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籠中の花〜はるか視点〜
しおりを挟む昔から手に入らない物など何1つなかった。
洋服もお人形も、望んだ物は何でも手に入れてきた。
私の言う事は皆、なんだって喜んで聞いてくれたし、叱られた事なんてただの1度もない。
ただニッコリと「あれ欲しい」と指差すだけで良かったのだ。
* * *
ある日大学から帰ったら、珍しい事に私より先にパパが帰っていた。
「はるか、おかえり」
「ただいまパパ。
どうしたの?こんな早くに」
パパの頬に軽く口付け、ただいまの挨拶をする。
そんな私をパパは目を細め優しく見つめながら
「話があるんだ。とても大切な話が」
とリビングではなく書斎へと誘った。
パパの後ろ姿は、何だかとっても緊張しているようにも、舞い上がっているようにも見えて、私は首を傾げながらついていった。
私のパパは国内有数の大銀行、野々村銀行の代表取締役兼会長。
こんな時間に家にいるなんて滅多にない、どころか多分今まで1回もなかった、と思う。
毎日帰ってくるのは日付が変わってから。
お付き合いや色々で何かと忙しい…筈、なんだけど。
今日は一体どうしたというのだろう?
「はるか、お前も20歳を過ぎて来春には大学を卒業するし、いよいよ大人の仲間入りだね」
書斎に入るなり、徐に切り出したパパの言葉に、ますます訳が分からなくなってしまう。
「?…えぇ、そうね、パパ」
「そんなお前にとても大切な話があるんだ」
ごくり、と唾を飲むパパの様子に只ならぬ物を感じ、私まで緊張してくる。
「大切なお話って?」
この期に及んで、私はこれから自身に降りかかる事に感づきもしてはいなかった。
「神崎グループを知っているだろう?」
「えぇ、うちの1番の取引先でしょ?」
子供でも知らない者は多分いないだろうというほど有名な、国内有数の大企業だ。
「そこの御曹司、聡一郎様が今年34歳になられるのだがね…」
嫌だわ、パパったら、前振りが長いんだから。
「…それで?」
「実は花嫁を探しておられたのだが、なかなか釣り合いの取れる女性というのがいるものじゃなくてな」
何やら変な方向に話が転がっていきそうな、嫌な予感がした。
「それでだな、先ほど神崎家当主龍爾様より直々にお前を、とお話があったのだよ。
いや、結婚自体は今すぐにという訳ではないがね。
とりあえず来年2月にでも婚約発表を、というのが先方の意向だ」
「……え?」
2~3年前どこかのパーティで顔を合わせたきりの男性の顔が、おぼろげに脳裏に浮かぶ。
——このご時世で、よもや親が決めた見知らぬ男性と結婚しなければならないなんて。
そんな、バカな事が…?
まして私の人生なのよ。
それなのにパパったら、何でそんな大切な事1言の相談もなしに。
「嫌よ、そんなの」
咄嗟に大声を出していた。
けれどそんな私を宥めるように、パパはあくまで優しく言葉を紡いだ。
「はるか、女性にとって望まれて嫁ぐのが1番の幸せなのだよ。
ましてあちらは家柄も申し分ない。
聡一郎様も容姿端麗で、お優しくて頼りがいのある素晴らしい方だと聞く。
これ以上のお話がどこにある?」
「待ってよ、ちょっと待って。
だって私まだ21よ?
まだ早すぎるわ、それに…」
「はるか…」
困ったようなパパの顔に怯みそうになるが、それでも私は必死に言い切った。
「どんなに良いお話でも、それだけは嫌。
お願いよ、パパ…」
ここまで強く言えば、パパだって無理強いはしないだろう。
それでもまだ、私はパパを…大人を、自分を取り巻く環境を甘く見ていた。
「はるか、よく聞いておくれ。
これは我が家のみならず、当行にも重要な意味を持つ縁談になる。
もちろんお断りする事など、出来ないよ。
…分かってくれるね?」
「パパ!」
今まで1度だって、私の願いを無碍に断った事のないパパが。
いつだって優しくて、誰よりも私を愛してくれていて、私を自慢の娘だと公言して憚らないパパが。
険しい表情を浮かべて、私を見つめている。
そんなパパの顔を、見た事がないとは言わない。
お仕事中のパパは、たまにだけどそういう顔をしているもの。
だけど…そんな怖い表情、自分に向けられたのはもちろん初めてで。
「パパ…」
思わず俯いてしまった私の頭に手をのせ、パパは続けた。
「パパはもちろん、はるかの味方だよ。
それに誰よりも、何よりもお前の幸せを願っている。
だからこそ、これ以上ないこのお話を喜んでお受けしたのだよ」
今まで私を愛し大切にしてくれた優しい口調で、有無を言わせず告げるパパに視界が涙で滲んだ。
逆らう事など許さない。
父としての言葉ではなく、野々村銀行代表取締役兼会長としての命令なのだ。
そう気付いた瞬間、堪えていた涙が堰をきったように溢れた。
けれど…それが何を思っての涙なのか、私自身よく分からなかった。
* * *
その日から私の身辺は俄かに慌しくなった。
まだ公表していないどころか、直接口にしてすらいないというのに。
一体どこから聞きつけたのか、友人達は口々にお祝いの言葉を述べ、羨ましがった。
——そんなに羨ましいのなら、代わってあげましょうか?
何度もそう口にしそうになり、その度に唇をグッと噛みしめた。
当事者の筈の私の知らない所で話が勝手に進んでいくのが、堪らなく嫌だった。
けれど、嫌そうな顔をする事さえ今の私には許されなかった。
——私の気持ちなんて、誰も気にしてはくれない。
私の本当の思いなんて、誰も判ってはくれないのだ。
その上
「おめでとうございます、というべきなのだろうな」
のうのうと言い放つ、お目付役兼恋人だと思っていた男の平然とした口ぶりに、全身の血が一気に沸き立った。
「玲のバカ!何でそんな意地悪を言うのよ。
私…私が嫌がっているの、知っているくせに!」
言うが早いか、思いっきり彼の澄ました顔を引っ叩く。
「はるか…」
「何よ、皆して口を開けば野々村家の為にって。
家の為に、一生好きでもない人の奥さんをしろって、我慢しろってそう言うの?」
悔しくて、悲しくて、腹が立って。
両手を握り締めキッと睨みつけると、能面のように無表情だった玲の瞳が初めて苦しげに揺らいだ。
「あなた知ってるくせに!
私が本当は誰が好きなのか、ちゃんと判っててそういう事を言うの?」
「はるか!声が…」
周囲を気にして玲は辺りを見回した。
けれど、それがどうしたというの。
誰に知られたって、なんと思われたって構うもんですか。
「私はあなたが好き、玲が好きなの。
あなた以外の人と結婚するなんて、真っ平よ」
言いながら、彼の頭をかき抱くように強引に口付ける。
彼の母親が私の乳母だった事もあり、小さい頃からずっと一緒に兄妹同然に育ってきた玲。
ずっとずっと、大好きだった。
やっと…思いが通じたと、そう思っていたのに。
「…野々村家に世話になっている者として、和哉様を裏切る事は出来ない」
慌てて私を押しのけ、背を向けながら搾り出すように呟いた彼の1言が、最後の望みを粉々に打ち砕いた。
* * *
慌しい毎日の繰り返し。
それは私が何も知らない子供だった事を思い知るには十分すぎる時間だった。
喧騒の中、時に煩わしく聞きたくない事も耳に入り、その度に私の中に絶望という名の澱がゆっくりと積もっていった。
パパの会社…野々村銀行は、確かに国内有数の大銀行として名を馳せてはいるけれど。
その実、経営状態はさほど順調とはいえない事。
一時かなり悪い状態が続き、藍沢コーポレーションに吸収される形で、合併話も出ていたという事。
そこへ救いの手を差し伸べたのが神崎グループだという事。
これらの話を赤の他人の口から聞かされるたび、実の娘なのにパパの苦労なんて、何1つ知りもしなかった自分を恥じた。
家で仕事の愚痴は一切言わないパパの為…この結婚を受け入れるべきなのかという迷いと。
それでも振り払えない玲への、日毎に募る想い。
その間で板ばさみになり、私の胸は今にも引き裂かれそうだった。
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