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亭主の威厳

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今日は北条が1日他社にて会議の日。
なので珍しく悠香は社員食堂で那月と美里と定食を食べていた。

いつもは北条と食べる手作り弁当。
それも悪くはないけれど、女同士でワイワイおしゃべりしながらのランチも楽しいかも。
こういうのをなんて言うんだったかしら…「亭主元気で留守が良い」?
ちょっと違うかもしれないけど、たまにはこういうのも良いなぁ。

なんて悠香が考えていると

「っ!」 

悠香の向かいに座っていた美里が突然息を呑んだ。
何か喉に詰まらせでもしたのか?と心配して見やるが、それにしてはどうも様子がおかしい。

「大丈夫?美里?」

狼狽しきったような、半ば怯えた視線に心当たりなど当然ある筈もない悠香と那月は顔を見合わせる。


その時…

「悠香!」

今の時間帯、この場所にいる筈のない人物の声。
思わず振り向こうとした悠香の左腕を北条は掴み強引に立たせた。

「さ…北条さん、どうしたんですか?」

悠香に向けられた底冷えのするような視線。
その瞳の奥に、明らかに怒りの劫火が渦巻いていた。

「ちょっと付き合ってもらおう」
「え?あの…北条さん?
北条さんってば…何なんですか?
北条さん!」

悠香や周囲の都合も事情もまるで無視。
現れた時同様、唐突に彼は食堂を後にし有無を言わさず拉致される悠香の声だけが、ドップラーのように虚しく消えていった。

いつもなら悠香の歩幅と歩く早さに合わせてくれる北条だが、今日はお構いなしに大股でズンズン歩く。

そのすぐ後ろを悠香も、半分以上引き摺られるようにして小走りに続いた。
何を言っても、何度呼びかけても聞く耳持たない様子の北条に悠香も半ば諦め、引っ張られるまま大人しく付いていく。

いつもと様子の違う2人に好奇と不審をミックスした視線が向けられる。
しかし北条はそんな視線など、まるで頓着していない。

そして、今は殆ど使われていない地下2階の第3倉庫に入り込んだ。
ご丁寧に後ろ手で鍵を掛けた上でようやく悠香の腕を離す。
手加減なしに掴まれていた腕は熱を帯び、ジンと痺れるように痛んだ。

「…どうしたの?
何をそんなに怒っているの」

「正解だ」

——怒っている、という事が正解なのだろうか?
しかし一体全体、何に対して…?

訳も分からぬままのあんまりな仕打ちに悠香は眉を顰めた。
その仕草に更に苛立ちを深めたように北条は

「君は俺の何だ?」

と訊ねた。
その声には一切の感情も温度も感じられず、悠香は思わずヒヤリとした。

「智…?」

「何だ、と聞いているんだ」

いつもの優しく陽気な北条からは想像もできないような冷たい声に、悠香は最近の自分の行動を思い返した。

しばらく考え、そしてようやく思い至った彼女は真っすぐに北条を見つめた。

「貴方は私にとって世界で1番大切な人よ、智」

「じゃあどうして、俺というものがありながら見合いなんてするんだ?」

北条は真剣に怒っていた。
いや、心の底から怒り狂っていた。
もちろん、悠香の心変わりなど微塵も疑ってはいない。
悠香が自分以外の男に心を奪われるという事など、ある訳がない。

愛されているという自負も自信も——やや過剰なほど——持ち合わせているし、事実その通りなのだからそれはいい。

だが…どのような事情があったかは知らないが、悠香が他の男と(たとえ端っから断る気であったとしても)結婚を前提とした話をするなんて、許せる訳がない。
それだけは断じて許せない。

悠香にプロポーズしてもよいのは自分だけだ。


——やっぱり、その事か。

北条にバレないよう小さく溜息をつくと、悠香は敢えて彼の視線を真っ向から受け止め口を開いた。

「私が心変わりしたとでも言いたいのなら、残念ながらそれは違うわ。
それにお見合いだってしないわよ。
ちゃんと断ったもの。
それより智、貴方その話誰から聞いたの?」

初めて北条の瞳が困惑に揺れた。

「え…いや、B社の専務…から」

「困ったわね、本部長を通してきちんとお断りしたのに」

今度はふぅーとあからさまに溜息をつき、悠香は北条の目を見ながら問いかけた。

「すると、私がお見合いすると思い込んで、あんなに怒っていたという訳なのかしら?
あのものすごい剣幕は」

「いや…その」


…形勢逆転。
北条は困ったように視線を泳がせた。

「智!私お昼の途中だったのよ。
大体貴方、会議はどうしたの?」

「え、いや…だから」

助けを求めるように辺りを見回すも、そもそも誰もいない無人の倉庫に連れ込んだのは他ならぬ自分な訳で…。

「大方、野口君と江藤君にでも押し付けてきたんでしょう?」

実際に見ていた筈もないのにやけに正確に言い当てられてしまった北条は、こうなればと逆に開き直った。

「何だよ、そりゃ会議すっぽかしてきたのは確かに悪いけど。
大体こんな大事な事を隠してた悠香にだって責任があるんじゃないか。
そもそも、なんでこんな話をよその奴から聞かされなきゃならないんだよ。
全く…心臓が止まるかと思ったぜ」

「あのね…断ったと言っているでしょう?」

痛み出してきたこめかみを押さえながらキッパリ言い返す悠香。

「じゃあなんで、先方にはそれが伝わってなかったんだよ」

「そんな事私に言われても…」

殆ど子供のようにムキになっている北条に、悠香は再び吐息を漏らした。


——自分の中では、きちんと断ってとっくに終わった事だったのに…。

「…何もそんなに怒らなくたって」

北条を見つめながら悠香は溜息混じりに呟く。

だがその微かな呟きも聞き漏らさなかった北条は、心外だとばかりにすっと片方の眉を上げた。

「これが怒らずにいられるか」

何故か(無駄に)胸を張って言う北条。
少しは落ち着いたようだが、それでも機嫌が直ってはいないらしい。
眉間に刻まれた皺と、よりトーンの低い声はいまだ健在だ。

「それよりも、そんな事で貴方怒っていたの?」

「そんな事とは何だよ、そんな事とは」

憮然とした北条の顔を悪戯っぽく覗きこみ、悠香は逆に訊ねた。

「じゃあ聞くけど、私はあなたにとって何なの?」

「俺の全て。マイスィートハニー。
でもって何よりも大事な、大切な人。
いずれ結婚する女性…」

即答し、尚且つまだ言い募ろうとする北条の言葉を遮るように首に両手を絡め、艶やかに笑いながら悠香は言った。

「なら、私を信じてどーんと構えてくれなくっちゃ。
それが亭主の威厳ってものでしょ、ねぇダーリン?」 

「…オッケー。俺が悪かった、ハニー」

非を認め謝罪した北条は悠香の腰に手を回し、いつものように仲直りのキス。

それが少しばかり濃厚なのは…それと彼の手がやや強引に身体中を弄るのもこの際目を瞑るとして、この騒ぎをどう収めようか?

そんな事を考えながら悠香は本格的になってきたキスに身を投じた。



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