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15章 祈り(中)
◆イリアス―ひとつの幕引き
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意識の闇の海に沈み、溶け消えそうな心――今頭の中にあるのは、知らない誰かの記憶。
それは確かに自分のものではないと思うのに、この意識の海には自分の記憶の欠片がひとつも見当たらない。
自分は一体どこの誰なんだろう。
名前がいくつかあったような気がするのに、何も、何も、思い出せない――。
……イリアス……。
(…………?)
視界に入り込む、わずかな光――天の高さほどまで離れてしまった水面から、誰かが呼んでいる。
……イリアス、イリアス……。
――この声、聞き覚えがある気がする。
一体、誰、だったか――……。
「イリアス! ……イリアス・トロンヘイム!!」
「!!」
そう呼ばれた瞬間、目の前に光がバァーッと広がった……。
――――――………………
――――…………
――……
「イリアス! イリアス! しっかりしなさい、イリアス!!」
「…………」
誰かが大声で呼びかけながら僕の身体を揺さぶっている。
この、声は……。
「あ……」
「ああ、気がついたか! よかった……」
「……あ……、せん、せ……?」
目を開けると、そこには"先生"――ミハイール・モロゾフがいた。
目線だけで辺りを見回すと、そこはミハイールの教会にある自分の部屋。
ミハイールの傍らに生える"木"には、"動揺"や"憂慮"といった葉がついている。
「僕、は……」
「……昨日出かけたまま、夜になっても帰ってこないから心配していたんだ。一体、どこに行っていたんだね」
「…………申し訳、ありません。昨日は友達の家に泊まっていて……」
「なるほど。君ももう成人が近いのだから、行動を逐一報告する必要はないが……。それでも、帰らないときは誰かに言っておいてくれると嬉しいよ」
「…………、はい」
(…………)
――どうしてここにいるのだろう。
僕は確か昨日、街で出会った司教ロゴスに連れられ光の塾へ行ったはず。どうやって帰ってきたんだ?
記憶がひどく曖昧だ。もしかして"あれ"は悪い夢だったんじゃないだろうか……?
「あの……先生……」
「うん?」
「…………」
「どうした?」
「…………、…………」
――……先生。
先生、
先生、
せんせい……。
……ど、う、し、て……。
「…………っ!!」
"先生"と唱えた瞬間、頭の中に「あの出来事」の記憶が濁流のように押し寄せてきた。
血の匂い、風の生温い感覚、旋風が人間を切り裂いた音。
断末魔の悲鳴、フェリペの、ニコライの、シモンの叫び声……。
……夢じゃない。何もかも、全て現実のもの――。
シモンは僕に"真理"の名と記憶を押しつけた。
それで……そのあとは……?
「イリアス、……イリアス!!」
「!!」
ミハイールの大きな声で、思考が現実に引き戻された。
彼の"木"につく"憂慮"の葉が増えている――この人がここまで感情を動かすのは珍しい。
「……やはり、様子がおかしい。……何かあったのか?」
「あ……」
――言うんだ。こんなの、独りで背負うには重すぎるだろう。
ミハイール先生は、ロゴスともニコライとも違う。
何もかも言ってしまえば、きっと先生は助けてくれる――……。
「…………き、昨日、友達に、酒を勧められて……それで、断り切れずに、飲んでしまいました」
「……本当に?」
「はい。……申し訳ありません」
「……謝る必要はない。酒は確かに美味いけれど、20歳を超えてからにするんだよ。司祭を目指すのならば、人々の規範とならなければ」
「…………はい」
ミハイールの木に"疑惑"の葉がついている。でもこれ以上の追求はきっとしないだろう。
僕の顔色を見てミハイールは「今日は仕事を休みなさい」と言い、部屋を出て行こうとする――。
「ミ……、ミハイール、先生っ!!」
「!」
ミハイールが驚いた顔でこちらを振り向いた。
僕が大声を出したことが珍しかったのだろう。
「……どうした?」
「あ…………、あ…………の」
何を言うために呼び止めたのか分からない。
助けを求めるため、本当のことを話すため……どちらも何かちがう。
何を、この人に、求めているのか……。
「ぼ……、僕のっ……名前は……、"イリアス・トロンヘイム"……ですか?」
「…………」
わけの分からない問いにミハイールが目を丸くする。しかし、またすぐにいつものような微笑み顔に戻った。
「……君の名は"イリアス・トロンヘイム"――それ以外の君を、私は知らないよ。たとえ君が何者であったとしても、私は変わらない」
「…………!」
その言葉に涙が出そうになる。しかし……。
「……ありがとう、ございます……すみません、妙なことを」
「構わない。疲れているのだろう、ゆっくり休みなさい」
言いながらミハイールは僕の肩をポンと叩き、扉を開けて出て行った。
◇
結局、そこから先も何も言うことはできなかった。
僕はこの教会でずっと、"可哀想な孤児イリアス"の役を演じていた。
"天使"にとって邪魔な、感情という"穢れ"を受け持つ役だ。
孤児イリアスには心がある、感情がある。
正直で心優しい、良い子だ。だが、こいつは人一倍臆病だった。
だから、真実を告げることはできなかった。
"天使"のことを、ロゴスとの関係や過去の殺人歴を知られれば先生や皆に失望され、嫌われ、追い出されると思ったのだ。
ほんの十数時間前、人が裏切られて捨てられる瞬間を見た。
「何があっても変わらない」――先生のその言葉を信じぬけるほど、僕は意志も心も強くなかった。
――ああ、そうだったなあ。
この時までなら僕は完全なる被害者で、ひたすら可哀想な少年だった。
でも、そこから先の方が長いからなあ……。
それは確かに自分のものではないと思うのに、この意識の海には自分の記憶の欠片がひとつも見当たらない。
自分は一体どこの誰なんだろう。
名前がいくつかあったような気がするのに、何も、何も、思い出せない――。
……イリアス……。
(…………?)
視界に入り込む、わずかな光――天の高さほどまで離れてしまった水面から、誰かが呼んでいる。
……イリアス、イリアス……。
――この声、聞き覚えがある気がする。
一体、誰、だったか――……。
「イリアス! ……イリアス・トロンヘイム!!」
「!!」
そう呼ばれた瞬間、目の前に光がバァーッと広がった……。
――――――………………
――――…………
――……
「イリアス! イリアス! しっかりしなさい、イリアス!!」
「…………」
誰かが大声で呼びかけながら僕の身体を揺さぶっている。
この、声は……。
「あ……」
「ああ、気がついたか! よかった……」
「……あ……、せん、せ……?」
目を開けると、そこには"先生"――ミハイール・モロゾフがいた。
目線だけで辺りを見回すと、そこはミハイールの教会にある自分の部屋。
ミハイールの傍らに生える"木"には、"動揺"や"憂慮"といった葉がついている。
「僕、は……」
「……昨日出かけたまま、夜になっても帰ってこないから心配していたんだ。一体、どこに行っていたんだね」
「…………申し訳、ありません。昨日は友達の家に泊まっていて……」
「なるほど。君ももう成人が近いのだから、行動を逐一報告する必要はないが……。それでも、帰らないときは誰かに言っておいてくれると嬉しいよ」
「…………、はい」
(…………)
――どうしてここにいるのだろう。
僕は確か昨日、街で出会った司教ロゴスに連れられ光の塾へ行ったはず。どうやって帰ってきたんだ?
記憶がひどく曖昧だ。もしかして"あれ"は悪い夢だったんじゃないだろうか……?
「あの……先生……」
「うん?」
「…………」
「どうした?」
「…………、…………」
――……先生。
先生、
先生、
せんせい……。
……ど、う、し、て……。
「…………っ!!」
"先生"と唱えた瞬間、頭の中に「あの出来事」の記憶が濁流のように押し寄せてきた。
血の匂い、風の生温い感覚、旋風が人間を切り裂いた音。
断末魔の悲鳴、フェリペの、ニコライの、シモンの叫び声……。
……夢じゃない。何もかも、全て現実のもの――。
シモンは僕に"真理"の名と記憶を押しつけた。
それで……そのあとは……?
「イリアス、……イリアス!!」
「!!」
ミハイールの大きな声で、思考が現実に引き戻された。
彼の"木"につく"憂慮"の葉が増えている――この人がここまで感情を動かすのは珍しい。
「……やはり、様子がおかしい。……何かあったのか?」
「あ……」
――言うんだ。こんなの、独りで背負うには重すぎるだろう。
ミハイール先生は、ロゴスともニコライとも違う。
何もかも言ってしまえば、きっと先生は助けてくれる――……。
「…………き、昨日、友達に、酒を勧められて……それで、断り切れずに、飲んでしまいました」
「……本当に?」
「はい。……申し訳ありません」
「……謝る必要はない。酒は確かに美味いけれど、20歳を超えてからにするんだよ。司祭を目指すのならば、人々の規範とならなければ」
「…………はい」
ミハイールの木に"疑惑"の葉がついている。でもこれ以上の追求はきっとしないだろう。
僕の顔色を見てミハイールは「今日は仕事を休みなさい」と言い、部屋を出て行こうとする――。
「ミ……、ミハイール、先生っ!!」
「!」
ミハイールが驚いた顔でこちらを振り向いた。
僕が大声を出したことが珍しかったのだろう。
「……どうした?」
「あ…………、あ…………の」
何を言うために呼び止めたのか分からない。
助けを求めるため、本当のことを話すため……どちらも何かちがう。
何を、この人に、求めているのか……。
「ぼ……、僕のっ……名前は……、"イリアス・トロンヘイム"……ですか?」
「…………」
わけの分からない問いにミハイールが目を丸くする。しかし、またすぐにいつものような微笑み顔に戻った。
「……君の名は"イリアス・トロンヘイム"――それ以外の君を、私は知らないよ。たとえ君が何者であったとしても、私は変わらない」
「…………!」
その言葉に涙が出そうになる。しかし……。
「……ありがとう、ございます……すみません、妙なことを」
「構わない。疲れているのだろう、ゆっくり休みなさい」
言いながらミハイールは僕の肩をポンと叩き、扉を開けて出て行った。
◇
結局、そこから先も何も言うことはできなかった。
僕はこの教会でずっと、"可哀想な孤児イリアス"の役を演じていた。
"天使"にとって邪魔な、感情という"穢れ"を受け持つ役だ。
孤児イリアスには心がある、感情がある。
正直で心優しい、良い子だ。だが、こいつは人一倍臆病だった。
だから、真実を告げることはできなかった。
"天使"のことを、ロゴスとの関係や過去の殺人歴を知られれば先生や皆に失望され、嫌われ、追い出されると思ったのだ。
ほんの十数時間前、人が裏切られて捨てられる瞬間を見た。
「何があっても変わらない」――先生のその言葉を信じぬけるほど、僕は意志も心も強くなかった。
――ああ、そうだったなあ。
この時までなら僕は完全なる被害者で、ひたすら可哀想な少年だった。
でも、そこから先の方が長いからなあ……。
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