ケーキ屋の彼

みー

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3話

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「ごめんね、意地悪して。でもね、私もそろそろ諦めないとって思い始めてるの、でも、その前に一度だけ、思いを伝えたい。……諦めるのは、…………次の恋に進むのは、それからでいいかな?」

 今までに見たことのない程、切ない表情を浮かべる美鈴に、春樹は何も言うことができなかった。

 それに、そんな表情をさせるそのパティシエのことが憎いと同時に羨ましくもなる。今の春樹には彼女の表情を変えられるほどの影響力なんてないから。

 それと同時に、春樹自体が何故だか失恋をした気持ちになる。

「ごめんなさい……」

 やっと出てきた言葉は、それだった。

「いいの、私も前に進まないといけないことは分かってた」

 美鈴は、春樹を責める言葉は一切言わない。

 それどころか、10年前の自分と今の自分は、何も成長していないと、自分をさげすむ。

 一歩を、踏み出さないといけない、美鈴は痛いほどそれを感じていた。

「はいっ!  なんだか空気がすっごく暗くなっちゃった、ほら見て、外も薄暗くなってるわよ」

 雰囲気をがらりと変えようと、窓の外を指差して、先ほどとはまるで正反対の表情を浮かべる美鈴。

「飲みに行きましょう、喝入れないとね」

 どんっと背中を叩かれる春樹は、突然のことに目を丸くした。

 そして、少し痛いな、と思ってしまう。けれどその痛さがどこか気持ちよく感じてしまう春樹は、1人苦笑いをした。

 美鈴は、春樹の肩を抱いて、レッツゴーとドアの方に向けて歩き出した。

「先輩っ、荷物……」

「なあに、ほら、早く取りに行きなさい!」

 美鈴から解放された春樹の顔は、2つの意味で真っ赤になっていた。



 数十分後、まだあまり混んでいない居酒屋に、2人の姿はあった。

「そういえば、柑菜さんは教育なのね、私、この前絵を見たんだけど、すごく惹きつけられたわ。どうして絵画に来なかったのかしら」

 2人はとりあえずお酒と野菜コロッケを食べている。

 春樹は緊張で、あまり食が進んでいない。

「それは……あいつ、中学の頃怪我したんです」

 柑菜のことを考えると、このことは極力人には言いたくない春樹。

 そのために、大雑把な返事になってしまう。

「そうなの……でもそれでもあれくらいの絵が描けるなら、教育は勿体無い気もするわ。教員免許ならうちでも取れるし」

 美鈴はあくまでも、恋のライバルとしてではなく大学の先輩として、柑菜のことを考えていた。

「それ、本人に言ってあげてください」

 春樹は、力強い目で、訴いかけるように言う。

 美鈴はその目を見て、適当な気持ちではないことを感じ取った。きっと本当は春樹だって自分と同じように少なからずは思っていると。
 
「なんだか似てるのね……」

 美鈴は、春樹に聞こえるか聞こえないかくらいの声の大きさで、呟いた。

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