の別荘で仕事ができるのは嬉しかったし、あの屋敷は広い。部屋を潰して工房にするのに適しているだろう。それに、家事を誰かがやってくれるのは、仕事に専念したい至にはありがたいことだ。父が何を企んでいるか知れないが、条件を飲んで了承した。
眞下師匠に事情を話し、静岡産の竹を融通してくれるように頼んだ後、鎌倉の別荘へと転居した。
別荘は、母や譲とのあの思い出以来だ。竹林に囲まれた石畳の道を上って、書院造を現代風にアレンジした邸宅に着くと、玄関で譲が温かく出迎えてくれた。
「兄さん! 久しぶり、元気そうで良かった」
譲は、至よりも少し背が低くて眼鏡を掛けているが、それ以外は至と瓜二つの容貌をしている。物心ついたときから側に居た譲を置いて家を出たことだけは、少し心残りだった至だ。
「譲。お前も元気そうで良かった。わざわざ来てくれたのか」
「うん。兄さんに会いたかったから。それに、兄さんは嫌がるだろうけど──父さんも、来てる」
至の身体がみしりと硬直する。至の声さえ聞こうとしなかったあのひとが、顔を見にくるなんて、あり得ないだろう。
「嘘だ。あの忙しいひとが来るはずがない」「来てるんだ。……案内する、着いてきて」
この別荘は全て和室で、十二部屋ある。縁側が二つ。その片方は、苔むした広い庭を全て見渡せるように設えられている。だが父は、その縁側に面した部屋で庭を見ようとさえせず、相変わらず電話をしていた。部下のミスを責めているのだろう声が厭わしい。
やっと通話を終えた父は、至を一瞥した。その視線は鋭いが、負けて堪るかと至も睨み返す。
「お久しぶりです」
「もう分かっただろう。お前の力など大したことはない。香坂の家の庇護下でしかいられないのだ、お前は」
父は挨拶の時間すら惜しみ、至をなじる。悔しいが、家の金やこの邸宅を借りて、からくも夢を繋ごうとしている至は、言い返せない。唇を噛んでいたが、父はその悔しげな顔すら気に留めなかった。
「まあいい。二年間自由はやった。これからはここで暮らせ。使用人を追い出しさえしなければ、お前の好きにしていい」
父がそう念を押した瞬間、至の身体に、何かに引っ張られるような感覚があった。
胸騒ぎがする。感じたことのない、抗えない衝動が身体を焼く。足が勝手に立ち上がり、至は駆けだした。つっかけた下駄は、走るのには向かない。
竹林の間の石畳に辿り着くと、上ってくる白い人影があった。
身体がざわめく。これまで感じたことのない、高揚。
(まさか)
脳裏に浮かんだのは、たったひとつの言葉だ。
──運命の番。
そんなはずがない。至は馬鹿な考えを打ち消したが、それでも足が白い人影に向かうのは抑えられなかった。
*
白い影は鮮明になるうちに、白の和服を着た男だと知れた。足袋も草履も白で、その上、肩ほどまでの髪まで真っ白だった。細めの眉も、白い。アルビノだろうかと思ったが、瞳はやや薄い茶なので、違うのだろう。黒目がちで、鼻も口も小さい。控えめな美形だ。年の頃は二十二、三だろう。至より年上だ。だが、年の差を感じさせないほどに、淡く儚い。思わず守ってやりたくなるような容貌だ。まるでその白い姿が、花嫁みたいだからだろうか。
彼を目の前にして、至は何を言うべきか判断が付かなかった。その逡巡を、男は見抜いたのだろう。至を見上げて、桜色の唇を開いた。
「長谷合紬と申します。──あなたのためのオメガです」
そう名乗った男はほんのりと笑った。笑顔と呼ぶには浅く、無表情と呼ぶには甘い。それだけでかき乱されるような胸が、自分でよく分からない。
「遅い。至が着く前には来いと言っておいたはずだ」
「……申し訳ございません」
父へ目線を向けた彼は途端にすうっと表情を消し、目を伏せて、背中から黙礼をした。それからこちらへ目を向け直す。
「これから至さんのお世話をさせていただきます。卑しいオメガの身ですのでご不満もあるかと存じますが、精一杯勤めさせて頂きますのでご容赦ください」
「あ、ああ。こちらこそよろしくお願いします」
咄嗟に彼に手を差し出した。挨拶の後には握手を交わすものだと教育された癖がまだ抜けない。
だが、その癖を後悔した。
ふれた、瞬間の、電撃に打たれるような快感。
(なんだ、これは)
下卑た欲望が膨れ上がる。今すぐ組み敷いてやりたくなるような。相手がオメガだからと言って、ふれただけでこれほど反応するなんて、おかしい。
(まさか。まさかそんな)
再び頭を過ったのは『運命の番』という概念。本能が、遺伝子が求め合うという、ろくでもない『運命』。
だが、彼がそれだという衝動の声は、理性で押さえつけた。
(俺の運命の番は『登録所』にいなかったはずだ)
『登録所』。その正式名称は『オメガ性保護を目的としたアルファ及びオメガ性者生体情報登録所』である。だがその正式名称で呼ばれることはほとんどない。市井の者は『登録所』と呼ぶが、支配階級であるアルファ性の者は、侮蔑と欲望を込めてこう呼ぶ。『オメガ貯蔵庫』と。
これは二十五年前に施行された法律による機関で、赤児の出生時に行われる性別検査によりアルファ又はオメガだと判明した場合は、三ヶ月を迎える間までに『登録所』に細胞を提出し遺伝情報を登録する義務を、親に課すものだ。
そのお題目は『オメガ性の人権及び身体の保護』である。運命的な繋がりのあるアルファとオメガを結びつけることにより、オメガをアルファの庇護下に置くことでその身体と権利を保護する、ということらしい。
つまり『登録所』は同時に『運命の番の斡旋所』でもあるのだ。
例えば。『登録所』にオメガの遺伝子が新しく登録されると、運命の番を持たない全てのアルファとの遺伝子的相性を検査される。もし『運命の番』が発見された場合には、登録したオメガと『運命の番』のアルファの双方に連絡がされるのだ。これ以外の方法で、何処にいるかも分からない『運命の番』と出会う方法は、おおよそ、ない。
上位アルファという存在が見つかるまで、オメガ性はずっと被差別対象で、何の価値もないとされることが多かった。しかしアルファの『運命の番』のオメガならば、話が違ってくる。優秀を極めた存在、上位アルファを産む可能性があるからだ。このため、上位アルファを効率的に産ませる方法が、各国こぞって考え出された。この国におけるその手段こそが『登録所』だ。
至には、これまで『登録所』からの連絡がない。
父は、本当に至の運命の番がいないか、裏から手を回して『登録所』を突いてまで、血眼で探していた。至の配偶者は、運命の番であるべきだと、父は信じているのだ。つまり、香坂家を継ぐ上位アルファを、至の番が産むことを期待している。
しかし、父がどれほど権力を使おうと、いないものはいなかったのだ。
だから、この年上である長谷合紬は『違う』。彼が『運命の番』ならばきっともうとうに、至の意思に反して番わされているに違いない。
だから。
どれほどこの白い男が官能的に見えようと、それは、気の迷いでしかない。美しいオメガの魅力に酔っただけだ、きっと。
「この男とここで暮らせ。それさえ守れば、お前のくだらない夢も大目に見てやる」
「兄さん……くれぐれも無理しないでね。今度は居なくならないで」
そうして、父と譲は帰って行った。たったこれだけのために顔を見せた父のことは解せないが、気にしても仕方がない。
残された至は、もう一度、長谷合紬と名乗ったオメガに頭を下げた。
「長谷合さん」
「紬で結構です」
「はい?」
彼は表情が薄いのだと、至は気付く。笑えばきれいだろうに、何処か表情が乏しいから、儚くも図太くも見えるという、不思議な男だ。
「可能でしたらそのようにお呼びください。私も至さんと呼ばせて頂きます。あなたのお父上に雇われている身分ですので、香坂さんだとややこしくて」
「あ、ああ。構いません。紬さん、よろしく」
至は、今度は手に触れるなどという愚策は起こさなかった。今後も気をつけなければならないだろう。
静岡市の伝統工芸士育成事業にかかる助成金をもらったのだが、眞下師匠への授業料に全て充てて、手元には家を出たときに持参した僅かな金しかない。それでも、衣食住の心配がないだけありがたかったし、何より毎日が楽しかった。
眞下師匠は厳しくも優しい師だった。昔気質の「見て覚えろ」という態度ではなく、必ず一度は手取り足取り作業を教えてくれた。
そうして、至が眞下師匠の門戸を叩いてから二年目のその日。
「後はもう、自分でやっていきなさい」
そうして眞下師匠の家を離れた。
眞下師匠の弟子とはいえ、彼の工房の名を冠して至の作品を売りに出すには、至は未熟だ。師匠に、彼の昔の弟子の工房の下働きを紹介してもらい、預金と合わせて数ヶ月食いつないだ。
しかし。
(これでは暮らしていけない)
職人の世界の厳しさは、至も二年で味わったつもりだった。だが、職人を取り巻く世界の厳しさは、眞下師匠の庇護下では気付けなかったことだ。
(せっかくここまで来たのに)
貧困が原因で夢を追えない、なんて事態は、想定もしなかった至だ。本当は、自分の工房を持ち、直接客を取りたいが、保証人もいないのに金を貸してくれるほど世間は甘くない。
(どうする)
散々迷って、万が一に賭け、実家の父に頭を下げることに決めた。金を貸して欲しいと。屈辱だし、はっきりと挫折しているのを父に悟られるなんて真っ平だ。だが、恥をかいてでも、嘲笑われても、至はまだ竹細工をしていたいのだ。
二年数ヶ月ぶりに、実家で使っていたスマートフォンの電源を入れた。そうして、父の個人用の番号に電話をする。すぐに応じた父の声は、冷たかった。
「そろそろ来る頃と思っていた。到底無理だっただろう、お前の力などでは」
そのまま父に罵倒されるかと至は身を竦めたが、至が何かを言う前に続きの言葉が飛んできた。
「まあいい。支援はしてやる。ただし、香坂のアルファとしての役割を最低限果たすことが条件だ」
何を言われているか、至には分からなかった。だが、父はとんとんと話を進める。至が一言も発していないのに。
(このひとは、肉親の情なんて、ひとつもないんだな)
長く離れていた息子の声が聞きたいとも考えないような男なのだ、至の父親は。
しかしながら、そんな父の提示した案は、破格の好待遇だった。
鎌倉の別荘をまるごと至が使っても良いこと。生活や仕事をするのにかかる費用は全額負担すること。芸術好みの客も紹介するし、さらに使用人を一人用意すると。
「使用人を替えることだけは許さない。オメガの男だが、それなりに使ってやれ」
その条件だけは解せなかったが、思い出のある鎌倉の別荘で仕事ができるのは嬉しかったし、あの屋敷は広い。部屋を潰して工房にするのに適しているだろう。それに、家事を誰かがやってくれるのは、仕事に専念したい至にはありがたいことだ。父が何を企んでいるか知れないが、条件を飲んで了承した。
眞下師匠に事情を話し、静岡産の竹を融通してくれるように頼んだ後、鎌倉の別荘へと転居した。
別荘は、母や譲とのあの思い出以来だ。竹林に囲まれた石畳の道を上って、書院造を現代風にアレンジした邸宅に着くと、玄関で譲が温かく出迎えてくれた。
「兄さん! 久しぶり、元気そうで良かった」
譲は、至よりも少し背が低くて眼鏡を掛けているが、それ以外は至と瓜二つの容貌をしている。物心ついたときから側に居た譲を置いて家を出たことだけは、少し心残りだった至だ。
「譲。お前も元気そうで良かった。わざわざ来てくれたのか」
「うん。兄さんに会いたかったから。それに、兄さんは嫌がるだろうけど──父さんも、来てる」
至の身体がみしりと硬直する。至の声さえ聞こうとしなかったあのひとが、顔を見にくるなんて、あり得ないだろう。
「嘘だ。あの忙しいひとが来るはずがない」「来てるんだ。……案内する、着いてきて」
この別荘は全て和室で、十二部屋ある。縁側が二つ。その片方は、苔むした広い庭を全て見渡せるように設えられている。だが父は、その縁側に面した部屋で庭を見ようとさえせず、相変わらず電話をしていた。部下のミスを責めているのだろう声が厭わしい。
やっと通話を終えた父は、至を一瞥した。その視線は鋭いが、負けて堪るかと至も睨み返す。
「お久しぶりです」
「もう分かっただろう。お前の力など大したことはない。香坂の家の庇護下でしかいられないのだ、お前は」
父は挨拶の時間すら惜しみ、至をなじる。悔しいが、家の金やこの邸宅を借りて、からくも夢を繋ごうとしている至は、言い返せない。唇を噛んでいたが、父はその悔しげな顔すら気に留めなかった。
「まあいい。二年間自由はやった。これからはここで暮らせ。使用人を追い出しさえしなければ、お前の好きにしていい」
父がそう念を押した瞬間、至の身体に、何かに引っ張られるような感覚があった。
胸騒ぎがする。感じたことのない、抗えない衝動が身体を焼く。足が勝手に立ち上がり、至は駆けだした。つっかけた下駄は、走るのには向かない。
竹林の間の石畳に辿り着くと、上ってくる白い人影があった。
身体がざわめく。これまで感じたことのない、高揚。
(まさか)
脳裏に浮かんだのは、たったひとつの言葉だ。
──運命の番。
そんなはずがない。至は馬鹿な考えを打ち消したが、それでも足が白い人影に向かうのは抑えられなかった。
*
白い影は鮮明になるうちに、白の和服を着た男だと知れた。足袋も草履も白で、その上、肩ほどまでの髪まで真っ白だった。細めの眉も、白い。アルビノだろうかと思ったが、瞳はやや薄い茶なので、違うのだろう。黒目がちで、鼻も口も小さい。控えめな美形だ。年の頃は二十二、三だろう。至より年上だ。だが、年の差を感じさせないほどに、淡く儚い。思わず守ってやりたくなるような容貌だ。まるでその白い姿が、花嫁みたいだからだろうか。
彼を目の前にして、至は何を言うべきか判断が付かなかった。その逡巡を、男は見抜いたのだろう。至を見上げて、桜色の唇を開いた。
「長谷合紬と申します。──あなたのためのオメガです」
そう名乗った男はほんのりと笑った。笑顔と呼ぶには浅く、無表情と呼ぶには甘い。それだけでかき乱されるような胸が、自分でよく分からない。
「遅い。至が着く前には来いと言っておいたはずだ」
「……申し訳ございません」
父へ目線を向けた彼は途端にすうっと表情を消し、目を伏せて、背中から黙礼をした。それからこちらへ目を向け直す。
「これから至さんのお世話をさせていただきます。卑しいオメガの身ですのでご不満もあるかと存じますが、精一杯勤めさせて頂きますのでご容赦ください」
「あ、ああ。こちらこそよろしくお願いします」
咄嗟に彼に手を差し出した。挨拶の後には握手を交わすものだと教育された癖がまだ抜けない。
だが、その癖を後悔した。
ふれた、瞬間の、電撃に打たれるような快感。
(なんだ、これは)
下卑た欲望が膨れ上がる。今すぐ組み敷いてやりたくなるような。相手がオメガだからと言って、ふれただけでこれほど反応するなんて、おかしい。
(まさか。まさかそんな)
再び頭を過ったのは『運命の番』という概念。本能が、遺伝子が求め合うという、ろくでもない『運命』。
だが、彼がそれだという衝動の声は、理性で押さえつけた。
(俺の運命の番は『登録所』にいなかったはずだ)
『登録所』。その正式名称は『オメガ性保護を目的としたアルファ及びオメガ性者生体情報登録所』である。だがその正式名称で呼ばれることはほとんどない。市井の者は『登録所』と呼ぶが、支配階級であるアルファ性の者は、侮蔑と欲望を込めてこう呼ぶ。『オメガ貯蔵庫』と。
これは二十五年前に施行された法律による機関で、赤児の出生時に行われる性別検査によりアルファ又はオメガだと判明した場合は、三ヶ月を迎える間までに『登録所』に細胞を提出し遺伝情報を登録する義務を、親に課すものだ。
そのお題目は『オメガ性の人権及び身体の保護』である。運命的な繋がりのあるアルファとオメガを結びつけることにより、オメガをアルファの庇護下に置くことでその身体と権利を保護する、ということらしい。
つまり『登録所』は同時に『運命の番の斡旋所』でもあるのだ。
例えば。『登録所』にオメガの遺伝子が新しく登録されると、運命の番を持たない全てのアルファとの遺伝子的相性を検査される。もし『運命の番』が発見された場合には、登録したオメガと『運命の番』のアルファの双方に連絡がされるのだ。これ以外の方法で、何処にいるかも分からない『運命の番』と出会う方法は、おおよそ、ない。
上位アルファという存在が見つかるまで、オメガ性はずっと被差別対象で、何の価値もないとされることが多かった。しかしアルファの『運命の番』のオメガならば、話が違ってくる。優秀を極めた存在、上位アルファを産む可能性があるからだ。このため、上位アルファを効率的に産ませる方法が、各国こぞって考え出された。この国におけるその手段こそが『登録所』だ。
至には、これまで『登録所』からの連絡がない。
父は、本当に至の運命の番がいないか、裏から手を回して『登録所』を突いてまで、血眼で探していた。至の配偶者は、運命の番であるべきだと、父は信じているのだ。つまり、香坂家を継ぐ上位アルファを、至の番が産むことを期待している。
しかし、父がどれほど権力を使おうと、いないものはいなかったのだ。
だから、この年上である長谷合紬は『違う』。彼が『運命の番』ならばきっともうとうに、至の意思に反して番わされているに違いない。
だから。
どれほどこの白い男が官能的に見えようと、それは、気の迷いでしかない。美しいオメガの魅力に酔っただけだ、きっと。
「この男とここで暮らせ。それさえ守れば、お前のくだらない夢も大目に見てやる」
「兄さん……くれぐれも無理しないでね。今度は居なくならないで」
そうして、父と譲は帰って行った。たったこれだけのために顔を見せた父のことは解せないが、気にしても仕方がない。
残された至は、もう一度、長谷合紬と名乗ったオメガに頭を下げた。
「長谷合さん」
「紬で結構です」
「はい?」
彼は表情が薄いのだと、至は気付く。笑えばきれいだろうに、何処か表情が乏しいから、儚くも図太くも見えるという、不思議な男だ。
「可能でしたらそのようにお呼びください。私も至さんと呼ばせて頂きます。あなたのお父上に雇われている身分ですので、香坂さんだとややこしくて」
「あ、ああ。構いません。紬さん、よろしく」
至は、今度は手に触れるなどという愚策は起こさなかった。今後も気をつけなければならないだろう。
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