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10章 "悲嘆"

◆エピソード―とある貴族の青年:悲劇

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 その貴族の青年は、神聖ノルデン王国のベルセリウス公爵領の片隅に妻と子とともに暮らしていた。
 
 青年の名はシグルド・ベルセリウス。輝く銀の髪と蒼の瞳を持つ、端正な顔立ちの青年。
 公爵家の長男として生を受けた彼は聡明で武勇に優れていたが"無能者"であったために彼の家――ベルセリウス公爵家では底辺の扱いを受けていた。
 ベルセリウス公爵家は、代々高位魔術師を輩出する名門の家系。彼の父ルドルフは国王とは遠縁の関係だった。
 本来ならば彼は跡継ぎのはずだったが、無能者にその資格はない。
 彼の母は無能を産んだとして家を出され、その後1年と経たずに産まれた腹違いの弟が家督を継ぐことになっていた。
 
 成人を迎えて、彼は婚約者であった伯爵家の娘ウルスラと結婚をした。
 ウルスラは魔法の資質はあったが、貴族の象徴である銀髪蒼眼を持たず多くのノルデンの平民と同じ黒髪に灰色の瞳であったため、シグルドと同じく"恥さらし"と家族から蔑まれていた。
 似た境遇の2人は悩みや苦しみを話し合ううちに、たちまち深く愛し合うようになった。
 命じられた結婚だが、そんなことはもうどうでもよかった。
 
 結婚式には父である公爵は来なかった。
 祝いの言葉の1つも贈り物もない。結婚後に住む場所を指定され、そこへ発つ際に「勝手に繁殖をしないように」という言葉を投げかけられるのみ。
 父に住むよう命じられた所は公爵領の中心地から遠く離れた、寒冷な気候のノルデンの中でも特に寒さの厳しい北の僻地――魔法を使えない彼は転移魔法で公爵家に飛ぶこともできず、馬車や馬を使おうとも道が悪いために何日かかるか分からない。
 暗に「もはや帰ってくるな」という父の意思表示だろうと彼は感じていた。
 
 ――それならそれで、一向に構わない。
 
 二度と会わないのであれば、その方が楽だ。
 慕ってくれる弟妹に会えないのは残念だが、自分には妻と子がいればそれでいい。
 
 
 ◇

 
「お帰りなさいませ、シグルド様」
「ああ」
 
 あてがわれた屋敷は、結婚前に住んでいた所と比べれば「屋敷」と呼ぶには狭すぎる家――使用人もごくわずかだった。
 公爵家とは違い使用人は皆黒髪の平民で、魔法を使えない者もいる。
 おそらく公爵からすれば最底辺の扱いのつもりなのだろう。
 だが、不満はなかった。人数が少ないから顔と名前をすぐに覚えられるし、皆心根が優しく自分や妻を差別したりもしない。
 
「ウルスラ、入るよ」
「はい」
 
 屋敷は広くはないが、しかし少し歩けばすぐに妻と子のいる部屋に辿り着く。
 夫婦の寝室をノックすれば、すぐに返事が返ってくる。守るべき大切なものが、何もかも手に届くところにある。
 彼の心は今までの人生――たった20年程ではあるが――ともかく、今までで一番満たされていた。
 
「……寝た?」
「ええ」
 
 妻の手の中で、赤子が寝息を立てている。
 2ヶ月前に生まれた彼らの子供は、妻と同じ黒髪と灰色の瞳。その上――。
 
「ウルスラ。ずっと考えていたんだが……この土地を離れようと思うんだ」
「シグルド様……」
 
 ウルスラが赤子をベッドに寝かせるのを見届けてからシグルドがそう言うと、彼女は憂いを帯びた瞳で彼を見上げた。
 
「私達は父の言いつけを破り、子供を作った。その上この子は父が……貴族が忌み嫌う要素を引き継いでしまった。……不運だ」
「はい……」
 
 赤子は魔法の資質を持たない子だった。
 魔法至上主義のノルデン貴族の中で最も忌み嫌われる無能の黒髪――"カラス"と呼ばれる存在。
 
「『繁殖を禁ずる』などという父だ……『生まれたからには仕方がない』などと、態度が軟化するようなことはないだろう。父の領地で飼い殺しを受けて生きるくらいなら、この名前も身分も捨てて新しい人生を生きたい」
「はい……私も、この子には差別のない自由な世界を生きて欲しいです」
「ああ。それに行商人から聞いた話だが、近頃魔法を持たない民が武器を集めて戦士や傭兵を募り何か会合を開いているらしい。民も虐げられ続けて限界を迎えているのだろう……戦が起こるかもしれない。そうなる前に、安全な土地へ逃げよう」
「…………はい」
「ディオールの南部やロレーヌならば偏見の目もないと思う。そこまで行けばさすがに父も追っ手を差し向けてはこないだろう。だが長旅になる……安住の地を見つけるまで、君にも子供にも不自由をさせてしまうが……」
「私は、シグルド様と共にあります。あなたとこの子が一緒なら、私は何も辛くありませんわ」
「ウルスラ……」
 
 妻の肩を抱いて口づけをして、寄り添う。
 この地は寒いが、人の温かさがある。
 結婚してから2年、2人はとても幸せだった。
 
 だが、この幸せは長くは続かなかった。
 
 
 ◇
 
 
「何度も言わせないでくれ! そんな話は到底受け入れられない!」
 
 ある日、来客がほとんどない彼の屋敷に人が訪ねてきた。
 使用人が「公爵の使いで」と言われ招き入れた というので会ってみれば、聖職者のような黒衣の男が2人と、武装した黒い革鎧の男が数人――とても友好的な来訪者とは言えない。
 聖職者風の男が"光の塾"のロゴスと名乗るが、そんな組織もこの男達も知らない。
 身にまとっている法衣はノルデンで広く信仰されている聖光神団せいこうしんだんのものとよく似ていたが、何かが違う。
 神聖さを微塵も感じられない気味の悪い一団だった。
 
 なぜこんな男達が訪ねてくるのか考える間もなく、ロゴスという男が妻の手の中で眠る子を見て「お子さんを預かります」と切り出した。
 急に何を言い出すのかと問うと「この子は神に選ばれた子、無限大の可能性がある、神に紋章の力を引き出してもらおう」などと言う。
 生まれて4ヶ月の我が子を手放せなどという提案など受けるはずがない。当然彼も妻も拒否するが、ロゴスは笑みを浮かべながら「あなた方は若いから現実が見えていない」「紋章を手にすればこの子はあなた方に幸せをもたらす」などとこちらを諭してくるばかり。
 
「魔法や紋章の有無などどうでもいい、この子が生まれただけで私達は幸せだ、この子の成長を見届けることこそ我々の幸せだ」と言ってみても
「子供がいれば幸せなどというのはあなた方の都合」「この子は差別と偏見にまみれた世界を生きねばならないのに」「この子の幸せはどうでもいいのか」などと返ってくる。
 
 ――何の話も通じない。
 一見子供を思いやるようなことを言っているが、結局自分の要望を貫き通したいだけだ。独自の正義と理論でのみ動いている。
 このまま言い合いをしては相手の思うつぼだ――そう直感した。
 
「……話にならない。帰ってくれ! 何を言われても、子供は渡さない!」
「……そうですか。それでは、仕方ありません。……連れて行け」
「なっ……」
「やっ……! やめて! 何をするの! 離して!」
 
 いつの間にか自分たちを取り囲んでいた黒鎧の男がウルスラに素早く忍び寄り、彼女の手から無理矢理に子供を奪い取ろうとする。
 彼女は激しく抵抗するが男の力にかなうはずもない。なすすべもなく子供は男の手に渡ってしまった。
 強制的に母の手から引き離された子の、母を求めて泣き叫ぶ声がこだまする。
 
「いやぁっ! やめて! 返して! その子に触らないでっ……ぐっ!」
「ウルスラ!」
 
 子を取り返そうと男に取り縋ったウルスラは男に弾き飛ばされ、ローチェストの角に頭をぶつけた。
 鈍い音が部屋に響き、彼女はそのままずるりと地面に崩れ落ちる。
 
「ウルスラ! ウルスラーッ!!」
 
 瞬く間に彼女の周りに暗い赤が広がる――うっすらと開いた瞳に、すでに光はなかった。
 
「あ……」
 
 妻の死という現実を受け入れるよりも前に彼の耳に赤子の激しい泣き声が届き、自分が今なすべきことを思い知らされる。
 
「貴様! 子供を返せ!」
 
 悲しむのはあとだ。
 剣を抜き、子供を捕らえている黒鎧の男へ斬りかかろうとしたが――。
 
「……おっと。この子がどうなってもいいのですか」
「なっ……!」
 
 ロゴスが子供にナイフを突きつける。
 
「剣を捨ててください」
「…………」
 
 武勇に優れた彼と言えど、子供を盾に取られては言うなりになるしかなかった。
 ロゴスの指示通りに剣を捨てた次の瞬間、背中に強烈な熱と衝撃が走り彼は地面に倒れこんでしまう。
 一瞬何が起こったか分からなかったが、自分の身体の周りに赤い液体が広がったことでこの灼けるような背中の熱さは後ろから斬られたことによるものだと理解した。
 
「なぜ……だ」
 
 ――なぜ、こんな目に遭うのか理解ができない。
 妻を殺され、子供を奪われ、あまつさえ自分が斬り伏せられる理由が。
 
「申し訳ありません、シグルド様。これはお父上のご意向なのです」
「なん、だと……」
「あなた方がお父上の命に背きお子をもうけられ……その子は"カラス"であると聞いたお父上はひどくお怒りです。『家名が汚れては困る、一刻も早く排除してくれ。多少強引になっても構わん』とのことで、我々が参りました」
「父上、が……? うそだ……」
「ご安心ください。"排除"と言っても殺したりはしません。光の塾に生育係がおりますし、然るべき"教育"をいたしますよ」
 
 ロゴスが言動に酷く不釣り合いな笑顔を浮かべ踵を返すと、連れの男達もそれに続く。
 耳にずっと我が子の泣き声が聞こえている。
 
「おのれ……おの、れ……」
 
 ――なぜ、誰が父に子供の存在を漏らしたのだろう。
 しかも父も、それを知ってまさかこのような凶行に及ぶとは。
 
 ――生まれた頃からずっと他の兄弟と差を付けられて生きてきた。
 お前のせいで母は追い出されたのだと何度言われたことか分からない。
 弟が3人と、妹が1人。上の弟2人と継母は、自分が魔法を使えないことを散々なじって嘲った。
 妹と末の弟は自分を好いてくれていたが、遊んでいると必ず継母の叱りを受けた。
『お兄様と話すと無能がうつるわよ』などという嘲りの言葉付きで。
 
 自分たちの結婚は余り物同士と笑われ祝福されなかった。見る人間が見れば"傷の舐め合い"だったかもしれない。
 だが、妻も子供も自分をありのままに受け入れてくれる。何もなくとも、2人は無条件に自分に愛と笑顔をくれるのだ。
 守りたかった。このまま3人で、ずっと幸せに暮らしたかった。
 父は――あの男は、それすらも許さないというのか。
 ささやかな幸せを、求めることすら……。
 
「ルドルフ……ベルセリウス……」
 
 憎しみをこめて、父の名を呼ぶ。
 公爵を、親を呼び捨てにするなど不敬だ。あってはならないことだ。
 
「よくも、よくも……!」
 
 だが何の言葉も吐かずにこのまま人生を終えたくはなかった。
 憎い。自分たちの幸せを壊す命令を下した、あの男が――。
 
「呪われろ……、呪われろ……っ!」
 
 その言葉のあと、彼の手の甲に土の結晶のような紋様が浮き出て赤黒く光る。
 だがそれに気づく者は誰もいなかった。彼自身ですら――。
 
 視界から、幸せを奪い不幸をもたらした男達が消えていく。
 同時に部屋中に響いていた子供の泣き声も聞こえなくなった。
 
 ――こんなに騒いでいるのに誰も来ない。もしかして使用人も皆殺されてしまったのだろうか。
 何もかも失った。自分は死ぬ。涙と血だけがとめどなく流れ、あんなに熱かった背中は氷のように冷え切っている。
 
「ゆるしてくれ、ウルスラ……、"…………"、」
 
 わずかに開いた口から絞り出したのは最愛の妻と、彼らの愛を一身に受けて生きるはずだった息子の名前。
 
「……しあ、わせに……」
 
 その言葉を最後に、涙に濡れた蒼の瞳から光が消え失せる。
 死の間際に発現した土の紋章だけが、彼の手の甲の上で赤黒く光を放っていた。
 
 1537年9月、一組の若い夫婦が命を散らした。
 ノルデンの反乱が起こる、1年前の出来事。
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