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終章 未来へ
◆グレン―鈴蘭の花 ※挿絵あり
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「あっ、グレンさん。おはようです~」
「ああ……おはよう」
5月中旬、砦の解散から1ヶ月半。
ある朝目を覚ますと、先に起きていたらしいレイチェルがダイニングで何か書き物をしていた。
時刻は7時。
「今日はずいぶん早いな」
「ふふふ、でしょ~?」
「……? 仕事、早出か何かか?」
「ちがうよー。今日はお休み」
俺が問うと、レイチェルがニコニコと笑う。ずいぶん嬉しそうだが、何かあったのだろうか。
俺より早く起きられたのが嬉しい? いや、まさかな……。
「ねえグレンさん、わたし昼からやることあって。悪いんですけど、夕方ごろまで出ててもらっていいですか?」
朝食を食べていると、レイチェルが俺の向かいに座ってそう言ってきた。
お祈りのように手を組み合わせて小首をかしげ、目をパチクリしている。
「……いいけど。やることって何だ?」
「ふふふ。ないしょ~♪」
言いながらレイチェルは人差し指を口に当ててウインクしてみせる。
(……かわいい)
最近レイチェルは、こんな風なちょっとあざといしぐさをするようになった。
天然なのか、狙ってやっているのか……。
「じゃあ、お願いね。……帰るの楽しみにしててね?」
「うん」
俺の返事を聞いたレイチェルは鼻歌まじりに身を翻し、小躍りしながらキッチンへ。
(かわいい)
――狙っていようが天然だろうがどうでもいい。レイチェルはいつだってかわいい。
何をやる気なのか知らないが、かわいいレイチェルの頼みなら俺はなんでも聞く。それでいいんだ。
◇
昼食後、レイチェルのお願い通りにアパートを出た。時刻は12時半。
どこで時間を潰そうかあれこれ考えた末、「アディントン」という街へ行くことにした。
(久しぶりだな、この街も……)
アディントンは、王都とポルト市の中間に位置する街。
大都市というわけではないが、様々な街へのアクセスの良さから冒険者がよく行動拠点にしている。砦からも近いため、俺達もよく立ち寄った。
街は景観が良く、どの施設もポルト市街とは趣が違っていた。カフェ、雑貨屋、服屋、博物館、美術品の市場など、どの店も小洒落ている。
ただ、残念ながらどの施設も利用したことはない。
何せ、この街に来ていたのはパーティ結成当初――"あの"状態のルカと、"あの"状態のジャミルとつるんでいたときだ。
俺は俺で虚無の状態――お互い交流する気などないので、「街を楽しく散策しよう!」ということにはなりようがない。
街に着いたら俺はギルドに向かい、ジャミルは教会へ。それが終わればルカの転移魔法でポルト市街へとんぼ返り――街の滞在時間は1時間にも満たなかったはず。
間違ってもお互い"仲間"と呼べる存在ではなかった。
あれから1年と少ししか経っていないのに、全てが変わった。
去年の今頃は、何をしていたのだったか……。
――ああ、そうだ。
レイチェルとルカが一緒に花の種を植えて、ちょうど今頃くらいに芽が出たんだった。それに呼応するように、ルカの感情も育っていって……。
ジャミルがレイチェルに怒鳴り散らしたのもこの頃だ。
あれで辞めてしまうのではないかと危惧したがめげることはなく、昔の話なんかをして逆に打ち解けていっていた。
それを見て俺は「なんだ、やっぱりそういう関係か」と思って、密かにふてくされていた。
そういえば、カイルが砦に来たのも5月だった。
レイチェルがあいつのことを「かっこいい」と言うから、「あいつ30歳だぞ」なんてわけの分からない牽制をした。
「ふ……」
――迷惑な奴だ。
思えば、自分の気持ちに気づく前からあの兄弟にはつまらない嫉妬心ばかり抱いていた気がする。
馬鹿だったな、本当に。
何もないようなふりをして、最初からレイチェルのことしか見ていなかった。
気持ちを捨て置くことなんか、できるはずがなかったんだ。
◇
「ふう……」
アディントンは「坂の街」と呼ばれるくらいに坂道と階段が多い街。
長い長い坂道を上りきった先には展望台があった。ここからアディントンの街並みが一望できる。
いい眺めだ――ここへ来る時に通ってきた緑の並木道や噴水広場、美術品の市場が全部見える。
この街は建物の壁と屋根の色が全て統一されていて、それも綺麗だ。
「空との調和のために条例で建物の色が決められている」と、展望台にある立て札に書いてあった。
――展望台のベンチに座って考えるのは、これから先のこと。
俺は来月からカルム市街にある小学校で教師として働くことになった。
図書館でチャドとヒュウに勉強を教えたことがきっかけだ。
2人が通っている学校の校長先生に俺を猛烈に推したとかでなぜか面接を受けることになり、なぜか採用の運びに……。
仕事を探してはいたが、まさかこんなことになるとは。
教師なんて俺に絶対向いてないだろうと思うが、レイチェルやジャミルには「やってみたら意外といけるんじゃない?」と言われてしまった。
――そうなのか。全然分からない。正直、司書の仕事以上に不安で仕方がない。
でもまあ、やれるだけやってみようと思っている。
なんというか、人生何がどうなるか分からないな、いいことも悪いことも……。
◇
(……もう、戻ってもいいかな?)
カフェや本屋や博物館を巡って時間を潰した。時刻は夕方4時。
「夕方頃まで出ていて」ということだったから、そろそろ帰ってもいい頃合いだ。
――というか、昼から夕方まで一体何をやっているんだろうか? 気になる……。
「ん……?」
坂道を下っていると、左手に小さな花屋が現れた。店先には季節の花とともに、「大切なあの人に、小さな心の贈り物」と書いた黒板が置かれている。
(花か……)
――別になんでもない日だけど、花でも買って贈ってみようか。
プロポーズとか重要な場面で使うわけじゃないから、決めるのにそんなに時間は食わないだろうし……。
店に入ると、どこかから「いらっしゃいませ」という女性の声が聞こえてきた。
店内は思ったよりも広く、明るい。
バラやユリ、チューリップなど、他にも色とりどりの季節の花が並んでいる。
――何を贈ろうか?
バラやユリはもちろん綺麗だが、レイチェルのイメージではない気がする。
そんなことを考えながら店内を見回していると、木の台の上に、鈴蘭の花を活けた花瓶がたくさん置いてあるのが目に入った。
(鈴蘭……)
小さく白い、可憐な花。バラやユリといった華美な花よりも、彼女のイメージに合う。
「鈴蘭、かわいくて綺麗でしょう」
「!」
声をかけられたので振り向くと、花屋の名前が入ったエプロンを着けた50歳代くらいの女性が立っていた。
白髪混じりの黒髪に灰色の瞳、白い肌――ノルデン人だ。
見たところ、店員は彼女の他にはいないようだ。店主だろうか?
「贈り物ですか?」
「はい。その……妻になる人へ」
「まあ、素敵。それなら、鈴蘭はぴったりですね。鈴蘭の花言葉をご存知ですか?」
「……いえ」
「『幸福の再来』『希望』『純愛』『意識しない美しさ』です」
「素敵ですね」
鈴蘭が似合うかも――と考えついただけだったのが、思った以上に彼女にふさわしいもので驚いてしまう。
俺の反応を見て店員は「そうでしょう」とうれしそうに笑う。
「そう、それとね、ノルデンでは愛する人に鈴蘭を贈る習わしがあるんですよ。お客様も同郷のようですが、ご存知でしたか?」
「いえ……幼い頃にノルデンがああなってしまったので、ノルデンのことは全く知らなくて」
「……そう、ですか……申し訳ありません」
「気になさらないでください」
俺の感情を伴わない言葉に、店員は目を伏せて寂しげに笑った。
「…………」
この人は俺と違って亡国ノルデンに思い入れと愛着があるのだろう。
だが俺にとっての"ノルデン"はあの孤児院だ。呪わしい記憶しかないため、たとえば「国がない」と言われても何の感情も湧かない。
ノルデンの文化についてもそうだ。人生の大半をディオールで過ごした俺はノルデンの文化や習わしには全く馴染みがない。何もかもよその国の話のように感じられるのだ。
だが、全てが呪わしいものではないと分かった今、たまにはその文化にあやかって"ノルデン人"をやってみるのも悪くない気がした。
「すみません、……この鈴蘭、いただけますか」
「ありがとうございます」
店員は明るく微笑み、花瓶から取った鈴蘭の花をラッピングし始める。
「お待たせいたしました、どうぞ」
「ありがとうございます」
「……そうそう、鈴蘭の花言葉ですけれど、ノルデンではもうひとつ、とびきり素敵なものがあるんですよ」
「素敵なもの?」
俺が聞き返すと店員は「ええ」とまた笑う。
「それは……」
◇
「あっ、お帰りなさいグレンさん!!」
「ああ……ただいま」
アパートに戻ると、食卓に大量の料理が並べられていた。
サラダ、肉、魚、それにケーキまで……。
「……すごいな」
「えへへ、でしょー? 腕にヨリをかけて作ったんだから!」
「どうしたんだ、これ? 何かいいことでもあった……のか……?」
質問の途中でレイチェルはジトッとした目つきになり、頬をふくらませてしまう。
「あの……」
「んも~、グレンさんたら! やっぱり忘れてる~」
「え、……な、何を……」
「今日は5月16日! グレンさんの27歳の誕生日でしょー?」
「誕生……? ああ」
――そういえばそうだったか。
良かった。重要な記念日をすっぽかしてしまったのかと思って焦った。
「……すまない。15か16か17か、いつも曖昧で」
「もう忘れないでね。とっても嬉しくて特別な日だってこと、もう知ってるでしょ?」
「そう……だな。うん」
俺にとって"誕生日"は全くどうでもいい日だった。
俺はどこかの男と女の元に生まれた。だがそいつらにとって俺は必要ない存在だった。だから名前もつけずに捨てた。
生まれた日を迎えたからといって、「嬉しい」とか「めでたい」という気持ちは微塵も湧かなかった。
生まれの経緯を知った今、その考えは改めないといけない。でも……。
「ありがとう、レイチェル。本当に嬉しい。でも……27にもなる男をこんな盛大に祝わなくても」
「何歳だっておめでたいから祝うよ。去年はちっちゃいチョコあげただけだったし、ちゃんと心からお祝いしたいんだもん」
「あれだって十分嬉しかったけどな。……そう、ええと、これ」
言いながら、アディントンで買った鈴蘭の花束をレイチェルに差し出す。
「わっ、鈴蘭。……どうしたの、これ」
「ちょっと贈りたくなって」
「ふふ……グレンさんの誕生日なのに、わたしにお花くれるの? でも、嬉しい。綺麗だしかわいい。それに、とってもいい香り」
レイチェルが潤んだ瞳で鈴蘭の花を見つめる。
「…………」
……思った通り、よく似合う。
『幸福の再来』『希望』『純愛』『意識しない美しさ』――花言葉全てが、彼女を指し示している。
それから……。
『"ずっとあなたが好きでした"――それが、ノルデンの鈴蘭の花言葉です』
花屋の店主から聞いたノルデンの鈴蘭の花言葉――本当は、花を渡しながら言うつもりだった。
だがいざその場面を迎えると急激に恥ずかしくなってきて、言えなくなってしまった。
……まあいいか。
言う機会はいくらでもある。この先もずっと一緒にいるのだから。
言葉を引っ込める代わりに、花をつぶさないようレイチェルをそっと抱き寄せ、キスをした。
そのまま身を離さず額同士を付き合わせる。
「グレンさん。誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
「お花、嬉しい。わたしも、あとでプレゼント渡すね」
「ん……」
離れようとした彼女の肩を軽く押さえ、また唇を合わせた。
「……ね、食べましょ? わたしお花飾るから、グレンさんは座ってて」
「うん」
「今日、どこ行ってたの? 図書館?」
「ああ――……」
食事の用意をしながら、食事をしながら、今日の出来事を話す。
アディントンの街へ行ったこと。どこまで行っても盛り上がりも落ちもない、ドラマチックなことも何ひとつ起こらない――そんな、"なんでもない日常"の話を。
話を聞きながら、レイチェルが誕生日のプレゼントを渡してくれた。
万年筆と、それを入れるための革のケースだった。来月からの仕事に必要だろう、と思って用意してくれたらしい。
「初任給で買ったんですよ」と誇らしげに言う彼女が愛しくて、今日何度目か分からないキスをする。
「ありがとう、レイチェル。……愛してる」
ありがとう、俺を見つけてくれて。
捨てようとした心を拾い上げてくれて。
諦めようとした命を、未来を、あの闇の中からすくい上げてくれて。
この手を取って、一緒に未来を歩んでくれて……。
巡り会えて良かった。
ありがとう。好きだ。愛してる。
ずっと、ずっと好きだった。
……これからも、よろしく。
――――――――
お読みいただき、ありがとうございます。
次回、最終回です。
よろしくお願いいたします。
「ああ……おはよう」
5月中旬、砦の解散から1ヶ月半。
ある朝目を覚ますと、先に起きていたらしいレイチェルがダイニングで何か書き物をしていた。
時刻は7時。
「今日はずいぶん早いな」
「ふふふ、でしょ~?」
「……? 仕事、早出か何かか?」
「ちがうよー。今日はお休み」
俺が問うと、レイチェルがニコニコと笑う。ずいぶん嬉しそうだが、何かあったのだろうか。
俺より早く起きられたのが嬉しい? いや、まさかな……。
「ねえグレンさん、わたし昼からやることあって。悪いんですけど、夕方ごろまで出ててもらっていいですか?」
朝食を食べていると、レイチェルが俺の向かいに座ってそう言ってきた。
お祈りのように手を組み合わせて小首をかしげ、目をパチクリしている。
「……いいけど。やることって何だ?」
「ふふふ。ないしょ~♪」
言いながらレイチェルは人差し指を口に当ててウインクしてみせる。
(……かわいい)
最近レイチェルは、こんな風なちょっとあざといしぐさをするようになった。
天然なのか、狙ってやっているのか……。
「じゃあ、お願いね。……帰るの楽しみにしててね?」
「うん」
俺の返事を聞いたレイチェルは鼻歌まじりに身を翻し、小躍りしながらキッチンへ。
(かわいい)
――狙っていようが天然だろうがどうでもいい。レイチェルはいつだってかわいい。
何をやる気なのか知らないが、かわいいレイチェルの頼みなら俺はなんでも聞く。それでいいんだ。
◇
昼食後、レイチェルのお願い通りにアパートを出た。時刻は12時半。
どこで時間を潰そうかあれこれ考えた末、「アディントン」という街へ行くことにした。
(久しぶりだな、この街も……)
アディントンは、王都とポルト市の中間に位置する街。
大都市というわけではないが、様々な街へのアクセスの良さから冒険者がよく行動拠点にしている。砦からも近いため、俺達もよく立ち寄った。
街は景観が良く、どの施設もポルト市街とは趣が違っていた。カフェ、雑貨屋、服屋、博物館、美術品の市場など、どの店も小洒落ている。
ただ、残念ながらどの施設も利用したことはない。
何せ、この街に来ていたのはパーティ結成当初――"あの"状態のルカと、"あの"状態のジャミルとつるんでいたときだ。
俺は俺で虚無の状態――お互い交流する気などないので、「街を楽しく散策しよう!」ということにはなりようがない。
街に着いたら俺はギルドに向かい、ジャミルは教会へ。それが終わればルカの転移魔法でポルト市街へとんぼ返り――街の滞在時間は1時間にも満たなかったはず。
間違ってもお互い"仲間"と呼べる存在ではなかった。
あれから1年と少ししか経っていないのに、全てが変わった。
去年の今頃は、何をしていたのだったか……。
――ああ、そうだ。
レイチェルとルカが一緒に花の種を植えて、ちょうど今頃くらいに芽が出たんだった。それに呼応するように、ルカの感情も育っていって……。
ジャミルがレイチェルに怒鳴り散らしたのもこの頃だ。
あれで辞めてしまうのではないかと危惧したがめげることはなく、昔の話なんかをして逆に打ち解けていっていた。
それを見て俺は「なんだ、やっぱりそういう関係か」と思って、密かにふてくされていた。
そういえば、カイルが砦に来たのも5月だった。
レイチェルがあいつのことを「かっこいい」と言うから、「あいつ30歳だぞ」なんてわけの分からない牽制をした。
「ふ……」
――迷惑な奴だ。
思えば、自分の気持ちに気づく前からあの兄弟にはつまらない嫉妬心ばかり抱いていた気がする。
馬鹿だったな、本当に。
何もないようなふりをして、最初からレイチェルのことしか見ていなかった。
気持ちを捨て置くことなんか、できるはずがなかったんだ。
◇
「ふう……」
アディントンは「坂の街」と呼ばれるくらいに坂道と階段が多い街。
長い長い坂道を上りきった先には展望台があった。ここからアディントンの街並みが一望できる。
いい眺めだ――ここへ来る時に通ってきた緑の並木道や噴水広場、美術品の市場が全部見える。
この街は建物の壁と屋根の色が全て統一されていて、それも綺麗だ。
「空との調和のために条例で建物の色が決められている」と、展望台にある立て札に書いてあった。
――展望台のベンチに座って考えるのは、これから先のこと。
俺は来月からカルム市街にある小学校で教師として働くことになった。
図書館でチャドとヒュウに勉強を教えたことがきっかけだ。
2人が通っている学校の校長先生に俺を猛烈に推したとかでなぜか面接を受けることになり、なぜか採用の運びに……。
仕事を探してはいたが、まさかこんなことになるとは。
教師なんて俺に絶対向いてないだろうと思うが、レイチェルやジャミルには「やってみたら意外といけるんじゃない?」と言われてしまった。
――そうなのか。全然分からない。正直、司書の仕事以上に不安で仕方がない。
でもまあ、やれるだけやってみようと思っている。
なんというか、人生何がどうなるか分からないな、いいことも悪いことも……。
◇
(……もう、戻ってもいいかな?)
カフェや本屋や博物館を巡って時間を潰した。時刻は夕方4時。
「夕方頃まで出ていて」ということだったから、そろそろ帰ってもいい頃合いだ。
――というか、昼から夕方まで一体何をやっているんだろうか? 気になる……。
「ん……?」
坂道を下っていると、左手に小さな花屋が現れた。店先には季節の花とともに、「大切なあの人に、小さな心の贈り物」と書いた黒板が置かれている。
(花か……)
――別になんでもない日だけど、花でも買って贈ってみようか。
プロポーズとか重要な場面で使うわけじゃないから、決めるのにそんなに時間は食わないだろうし……。
店に入ると、どこかから「いらっしゃいませ」という女性の声が聞こえてきた。
店内は思ったよりも広く、明るい。
バラやユリ、チューリップなど、他にも色とりどりの季節の花が並んでいる。
――何を贈ろうか?
バラやユリはもちろん綺麗だが、レイチェルのイメージではない気がする。
そんなことを考えながら店内を見回していると、木の台の上に、鈴蘭の花を活けた花瓶がたくさん置いてあるのが目に入った。
(鈴蘭……)
小さく白い、可憐な花。バラやユリといった華美な花よりも、彼女のイメージに合う。
「鈴蘭、かわいくて綺麗でしょう」
「!」
声をかけられたので振り向くと、花屋の名前が入ったエプロンを着けた50歳代くらいの女性が立っていた。
白髪混じりの黒髪に灰色の瞳、白い肌――ノルデン人だ。
見たところ、店員は彼女の他にはいないようだ。店主だろうか?
「贈り物ですか?」
「はい。その……妻になる人へ」
「まあ、素敵。それなら、鈴蘭はぴったりですね。鈴蘭の花言葉をご存知ですか?」
「……いえ」
「『幸福の再来』『希望』『純愛』『意識しない美しさ』です」
「素敵ですね」
鈴蘭が似合うかも――と考えついただけだったのが、思った以上に彼女にふさわしいもので驚いてしまう。
俺の反応を見て店員は「そうでしょう」とうれしそうに笑う。
「そう、それとね、ノルデンでは愛する人に鈴蘭を贈る習わしがあるんですよ。お客様も同郷のようですが、ご存知でしたか?」
「いえ……幼い頃にノルデンがああなってしまったので、ノルデンのことは全く知らなくて」
「……そう、ですか……申し訳ありません」
「気になさらないでください」
俺の感情を伴わない言葉に、店員は目を伏せて寂しげに笑った。
「…………」
この人は俺と違って亡国ノルデンに思い入れと愛着があるのだろう。
だが俺にとっての"ノルデン"はあの孤児院だ。呪わしい記憶しかないため、たとえば「国がない」と言われても何の感情も湧かない。
ノルデンの文化についてもそうだ。人生の大半をディオールで過ごした俺はノルデンの文化や習わしには全く馴染みがない。何もかもよその国の話のように感じられるのだ。
だが、全てが呪わしいものではないと分かった今、たまにはその文化にあやかって"ノルデン人"をやってみるのも悪くない気がした。
「すみません、……この鈴蘭、いただけますか」
「ありがとうございます」
店員は明るく微笑み、花瓶から取った鈴蘭の花をラッピングし始める。
「お待たせいたしました、どうぞ」
「ありがとうございます」
「……そうそう、鈴蘭の花言葉ですけれど、ノルデンではもうひとつ、とびきり素敵なものがあるんですよ」
「素敵なもの?」
俺が聞き返すと店員は「ええ」とまた笑う。
「それは……」
◇
「あっ、お帰りなさいグレンさん!!」
「ああ……ただいま」
アパートに戻ると、食卓に大量の料理が並べられていた。
サラダ、肉、魚、それにケーキまで……。
「……すごいな」
「えへへ、でしょー? 腕にヨリをかけて作ったんだから!」
「どうしたんだ、これ? 何かいいことでもあった……のか……?」
質問の途中でレイチェルはジトッとした目つきになり、頬をふくらませてしまう。
「あの……」
「んも~、グレンさんたら! やっぱり忘れてる~」
「え、……な、何を……」
「今日は5月16日! グレンさんの27歳の誕生日でしょー?」
「誕生……? ああ」
――そういえばそうだったか。
良かった。重要な記念日をすっぽかしてしまったのかと思って焦った。
「……すまない。15か16か17か、いつも曖昧で」
「もう忘れないでね。とっても嬉しくて特別な日だってこと、もう知ってるでしょ?」
「そう……だな。うん」
俺にとって"誕生日"は全くどうでもいい日だった。
俺はどこかの男と女の元に生まれた。だがそいつらにとって俺は必要ない存在だった。だから名前もつけずに捨てた。
生まれた日を迎えたからといって、「嬉しい」とか「めでたい」という気持ちは微塵も湧かなかった。
生まれの経緯を知った今、その考えは改めないといけない。でも……。
「ありがとう、レイチェル。本当に嬉しい。でも……27にもなる男をこんな盛大に祝わなくても」
「何歳だっておめでたいから祝うよ。去年はちっちゃいチョコあげただけだったし、ちゃんと心からお祝いしたいんだもん」
「あれだって十分嬉しかったけどな。……そう、ええと、これ」
言いながら、アディントンで買った鈴蘭の花束をレイチェルに差し出す。
「わっ、鈴蘭。……どうしたの、これ」
「ちょっと贈りたくなって」
「ふふ……グレンさんの誕生日なのに、わたしにお花くれるの? でも、嬉しい。綺麗だしかわいい。それに、とってもいい香り」
レイチェルが潤んだ瞳で鈴蘭の花を見つめる。
「…………」
……思った通り、よく似合う。
『幸福の再来』『希望』『純愛』『意識しない美しさ』――花言葉全てが、彼女を指し示している。
それから……。
『"ずっとあなたが好きでした"――それが、ノルデンの鈴蘭の花言葉です』
花屋の店主から聞いたノルデンの鈴蘭の花言葉――本当は、花を渡しながら言うつもりだった。
だがいざその場面を迎えると急激に恥ずかしくなってきて、言えなくなってしまった。
……まあいいか。
言う機会はいくらでもある。この先もずっと一緒にいるのだから。
言葉を引っ込める代わりに、花をつぶさないようレイチェルをそっと抱き寄せ、キスをした。
そのまま身を離さず額同士を付き合わせる。
「グレンさん。誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
「お花、嬉しい。わたしも、あとでプレゼント渡すね」
「ん……」
離れようとした彼女の肩を軽く押さえ、また唇を合わせた。
「……ね、食べましょ? わたしお花飾るから、グレンさんは座ってて」
「うん」
「今日、どこ行ってたの? 図書館?」
「ああ――……」
食事の用意をしながら、食事をしながら、今日の出来事を話す。
アディントンの街へ行ったこと。どこまで行っても盛り上がりも落ちもない、ドラマチックなことも何ひとつ起こらない――そんな、"なんでもない日常"の話を。
話を聞きながら、レイチェルが誕生日のプレゼントを渡してくれた。
万年筆と、それを入れるための革のケースだった。来月からの仕事に必要だろう、と思って用意してくれたらしい。
「初任給で買ったんですよ」と誇らしげに言う彼女が愛しくて、今日何度目か分からないキスをする。
「ありがとう、レイチェル。……愛してる」
ありがとう、俺を見つけてくれて。
捨てようとした心を拾い上げてくれて。
諦めようとした命を、未来を、あの闇の中からすくい上げてくれて。
この手を取って、一緒に未来を歩んでくれて……。
巡り会えて良かった。
ありがとう。好きだ。愛してる。
ずっと、ずっと好きだった。
……これからも、よろしく。
――――――――
お読みいただき、ありがとうございます。
次回、最終回です。
よろしくお願いいたします。
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