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12章 誓い

▲6話+ ゆらめく情念

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「一番良い部屋」が数部屋だけある宿屋の最上階は、わたし達の他に宿泊客はいないようだ。
 部屋の中ではなくても、込み入った話をしても問題はない。
 
「……レイチェル」
「グレンさん、……キス、してください……」
「…………」
 
 わたしの頬を大きな手が包んで、唇が重なる。
 すぐに離れようとしたので、頬を包む彼の手をぎゅっと握って、わたしの側からもキスをした。
 吐息が漏れる。彼の方からもわずかに漏れたそれと混ざり合って、心臓じゃないどこかが熱く脈打つ。
 
 ――熱い。
 顔が、心臓が、身体が。
 足りない何かを、求めている……。
 
「グレン、さん……」
 
 今自分はどんな顔をしているのだろう。
 もう一度顔を近づけると彼は少し身を引いて顔をそらしてしまう。
 
「やめよう」
「どうして……もっと、キス、したいです。だって」
 
 ――だって今日は、会ってから今まで、一度もキスをしてもらっていない。
 
 人目のないところ限定とはいえ、ふとした瞬間目が合うたびに彼は挨拶みたいに唇を合わせてくる。
 最初はそれが恥ずかしくてたまらなかった。
 初恋で、初めて付き合う人。でも彼はそうじゃない。
 大人だから恥ずかしげもなく自然とそういうことができてしまうんだろうか――そう思って、普段の彼からは想像もつかない甘いスキンシップに精一杯背伸びをしてついてきた。子供っぽいと思われたくないから。
 
 だけど次第に慣れてきて当たり前になってきた頃、それらは途絶えた。
 彼が赤眼になって病に倒れ、それをわたしに隠すために余計に症状を悪化させ、さらに、光の塾やキャプテンの一件で精神がさらに打ちのめされて……その間わたしはずっと、彼が足りなかった。
 
 抱きしめてほしい、キスしてほしい、もっと、もっと、わたしを……。
 
「グレン、さん……キスして……」
 
 泣きそうになりながら彼を見つめる。
 拗ねる顔、泣きそうな顔、照れて真っ赤になった顔――今日は、見たことのない彼の色んな表情かおを見た。
 今の顔も初めて見る。どこか無気力だった彼の灰色の瞳は、まるで獲物を目にした獰猛どうもうな獣のよう。何かぞくぞくとするこの感覚は、きっと恐ろしさから来るものじゃない。
 その視界の中にずっといたい。わたしをもっと、ずっと、映していてほしい。
 
「!」
 
 彼の手がわたしの髪を絡め取る。指先が頬をかすめると、それだけで顔から全身まで火照ってしまう。
 
「…………」
 
 震える唇からは吐息だけが漏れて、意味のある言葉を紡ぎ出せない。
 
 首元から後頭部にかけて手が差し込まれ、彼は下ろしているわたしの髪を下からかきあげる。 
 彼の顔が近づいて唇が触れあう寸前で「ガタ……」という音がして、わたし達は身体を離す。
 誰かが来たのではなく、風で窓ガラスが揺れる音だった――ここでようやく今立っている場所が宿屋の廊下だったことを思い出した。
 なんてことをして、なんてことをねだってしまったのだろうという羞恥心で涙が出そうになり、彼に背を向けた。
 彼はそんなわたしの背中を軽くトンと叩いて肩を抱きよせ、そして反対側の手で部屋の扉のノブに手をかける。
 
「あ……グレンさ」
「……このまま」
「え……?」
「この扉を開けて、中に入ってしまえば」
「…………」
「境界線を越えたら、もう……後戻りはできない」
 
 耳元で彼がそう囁くと、何が由来か分からない涙が目に浮かぶ。
 続けて彼は、振り向くことができず肩をすくめているわたしに「どうする」と問う。
 
 ――そんな、そんな、こと。
 
「わたしに……決めさせるの、ずるい……」
 
 震える声でやっと言葉を絞り出す。
 すると彼は「そうだな」と少し笑ってそのまま扉を開けて、わたしの肩を抱き寄せたまま、部屋の中へ。
 扉を勢いよく閉めると同時に鍵をかけ、扉を背にしてわたしを押し付ける。
 そして……。
 
「っ……」
 
 彼がわたしの顔を持って何度も角度を変えて唇を重ね、何度目かで舌を侵入させてくる。
 
 久しぶりに交わす情欲的な口づけ。一体、いつぶりだろう?
 あの時は確かわたしは試験中で、だから2カ月前くらい……あれからずっと、してもらっていない。
 一度離してから唇をんで、舐めて、また舌を絡め合い……それを繰り返していると息が上がり、自然と声が漏れる。
 目を開けてみると彼と視線がかち合った。すると彼はふっと目を細めてからわたしの歯列を割って中に侵入し、舌を吸ったり、歯茎や上あごをなぞったりしてさらにさらに絡みついてくる。

「ん……ふ……っ」
 
(駄目……こんなの……)
 
 彼の吐息と視線と舌が絡み合っている。
 心臓じゃないところがドクドクと波打って熱い。心じゃないどこかが、これでは足りないと訴える。
 一体どこが、何を、欲しているのか……。
 
「グレン、さん……」
 
 顔が少し離れた瞬間、荒れる息でやっと彼の名前だけを呼ぶ。彼もまた息が上がっている――それを見ただけで、身体が熱くなっしまう。
 
「……足りない」
「え、……きゃっ!」
 
 彼がわたしを抱き上げ、広い部屋を闊歩かっぽしてベッドまで連れて行く。
 そのままわたしはそっとベッドに下ろされて靴を脱がされる。そのあとすぐ、わたしの身体が少し沈んだ――わたしをまたいで膝立ちになった彼が、わたしを見下ろしている。
 
「レイチェル」
 
 熱い、
 
 熱い。
 
 名前を呼ばれただけで。
 上下する喉仏の動きを、見ただけで。
 
「抱かせてくれ……欲しくて、たまらないんだ」
「…………っ」
 
 身体が。
 身体の奥が、火がついたように、熱い。
 
 また何も言葉を紡ぎ出せず、わたしは首を何度も縦に振ってうなずく。
 
 すると彼は「そうか」と言って笑みを浮かべ、着ているスーツとベストのボタンを素早く外し、ネクタイと共に床に脱ぎ捨てる。
 きっちり留めていたシャツのボタンをいくつか外すとシャツの間から鎖骨がちらりと見える――たったそれだけで、わたしの心と体のどこかが沸き立つ。
 
 わたしの顔の横に手をついて、彼がわたしに覆いかぶさる。
 顔が近い。慣れているはずなのに、身体を横にして彼が上にいるとここまで感覚がちがうものなんだ――。
 
「ま、待っ……て」
「ん?」
 
 キスをしようと接近してきた彼の顔を、両頬を持って制止する。
 止まったのは近づいてきた顔だけで、右手はずっとわたしの頬や首筋や鎖骨を泳ぐようにして撫でている。
 ……ゾクゾクして、息が乱れる。
 
「わたし……あの」
「……ん?」
「な、何を、どうしていたら、いいのか……」
 
 そう問うと彼はフッと鼻で笑って、軽いキスを1つ落としてきた。
 
「何もしなくていい」
「……何も?」
「そう。……ただ」
「ただ……?」
「全部見せて、聞かせてくれれば……それで」
「聞かせてって、……あっ!」
 
 言い終わるよりも前に彼がわたしの首元に顔を埋めて唇と舌で首筋をなぞってきて、変な声をあげてしまう。
 聞かせるってそういうこと……と妙に納得しつつ、彼の言葉の通りわたしは彼に身を委ねた。
 
「っ、グレン……、すき……」
 
 視覚も、聴覚も……五感を全部、掌握されたかのようで、どちらがどちらの肉体からだなのか分からない。
 声は満足に言葉を紡ぎ出せず、ただ彼の名前と身体の感覚と、好きだという気持ちを告げるだけになってしまった。
 だけど少しも嫌じゃない。恥ずかしさよりも、心も体も通じ合った充足感が勝る。
 
 わたしは、心も体も、彼のものになったんだ……。
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