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15章 祈り(中)

◆イリアス―真理、司教、先生(前)※不快表現あり

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 ――試練としてヒトの世に出て、2年。
 ヒトの世に出ると言っても光の塾と完全に切り離されたわけではない。
 定期的に司教ロゴスが僕の元に現れ、試練の進捗を尋ねてくる。
 ロゴスは僕が1人になったタイミングで現れる。大抵、買い物などで街へ出ている時だ。歩いていると後ろから僕の手を取って建物の間などの物陰に引き入れ、壁に押しつけて迫ってくる。
 
「やあ、天使ヨハン。……久しぶりだ。元気にしていたかな?」
「…………」
 
 ――嫌だ。この人と一緒にいるところを見られたくない。
 
 彼の身なりは一見神父のようだが、服装や装飾具などはミランダ教そして聖光神団せいこうしんだん、いずれのものとも異なっていた。むしろ、どちらの宗教も冒涜ぼうとくしているとすら言えるものだ。彼自身の腰まで伸ばした紫色の長髪と併せて、一緒にいるととにかく目立つ。
 
 人気ひとけのない場所で、異教徒かもしれない不審な男にベタベタと触れられながら密談を――こんなところ、知り合いに見られたらどう思われるか……。
 
(……ヨハン……、ヨハン……)
 
「――……はい、ロゴス様。天使ヨハンは問題なく過ごしております」
「ヒトにけがれを与えられてはいない?」
「はい」
 
 "ヒト"であるイリアスを演じ始めて数ヶ月ほど経ってから、僕は"天使"のヨハンも演じるようになっていた。
 ヨハンは敬虔けいけんな光の塾の信徒。聖司せいしであり、穢れなき天使。ロゴスと話す時、光の塾へ帰る時はヨハンの"役"をこの身に降ろす。
 
 ――そうだ。役を演じていると思えば、何も、苦痛は、ない……。
 
「……そう。じゃあ、もうすぐ僕のもとに帰ってこられるね」
「!」
 
 ロゴスが薄く笑いながら頬を手で包み、その手を滑らせるようにして撫でる。
 
「し……、……試練が、終わる」
「そうだよ――」
 
 ロゴスが唇を合わせてきて、耳元で「もうすぐだね」と囁いた。
 彼の足元にある紫色の植物がしゅるりと伸び、気味の悪いつぼみをつける――。
 
「…………っ」
 
 寒気がして、冷や汗が流れる。
 ロゴスが僕を物陰に引き込む一番の目的はこれだった。
 この紫色の植物を見たことがある。光の塾にたまに戻った時、そしてヒトの世の歓楽街を通った時、そこにいる人間が必ずと言っていいほど引き連れている。
 この植物は色欲の象徴。
 この人は、僕に欲情しているんだ――。
 
 光の塾はモノ作り禁止、喜怒哀楽の感情を持つことは禁止。もちろん、"欲しがる"ことだって禁止だ。
 それなのに、上の位にいる者達ほどそういった欲望を抱え込んでいた。
 
 光の塾に戻ったとき、施設内の部屋のどこかから必ず"声"が聞こえていた。それは男であったり女であったり、様々。
 誰も彼も欲が満たされるなら相手の性別や年齢にはこだわらないようだった。
 
 特に教祖――"神"と呼ばれている「ニコライ・フリーデン」という男は、とんでもない"欲"の化け物だった。
 食の喜びは禁止だというのにいつも高級な果物や肉を食って太り放題、傍らには常に見目麗しい女を数人はべらしている。女はいずれも裸同然の卑猥ひわいな格好だった。
 
 奴の部屋には、巨大な"樹"があった。色欲、食欲、金銭欲、虚栄、怠惰、嫉妬――むき出しになった醜い感情が複雑に絡み合った、醜悪な樹の化け物だ。
 あの男には何の力もないし、言葉はいつも驚くほどに軽い。太っているだけで、威厳など欠片かけらもない。
 信徒の多くは紋章の力を持っていて、あの男よりも余程に有能だ。それなのに、皆奴の言葉をありがたがって平伏ひれふしている。
 あの男があんな化け物を引き連れているから、おそれを抱いているのだろうか……?
 
「……天使ヨハン」
「!」
 
 よそ事を考えているところ、ロゴスの呼びかけで引き戻された。
 顔が間近にせまり、生温い吐息が頬や耳にかかる。
 ――ぞわぞわする。"ヒト"のイリアス、"天使"のヨハン、どちらの役もこれに対応できない。
 
 この人はいつも、身体に触れて唇を合わせる以上のことはしない。
 けど、もし試練を終えて光の塾に戻ったら……その時、彼はきっと何もかも踏み越えてくる。
 僕にも存在するはずの"植物"は、彼の色欲の花に食い尽くされ、同じ色に染め上げられてしまうんだ……。
 
「も、申し訳、ありません……考えごとを」
「いけないな。やはり、ヒトに惑わされているようだ」
「え……? いえ、そのようなことは、決して――」
「しかし、それも仕方がないな。君のそばにいるヒトは、ヒトの中でも一番罪深く汚い、悪魔のような存在なのだから」
「……悪魔? それは……」
「君が"先生"と呼んで敬愛している、ミハイール・モロゾフという男さ」
「け……敬愛、なんて、していません」
「ふふ、どうかなあ……じゃあ、これは知っている? あの男、過去に殺人の罪で服役していたことがあるんだ」
「え……!?」
「40年以上前の話だけれどね。……当時住んでいた村の領主の息子を、めった刺しにして殺したという話だよ。服役途中で新しい教皇が就任して、恩赦おんしゃされたらしいけれど……」
「…………」
「憎悪という最大限に穢れた感情をぶら下げながら、女神の教えを説く……なんと罪深い行為だろうか。ヨハン、罪人の言葉など聞いてはいけないよ? 君も穢れてしまう」
「…………」
 
 今僕は、"天使ヨハン"の役をやっている。だからミハイールが何をしていようが知ったことではない。
 ヨハンは司教ロゴスの言葉を盲信し、かしずく役。なのに、「分かりました」という言葉を返せない。
 今心の内に引っ込めている"イリアス"が邪魔をしているんだ。
 
 ――どうして邪魔をするんだ。お前は穢れを背負うために存在する"端役"だ。端役がメインの役のセリフを食っていいわけがないだろう、大人しく引っ込んでろ。
 
「……ヨハン」
「!」
 
 ロゴスが僕の髪をきながら笑みを浮かべる。
 彼の紫色の植物に、新たな葉がついている。
 "憐れみ"を示す葉だ――僕が何も言えないでいるのを、今の話にショックを受けたからだと思っているらしい。
 
「君に、ヒトの最も卑劣な所業を教えておいてあげよう。……ヒトは、ヒトを壊すんだ」
「壊す……?」
「そう。どうやって壊すか? ……ヒトはヒトの"信仰"を否定して、まやかしだと証明してくるんだよ」
「……まやかし……」 
「そう。神でも、人間でも、モノでもいい。ヒトが心の拠り所にしているものを、ないものとするんだ。妙な理屈をこねて、時にはでたらめな言葉で畳みかける。……自身の大事な信仰を否定された者の心はズタズタになってしまう。ヒトは時に平気でそれを行うんだ。他者が信じているものが気に入らない……ただそれだけの理由で」
「…………」
「君の先生も、君を壊す最高のタイミングを狙っているんだ。近い将来、君は必ず裏切られる」
「…………、…………」
 
 ――違う、ミハイール先生は、僕を裏切ったりしない。
 
『でも人殺しだぞ、凶悪犯だ、どうしてそれを黙っているんだ』
 
 ――それは分からないけど……きっと、先生には先生のお考えがあるんだ。
 
『たった2年で何が分かるんだよ。ロゴス様のおっしゃることこそ真実だ』
 
 ――ロゴスと過ごした年数だって実質3年ほどじゃないか。お前こそロゴスの何を知っているんだ。
 
『知る必要なんかない! ロゴス様はボクを救ってくれた、それで十分だ! ロゴスは真理。あの方の言葉に間違いがあるはずないんだ!』
 
 ――何が真理ロゴスだ、間違いだらけじゃないか! こいつの"木"を見ろよ、感情は穢れだと言うくせに欲と感情まみれだ。知ってるだろう、こいつは僕に欲情している。こいつに付き従っていたら僕はそのうちこいつにられ――……、
 
「――いけないなあ、ヨハン……!!」
「うぁ……っ!」
 
 大声とともにロゴスが僕の髪の毛を引っ掴み、もう片方の手で顎を持ち押さえつける。
 語気からして明らかに怒っているが、その顔には笑みを浮かべたまま。それがより一層、恐怖心を煽り立てる。
 
「ロ、ロゴス……、様……」
「すっかりヒトの原罪に染まってしまったね、ヨハン。……良くない"風"が吹いている」
「か……、ぜ……?」
「君には今、2つの風がまつわりついている。"空虚"、そして……"叛乱はんらん"の風だ」
「……!!」
 
 ――そうだ。彼も紋章保持者。僕に"芽"や"木"が視えるように、彼には風が視えている。
 紋章の力に目覚めて5年程度の小僧が、付け焼き刃の演技で"真理"を欺けるはずがなかったんだ。
 
「一体今、心の中で何を戦わせていたのだろう。……駄目だなあ、試練になんて出さなければよかった! ……ヨハン、一度、戻ろうか」
「も、どる……、ヒッ!」
 
 思わず悲鳴を上げてしまう。
 見れば、彼の足元にあるあの色欲のつぼみが花開いていた。花の中心から蜜がポトリポトリとしたたり落ちている。
 
「……そう。穢れを取り払わなければ。……また、新しい君に生まれ変わろうね」
 
 ロゴスが僕の肩に手を置き念じると、視界から街の建物が消えていく。
 転移魔法だ。今から光の塾に連れて行かれる。僕はロゴスの手により穢れを取り払われ、生まれ変わる。

 それが、意味する、ことは――……。
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