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【第3部】13章 切り裂く刃
4話 聖女
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「ジャミル君……」
「ん?」
「あの、話したいことが、あって」
「話?」
2月中旬。
伝えなければいけないことがあり、砦の厨房で洗い物をしているジャミル君に声を掛けた。
彼が1人になるのを待っていた。
厨房にいるときは大体カイルさんも一緒だから、ここ1週間くらいスキをうかがってずっとうだうだしていた。
今日カイルさんは不在。王都にイリアス関連の情報集めをしに行っているようだ。
あたしは自分の気分を隠すのが下手だ――明らかに沈んだ表情のあたしを見て、彼は洗い物のあとの手を拭いてからメガネを上げ、あたしに向き直る。笑顔ではあるけど、話しかけた時よりも神妙な顔になっている。
「……深刻な話?」
「うん……できればあの、2人きり、誰も来ない所で」
「ん、分かった」
そう言って彼は使い魔を呼び出し、扉を出現させる。
彼に背中を押されながら一緒に扉を通ると、どこかの部屋に辿り着いた。
置いてあるものは、砦の彼の部屋のそれに少し似ている。
「ここって、ジャミル君の家?」
「そ。……飲みもん入れるから、その辺テキトーに座って」
「うん」
そう促され、あたしは部屋に置いてあるローソファに腰かけた。柔らかくて座り心地がよく、クッションがいくつか置いてある。
「……カニ」
リアルなカニが描かれたもちもちのクッション。
――これタラバガニかしら? カニが好きだからって、いくらなんでも……。
ソファの前にあるローテーブルには服の雑誌、それに料理の本。
砦の彼の部屋と同じく、細々とした物はあるけどいずれも綺麗に整頓されていて、彼の几帳面ぶりが伺える。
隊長もそうだけど、2人ともカイルさんとは正反対ね……。
(いやだわ……)
もっとちがう場面で来たかった。
本当なら嬉しくてドキドキするはずのもの全てが、胸を締め付ける。
「お待たせ」
「! あ、これ……」
出された飲み物を見て、思わず顔がほころぶ。
「そ、エクストリームココア」
「「極」」
思わぬ言葉が被ってしまって、2人顔を合わせて笑う。
――そう。夏頃、ガツンと甘い物が飲みたいという彼が、これを作って出してくれた。
「あの時、ダサいとか言っちゃった……ごめんね」
「いや別に。男児的ネーミングだし仕方ねえよなぁ……で?」
「え?」
「話って何? ……良くない話なんだよな」
「うん……あの、父から手紙が来て」
「……手紙」
「うん」
ココアの入ったカップを両手で包んでギュッと握る。
「……聖女候補に選ばれたから、帰ってきなさいって」
「え……」
彼が、手に持っているカップを取り落とした。ガシャンという音とともにガラスのテーブルにココアがじわりと広がり、置いてある雑誌に染み込んでいく。
「うわっ、わ、わりい。……かかってないか?」
「う、うん、大丈夫」
「すぐ拭くから……」
そう言って彼はキッチンから布巾を持ってきて、こぼれたココアを素早く拭き去る。
飲食業で働いているからだろうか、こういうトラブルへの対処が早い。
――聖女。
ロレーヌの国教とも言えるミランダ教のトップの1人。
もう1人のトップは教皇様。多くの司祭や教会をまとめ上げる存在だ。
そして聖女は祈ることで加護と豊穣をもたらし、人々の安寧を守る存在と言われている。
教皇様とちがい、表舞台に出ることはない。
任期の間ほとんどを眠って過ごす。眠りの世界で祈りを捧げ続けるのだ。
「眠りの世界」というものがよく分かっていなかったけれど、今なら分かる。
「意識の闇の世界」――きっとそれだ。
ミランダ教の女神は、闇の女神。
光の神によって暗く冷たい世界に堕とされた人間をあわれみ、自然と豊穣と魔法の力を与えた女神。
そして同時に、戒めとして天と人々の心に闇を残していった女神――。
眠ると人は意識の世界へ導かれる。その最深部は、先日あたし達が落ちた意識の闇。
眠り続けることで意識の底へ沈み、聖女は闇の女神の境地へ達するのだろう……。
闇は必ずしも"悪"じゃない。それを得たことでどうするかは、その人間次第。
だから、心が……魂が意識の海を彷徨っても帰って来れなくなるわけじゃないし、死ぬわけでもない。
ただ……。
「5年……だよな」
「うん……その間、みんなあたしを忘れるわ」
「…………」
その言葉を聞いて、彼はテーブルの上で手を組んで黙り込んでしまう。
任期の間、聖女は個人としての名前を女神様に預けて、ただ"聖女"という肩書きのみになる。
"ベルナデッタ・サンチェス"という名前は5年間封印され、その名を呼ぶことはできない。
隊長の「意識の闇の世界」と同じ――この段階になって、「名前を預ける」という意味がようやく分かった。
あの世界であたし達が隊長の顔も名前も忘れたように、あたしが聖女に選ばれたら5年間同じ状態になる。
親類縁者であっても例外なく――そう、愛し合った恋人でさえも。
レイチェルも、隊長の闇の中でそうなったと言っていた。
「……オレは……オレだって、ミランダ教徒だ。だからこんな……こんなこと言うのは不敬なんだろうけど」
「ジャミル君……」
「聖女に選ばれるのは名誉だって言うけど、オレはベルに、そんなものになって欲しくない」
「……あたしも、選ばれたくない。だってジャミル君があたしのこと忘れるなんて嫌だもの……!」
泣きながらそう言うと、彼はあたしを強く抱きしめた。
死ぬわけじゃないから、5年経てばまた会える。
だけど5年の間、あたしは全ての人の記憶の中でぼやけた存在になる。
相手がいたかいなかったかも不明瞭になれば、その間に別の人を好きになるかもしれない。
任期が終わるまで待っていて欲しいなんて言えない。
嫌だ。そんな聖女になりたくない。
だけど、ミランダ教を信奉する者がそれを拒否することは女神の意思に背くことになる。
「婚約者がいる」なんてことよりも、よほどに大きい壁なのだ。
「ごめんなさい……今は、選ばれないことを祈ってて……」
そう言ってから身を離すと、泣きそうな顔をした彼があたしの頬を包んで、唇を重ねてきた。
――嫌だ。これが最後の口づけになんて、なって欲しくない……。
◇
「……そういうわけで……申し訳ありません。ひょっとしたら、もう戻って来れないかもしれません」
「……そうか。分かった」
翌日、隊長にここを去ることを伝えた。
隊長はミランダ教徒ではないからか、あまり深刻な反応ではなかった。
それはそれで救われるような気がしてくる……。
「お世話になりました」
「俺は別に世話をしていないが」
「住居と、お給料もらっていましたわ」
「それもそうか。じゃあ、最後に給料を渡しておこうかな」
隊長が座ったまま引き出しから分厚い封筒を取り出し、こちらに渡してくる。
「ひゃっ……分厚い」
「ラーメンもお菓子もうまかったから」
「あ、ありがとうございます……」
ジャミル君も辞めた時に相当量のお金をもらったと聞いた……同じ場面に遭遇するとちょっと怖いわね。
「あ……あの、隊長」
「ん?」
「あ……ええと」
受け取った封筒を握りしめて、しばし逡巡する。
聞くべきか、聞かないべきか……でもこれは、この人にしか聞けない。
「あの……、無礼なことを、聞いてしまいます。でもどうしても、お聞きしたいのです」
「君が俺に? 一体……」
「あ、あたし……は、公衆の面前で、罵倒や嘲笑をされることが、多々、ありまして」
「…………」
「そ、そういう時、隊長は……何を、考えていましたか」
震える声でようやくそう切り出すと、隊長は机に肘をついてその手で口元を隠し、眼前に立っているあたしを見上げた。
眉間にしわが寄っている――当然だ。
――ああ、本当に無礼だ……信じられない。
でも、あたしが母から食らう罵倒や嘲りは、あの「副院長」のものに似ていた。だからこそ聞きたかった。
罵倒をされている間、幼い隊長はずっと黙っていた。黒い泥に置き換わっていたからどんな表情をしていたか分からず、感情も読めない。
あんな耐えがたい罵詈雑言を、どんな気持ちで聞いて耐えていたのかを知りたい。そうすれば――。
「……何も考えていないな」
「何も……?」
「罵詈雑言の内容については何も考えていない。別のことを考えていた」
「べ、別の……こと。例えば……」
「俺は火が視える。だから相手の火の色やゆらめきなんかを見ていた。口の動きと内容とシンクロして、揺れるんだ。それを『口も火も汚いなー』『今日もブスだなー』と思いながら見ていた」
「はあ……」
「あとは……周りの人間の火と顔も見てたな。大抵、みんな引いている。それから罵倒している人間の言葉に合わせてバラバラに揺れて……音はしないが、汚いオーケストラだと思って見ていた」
「そ、そうですか……」
「よそ見は避けた方がいいな。特に、時計を見ると罵倒が30分は延びる」
隊長が手の甲をこちら側に指を三本立て、視線を斜め下あたりに落とす。
――それは分かる。あたしも、経験済みだ……。
でも他のことについては、紋章のないあたしには感覚的すぎて正直全然分からない。
何の話やら……。
「あまり考えることがなくなったら、頭の中に音楽でも流せばいい」
「音楽」
「ああ。何曲くらい流せるか試して……あとは、そうだな。ラーメンのことでも考えていればいいだろう」
「ラ、ラーメン……」
意味分からなすぎて単語を復唱するしかできない。
あ、でも、音楽流すのはいいかも……? いやでも、どうやって??
「まあ、程々にな。そればかりしていると心が死ぬし、どこかの馬鹿のように闇堕ちまでしてしまう」
「……そんな」
隊長が目を伏せて、少し自嘲的に笑う。
「意味なく一方的に罵倒をしてくる奴は、大抵相手が自分より馬鹿で弱く、絶対に逆らうことはないと思っている。反抗も反論も無意味……逆に愚かだと嘲笑されて終わる。だが、反撃には弱い。そして反撃されれば一転、誰よりも弱い被害者の顔をして喚き散らす。奴らはいつも正義の勝利者だ。仮に叩きのめしても得るものはない。逃げるが勝ちだ」
「逃げるが勝ち……そう、ですね」
――途中ちょっと独特な感覚の話であやうく煙に巻かれそうだったけれど、ためになった。
あたしの場合は相手が母だから、一生つきまとうだろうけれど。
(何を言われても心を閉じるしか出来ることがないのね……)
聖女云々の前に、"正義の勝利者"である母に会うと考えただけでストレスで目眩がしてしまう。
「ベルナデッタ」
「はい?」
「謝るな、卑下するな。……自分の価値を、自分で下げるな」
「!」
「……最近、俺がある人に言われた言葉だ。罵倒されたら、それを思い出すといい」
「あ……ありがとうございます、覚えておきますわ。……あの、本当に、お世話になりました」
「ああ。……元気で」
泣きそうになるのをこらえて隊長に頭を下げ、あたしは隊長室をあとにした。
フランツの時もそうだったけど……隊長ったらクールでドライで何にも興味なさそうなのに、なんだかんだで仲間思いで熱いのよ。
◇
部屋に戻って荷造りをする――もう、涙が止まらない。
いつまでもここにいられないと分かってはいたけれど、まだ何も処理できない。
ここを離れたくない。みんなと一緒にいたい。
ジャミル君と、離れたくない。
『謝るな、卑下するな、自分の価値を自分で下げるな』――。
「…………っ」
あの言葉に胸を締め付けられて、鞄に詰めたもの全てに涙が落ちる。
確かに心に響く言葉だった。けれどどうしてか、心にある別の何かに上乗せされているようで……。
――ねえベルナデッタ。貴女が良いと思うものを、貴女自身が下げてしまっては駄目。
「……え……?」
不意に、誰かの言葉が頭をよぎって、荷造りする手が止まる。
隊長の言葉と似た内容……だけど、いつ誰に言われた言葉なのか思い出せない。
――5年経って貴女がわたくしのこと思い出してくれたら、またこうやってお話しましょう。……約束ね。
「やく、そく……」
意識の海に沈んだ"誰か"の言葉が浮かび上がってくるのを感じる。
だけど浮かぶのは言葉だけ。「5年経って思い出す」――あたしは、誰と何の話をしたの?
そして、また会うことを、約束して……。
「う……っ」
駄目、思い出せない。
あの人は、一体誰?
「ん?」
「あの、話したいことが、あって」
「話?」
2月中旬。
伝えなければいけないことがあり、砦の厨房で洗い物をしているジャミル君に声を掛けた。
彼が1人になるのを待っていた。
厨房にいるときは大体カイルさんも一緒だから、ここ1週間くらいスキをうかがってずっとうだうだしていた。
今日カイルさんは不在。王都にイリアス関連の情報集めをしに行っているようだ。
あたしは自分の気分を隠すのが下手だ――明らかに沈んだ表情のあたしを見て、彼は洗い物のあとの手を拭いてからメガネを上げ、あたしに向き直る。笑顔ではあるけど、話しかけた時よりも神妙な顔になっている。
「……深刻な話?」
「うん……できればあの、2人きり、誰も来ない所で」
「ん、分かった」
そう言って彼は使い魔を呼び出し、扉を出現させる。
彼に背中を押されながら一緒に扉を通ると、どこかの部屋に辿り着いた。
置いてあるものは、砦の彼の部屋のそれに少し似ている。
「ここって、ジャミル君の家?」
「そ。……飲みもん入れるから、その辺テキトーに座って」
「うん」
そう促され、あたしは部屋に置いてあるローソファに腰かけた。柔らかくて座り心地がよく、クッションがいくつか置いてある。
「……カニ」
リアルなカニが描かれたもちもちのクッション。
――これタラバガニかしら? カニが好きだからって、いくらなんでも……。
ソファの前にあるローテーブルには服の雑誌、それに料理の本。
砦の彼の部屋と同じく、細々とした物はあるけどいずれも綺麗に整頓されていて、彼の几帳面ぶりが伺える。
隊長もそうだけど、2人ともカイルさんとは正反対ね……。
(いやだわ……)
もっとちがう場面で来たかった。
本当なら嬉しくてドキドキするはずのもの全てが、胸を締め付ける。
「お待たせ」
「! あ、これ……」
出された飲み物を見て、思わず顔がほころぶ。
「そ、エクストリームココア」
「「極」」
思わぬ言葉が被ってしまって、2人顔を合わせて笑う。
――そう。夏頃、ガツンと甘い物が飲みたいという彼が、これを作って出してくれた。
「あの時、ダサいとか言っちゃった……ごめんね」
「いや別に。男児的ネーミングだし仕方ねえよなぁ……で?」
「え?」
「話って何? ……良くない話なんだよな」
「うん……あの、父から手紙が来て」
「……手紙」
「うん」
ココアの入ったカップを両手で包んでギュッと握る。
「……聖女候補に選ばれたから、帰ってきなさいって」
「え……」
彼が、手に持っているカップを取り落とした。ガシャンという音とともにガラスのテーブルにココアがじわりと広がり、置いてある雑誌に染み込んでいく。
「うわっ、わ、わりい。……かかってないか?」
「う、うん、大丈夫」
「すぐ拭くから……」
そう言って彼はキッチンから布巾を持ってきて、こぼれたココアを素早く拭き去る。
飲食業で働いているからだろうか、こういうトラブルへの対処が早い。
――聖女。
ロレーヌの国教とも言えるミランダ教のトップの1人。
もう1人のトップは教皇様。多くの司祭や教会をまとめ上げる存在だ。
そして聖女は祈ることで加護と豊穣をもたらし、人々の安寧を守る存在と言われている。
教皇様とちがい、表舞台に出ることはない。
任期の間ほとんどを眠って過ごす。眠りの世界で祈りを捧げ続けるのだ。
「眠りの世界」というものがよく分かっていなかったけれど、今なら分かる。
「意識の闇の世界」――きっとそれだ。
ミランダ教の女神は、闇の女神。
光の神によって暗く冷たい世界に堕とされた人間をあわれみ、自然と豊穣と魔法の力を与えた女神。
そして同時に、戒めとして天と人々の心に闇を残していった女神――。
眠ると人は意識の世界へ導かれる。その最深部は、先日あたし達が落ちた意識の闇。
眠り続けることで意識の底へ沈み、聖女は闇の女神の境地へ達するのだろう……。
闇は必ずしも"悪"じゃない。それを得たことでどうするかは、その人間次第。
だから、心が……魂が意識の海を彷徨っても帰って来れなくなるわけじゃないし、死ぬわけでもない。
ただ……。
「5年……だよな」
「うん……その間、みんなあたしを忘れるわ」
「…………」
その言葉を聞いて、彼はテーブルの上で手を組んで黙り込んでしまう。
任期の間、聖女は個人としての名前を女神様に預けて、ただ"聖女"という肩書きのみになる。
"ベルナデッタ・サンチェス"という名前は5年間封印され、その名を呼ぶことはできない。
隊長の「意識の闇の世界」と同じ――この段階になって、「名前を預ける」という意味がようやく分かった。
あの世界であたし達が隊長の顔も名前も忘れたように、あたしが聖女に選ばれたら5年間同じ状態になる。
親類縁者であっても例外なく――そう、愛し合った恋人でさえも。
レイチェルも、隊長の闇の中でそうなったと言っていた。
「……オレは……オレだって、ミランダ教徒だ。だからこんな……こんなこと言うのは不敬なんだろうけど」
「ジャミル君……」
「聖女に選ばれるのは名誉だって言うけど、オレはベルに、そんなものになって欲しくない」
「……あたしも、選ばれたくない。だってジャミル君があたしのこと忘れるなんて嫌だもの……!」
泣きながらそう言うと、彼はあたしを強く抱きしめた。
死ぬわけじゃないから、5年経てばまた会える。
だけど5年の間、あたしは全ての人の記憶の中でぼやけた存在になる。
相手がいたかいなかったかも不明瞭になれば、その間に別の人を好きになるかもしれない。
任期が終わるまで待っていて欲しいなんて言えない。
嫌だ。そんな聖女になりたくない。
だけど、ミランダ教を信奉する者がそれを拒否することは女神の意思に背くことになる。
「婚約者がいる」なんてことよりも、よほどに大きい壁なのだ。
「ごめんなさい……今は、選ばれないことを祈ってて……」
そう言ってから身を離すと、泣きそうな顔をした彼があたしの頬を包んで、唇を重ねてきた。
――嫌だ。これが最後の口づけになんて、なって欲しくない……。
◇
「……そういうわけで……申し訳ありません。ひょっとしたら、もう戻って来れないかもしれません」
「……そうか。分かった」
翌日、隊長にここを去ることを伝えた。
隊長はミランダ教徒ではないからか、あまり深刻な反応ではなかった。
それはそれで救われるような気がしてくる……。
「お世話になりました」
「俺は別に世話をしていないが」
「住居と、お給料もらっていましたわ」
「それもそうか。じゃあ、最後に給料を渡しておこうかな」
隊長が座ったまま引き出しから分厚い封筒を取り出し、こちらに渡してくる。
「ひゃっ……分厚い」
「ラーメンもお菓子もうまかったから」
「あ、ありがとうございます……」
ジャミル君も辞めた時に相当量のお金をもらったと聞いた……同じ場面に遭遇するとちょっと怖いわね。
「あ……あの、隊長」
「ん?」
「あ……ええと」
受け取った封筒を握りしめて、しばし逡巡する。
聞くべきか、聞かないべきか……でもこれは、この人にしか聞けない。
「あの……、無礼なことを、聞いてしまいます。でもどうしても、お聞きしたいのです」
「君が俺に? 一体……」
「あ、あたし……は、公衆の面前で、罵倒や嘲笑をされることが、多々、ありまして」
「…………」
「そ、そういう時、隊長は……何を、考えていましたか」
震える声でようやくそう切り出すと、隊長は机に肘をついてその手で口元を隠し、眼前に立っているあたしを見上げた。
眉間にしわが寄っている――当然だ。
――ああ、本当に無礼だ……信じられない。
でも、あたしが母から食らう罵倒や嘲りは、あの「副院長」のものに似ていた。だからこそ聞きたかった。
罵倒をされている間、幼い隊長はずっと黙っていた。黒い泥に置き換わっていたからどんな表情をしていたか分からず、感情も読めない。
あんな耐えがたい罵詈雑言を、どんな気持ちで聞いて耐えていたのかを知りたい。そうすれば――。
「……何も考えていないな」
「何も……?」
「罵詈雑言の内容については何も考えていない。別のことを考えていた」
「べ、別の……こと。例えば……」
「俺は火が視える。だから相手の火の色やゆらめきなんかを見ていた。口の動きと内容とシンクロして、揺れるんだ。それを『口も火も汚いなー』『今日もブスだなー』と思いながら見ていた」
「はあ……」
「あとは……周りの人間の火と顔も見てたな。大抵、みんな引いている。それから罵倒している人間の言葉に合わせてバラバラに揺れて……音はしないが、汚いオーケストラだと思って見ていた」
「そ、そうですか……」
「よそ見は避けた方がいいな。特に、時計を見ると罵倒が30分は延びる」
隊長が手の甲をこちら側に指を三本立て、視線を斜め下あたりに落とす。
――それは分かる。あたしも、経験済みだ……。
でも他のことについては、紋章のないあたしには感覚的すぎて正直全然分からない。
何の話やら……。
「あまり考えることがなくなったら、頭の中に音楽でも流せばいい」
「音楽」
「ああ。何曲くらい流せるか試して……あとは、そうだな。ラーメンのことでも考えていればいいだろう」
「ラ、ラーメン……」
意味分からなすぎて単語を復唱するしかできない。
あ、でも、音楽流すのはいいかも……? いやでも、どうやって??
「まあ、程々にな。そればかりしていると心が死ぬし、どこかの馬鹿のように闇堕ちまでしてしまう」
「……そんな」
隊長が目を伏せて、少し自嘲的に笑う。
「意味なく一方的に罵倒をしてくる奴は、大抵相手が自分より馬鹿で弱く、絶対に逆らうことはないと思っている。反抗も反論も無意味……逆に愚かだと嘲笑されて終わる。だが、反撃には弱い。そして反撃されれば一転、誰よりも弱い被害者の顔をして喚き散らす。奴らはいつも正義の勝利者だ。仮に叩きのめしても得るものはない。逃げるが勝ちだ」
「逃げるが勝ち……そう、ですね」
――途中ちょっと独特な感覚の話であやうく煙に巻かれそうだったけれど、ためになった。
あたしの場合は相手が母だから、一生つきまとうだろうけれど。
(何を言われても心を閉じるしか出来ることがないのね……)
聖女云々の前に、"正義の勝利者"である母に会うと考えただけでストレスで目眩がしてしまう。
「ベルナデッタ」
「はい?」
「謝るな、卑下するな。……自分の価値を、自分で下げるな」
「!」
「……最近、俺がある人に言われた言葉だ。罵倒されたら、それを思い出すといい」
「あ……ありがとうございます、覚えておきますわ。……あの、本当に、お世話になりました」
「ああ。……元気で」
泣きそうになるのをこらえて隊長に頭を下げ、あたしは隊長室をあとにした。
フランツの時もそうだったけど……隊長ったらクールでドライで何にも興味なさそうなのに、なんだかんだで仲間思いで熱いのよ。
◇
部屋に戻って荷造りをする――もう、涙が止まらない。
いつまでもここにいられないと分かってはいたけれど、まだ何も処理できない。
ここを離れたくない。みんなと一緒にいたい。
ジャミル君と、離れたくない。
『謝るな、卑下するな、自分の価値を自分で下げるな』――。
「…………っ」
あの言葉に胸を締め付けられて、鞄に詰めたもの全てに涙が落ちる。
確かに心に響く言葉だった。けれどどうしてか、心にある別の何かに上乗せされているようで……。
――ねえベルナデッタ。貴女が良いと思うものを、貴女自身が下げてしまっては駄目。
「……え……?」
不意に、誰かの言葉が頭をよぎって、荷造りする手が止まる。
隊長の言葉と似た内容……だけど、いつ誰に言われた言葉なのか思い出せない。
――5年経って貴女がわたくしのこと思い出してくれたら、またこうやってお話しましょう。……約束ね。
「やく、そく……」
意識の海に沈んだ"誰か"の言葉が浮かび上がってくるのを感じる。
だけど浮かぶのは言葉だけ。「5年経って思い出す」――あたしは、誰と何の話をしたの?
そして、また会うことを、約束して……。
「う……っ」
駄目、思い出せない。
あの人は、一体誰?
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