灰かぶりの姉

吉野 那生

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入社1年目

剥がれた仮面〜浅野〜

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そこを通りかかったのは偶然だった。


「いやっ!離して!」

お手洗いに向かう途中、怯えたような悲鳴が聞こえ、慌てて駆け出した私を誰かが追い抜いてゆく。

その人に続き、角を曲がった私が見たものは…。
見知らぬ男性に殴られた山野主任と、男性の背に庇われた国枝さんだった。



——え?
どういう…?

咄嗟に状況が掴めず困惑する私の目の前で、男性が声を荒げる。

「あんた一体どういうつもりなんだ?
嫌がる女性にこんな事して」


問い詰める男性に、主任は言い訳するでも慌てるでもなく、笑った。


「嫌がる?まさか。
彼女が俺を誘惑してきたんだ」


その言い分と余裕めいた笑みに、何かがおかしい気がした。


「何言ってんだ、こんな真っ青な顔して震えてる那月が?あんたを誘惑?
離してって叫んでたじゃないか」

激しい怒りを隠す事なく、視線だけで殺せるものならそうしたいと言わんばかりの眼差しを向ける男性。
その苛烈なまでの視線を、主任は平然と受け止めていた。
しかも…口元には笑みをたたえたままで。


「口では何とでも言えるさ。
どうせ誰でも良かったんだろ」


主任の言い分に、正直愕然とした。

何があったが、決定的瞬間は見ていないものの、主任が国枝さんに何かしたのは間違いない。
なのに、ガタガタと震える国枝さんを嘲笑し、そんな事を言うなんて。



——この人は……本当に、山野主任?
こんな酷い事を平然と…しかも笑いながら言う人だったの⁈


「誰でもよくなんかありません!
航平じゃなきゃ、キスも抱きしめられるのも、絶対に嫌!」

男性の背に隠れていた国枝さんの、涙交じりの必死の抗議。
その言葉で、大体の事情を察する事が出来た。

けれど、そんな国枝さんと男性を見やり、主任はフンと鼻を鳴らすと、私を一瞥しその場から離れた。



——どうしよう。

まず浮かんだのは、この後の事だ。
見聞きした事を課長に報告し、人事にあげてもらう。

それが、正しいのだと思う。
同じ女性として、国枝さんの指導係として、見逃す事は出来ない。


一方で…主任の視線が、妙に気になった。

《余計な事に首を突っ込むな》

そう言っているようにも見えた。


…正直、私にだって保身の気持ちはある。
上司に睨まれて、肩身の狭い思いはしたくない。

けれど…。


「おい!大丈夫か?」

緊張の糸が切れたのか、力なく床に座り込んだ国枝さんの

「…大丈夫じゃない、気持ち悪いよ。
あんな人だなんて知らなかった。
早くあの人が触れた服を着替えたい。
シャワーで洗い流したい。
気持ち悪い…怖い、もうヤダ」


ひたすら怯え縮こまる姿に胸が痛んだ。

一瞬でも、保身を考えてしまった自分を恥じた…。
同じ、女として。


廊下にぺたりと座り込み、泣きじゃくる国枝さんと目を合わせるようにしゃがみ込み

「国枝さん、荷物はロッカーかな?
鍵貸して、取って来てあげるから。
とりあえず今日は帰りな。
主任の事は見たままを上に報告するから」

安心させるよう…せめて、私は味方なのだと笑いかける。


「…ありがとうございます」

何も言えない国枝さんの代わりに、彼女を支えていた男性が頭を下げる。

「彼氏はついててあげて」


震える手で差し出された鍵を受け取り、女子ロッカーへと急ぐ。
その途中、少し考えて課長へメールを飛ばした。


『大至急お話があります。
コンプラ案件です。
給湯室までお願いします』


国枝さんとその彼氏をそっと帰し、大急ぎで給湯室へ向かう。


念のため、辺りを伺いながら足音を殺して近づいた。
山野主任が何か勘付いたら…先に課長に何か吹き込んでいたりしたら、厄介だと思いつつ。
息を殺しつつ、給湯室に潜んで課長を待つ。


「浅野くん、どうした?」

けれど、給湯室に現れたのは課長ただ1人。
その事に安心して、やっと深く息を吐き出した。


「コンプラ案件とは穏やかじゃないな、年末の最後で」

「まずは、私が実際に見聞きした事をお話しします」


先程の話をすると、ほろ酔いで鼻歌でも歌い出しそうだった課長の顔が、みる間に厳しくなった。

「山野君が、国枝君にセクハラだと?」

「えぇ、実際その場面を見た訳ではありませんが、どうやら無理やりキスされそうになり、その上抱きしめられたようです。
彼女はガタガタと震え、ひどく怯えて泣きじゃくっていました」

そう告げると、課長はひどく疲れた様子で溜息をついた。

「山野が…か」


その口調に滲む苦さの意味を、私はまだ知らなかった。

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