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恋人の条件
しおりを挟むつい今しがた、お互いの気持ちを知ったばかりの2人は、北条の行きつけのショットバーに向かっていた。
しかし羽よりも軽い足取りの北条とは対照的に、悠香の足取りは重かった。
何か言おうと口を開いては、隣を歩く北条の様子を伺い溜息をかみ殺す。
そんな事を何回かしているうちに、ようやく北条も悠香の様子がおかしい事に気が付いた。
「何?どうかしたの、悠香?」
真正面から覗き込まれ、悠香は悲しそうに視線を逸らした。
「どうしたのさ、どこか痛い?
それとも疲れた?」
悠香の頬を一筋伝って落ちた涙を見て、北条はますます慌てた。
「悠香、ちゃんとこっち見てちゃんと話して。
じゃなきゃ悔しいけれど全然分からないから」
親指で零れた涙を拭いながら優しく言葉をかける北条を、悠香は目尻に溢れんばかりに涙を溜めながら見上げた。
「どうして…私なんですか?」
「…へ?」
悠香の口から飛び出た、予想もしてなかった言葉に北条は目を丸くした。
「だって北条さん、すごく素敵だし仕事も出来るし優しいし…どんな女の子でも選り取り見取りじゃないですか。
私なんかじゃなくたって、もっと若くて綺麗な子でも逆玉だって…。
さっきはつい雰囲気に呑まれちゃったけれど…。
でも冷静になってみたらやっぱり、考えれば考える程分からなくなって」
「なに怖がってるの?」
あるいは間違っているかもしれない、と思いつつ北条はそう訊ねてみた。
「怖がってなんか……。
ううん、やっぱり怖いのね。
すぐに飽きられてしまうんじゃないかって。
私なんか何の取り柄もないし、あなたに相応しいとも思えないし…。
ごめんなさい、自信がないの」
つーっと頬を伝って顎の先から落ちた雫を拭いもせず、悠香は真っすぐに北条の瞳を見ながらそう言った。
涙混じりに告白された北条は、小さく息を吐く。
その吐息にすら怯えた顔をする悠香を安心させるよう、にこりと笑いかけ
「人が人を好きになるのに理由なんて要らないでしょ?
それでもどうしてもって言うんなら…そうだな、笑顔が好きだから、かな。
仕事が上手くいった時の満足そうな笑顔に、本部長と話している時の子供みたいな笑顔。
何かあった時の困った様な笑顔に、酔ってる時の無防備な笑顔。
もちろん笑顔だけじゃなくて、真剣な顔も怒った顔も好きだぜ。
まぁ、惚れた弱みだから、顔だけじゃなくて全部好きだけど。
あと、一緒にいるのが楽しくてすごくリラックスするんだ。
これって結構重要、少なくとも俺の中ではね。
大体どうして俺が君にすぐ飽きるなんて思うのさ?
選り取り見取りって言うけど俺、自分からあちこち声かけて歩くなんてしないぜ」
ひたりと目を合わせ、あえてゆっくりと北条は言った。
その思いの全てが悠香に届くように。
「それは…知ってます」
確かに、向こうから言い寄ってきた事は数あれど、北条から誘った事はない。
それは1番近くにいた悠香も見てきた事だ。
「まぁ確かに、色々と噂されてるのは知ってるし、敢えてその誤解を解こうともしなかったけどさ。
だけど君にまでそういう目で見られるの、嫌なんだ」
悠香の潤んだ瞳が戸惑うように揺れた。
「ついでに言わせてもらうけど、俺、悠香との事遊びのつもりはないから。
勿論身体目当てのつもりもね。
とはいえ、悠香はとても魅力的だし、俺だって若くて健全な成人男子だから、率直に言ってしまうと君が欲しい。
あぁ誤解されると困るんだけど、身体はまぁ当然なんだけどさ心も…て言うか、気障に聞こえるかもしれないけど、君の全てが欲しい」
「本当に?…信じてもいいんですか?」
「なんか聞き捨てならない事を言われたような気がするんだけど」
苦笑しながら北条は肩を竦めた。
「そんなに信用ないわけ?君にとって俺は」
「ごめん…なさい」
飼い主に叱られた子犬のようにシュンとなってうなだれてしまう悠香。
そんな仕草もやはり可愛くて、北条は口元がだらしなく弛みそうになるのを片手で押さえた。
「謝らなくてもいいよ。
半分は自業自得だから」
北条がそう言うと、悠香は上目遣いに彼を見上げた。
「悠香じゃなきゃ嫌だから、俺」
本当に私でいいの?と最後にもう1度だけ聞こうと思っていた悠香は、不思議そうに目を瞬かせた。
「さっきはちゃんと言わなきゃ分からないって…言ってませんでした?」
「あれ?じゃ正解?」
と嬉しそうに悠香の額を指でつつくと北条は得意そうに言った。
「それくらいは分かるさ、何せ戦友だから」
「せんゆう…?」
耳慣れない言葉に、悠香は首を傾げた。
——「せんゆう」って、もしかして「戦友」の事?
「俺にとって、一緒に仕事する仲間に対する最高級の名称。
共に戦う仲間、安心して背中を預けられる相手って意味なんだ」
「それってなんか…嬉しいかも」
それなりに信用もされ、頼りにもされているらしい、と思ってはいたけれど。
自分が思っていた以上に信頼されているようだ、という事実に思わず悠香の口元が緩んだ。
「やっと笑った。
俺、君の笑顔が好きだって言ったろ?
出し惜しみなんてしないで沢山見せてくれよな」
やっと笑顔の戻った悠香の肩を抱いて、北条は再び足取り軽く歩き始めた。
とはいえ、北条と悠香の交際にはまだいくつかのハードルが残されていた。
「社内恋愛禁止!」と明言している訳でもないが、かといって諸手をあげて賛成している訳でもないのが社の内情だ。
これまでも、社内恋愛が明らかになると大抵女性の方が、他部署もしくは近隣支店への移動を命じられた。
望まぬ仕事と恋人の板ばさみになって、退社した同僚も少なくない。
また男性の方もごく稀ではあるが、重要なポストや出世コースから外されたりする事もあった。
加えて言うならば、2人の年齢も微妙な所であった。
29歳と32歳。
特に悠香の方は、平均的な適齢期というものから見ても、少々婚期を逃しつつある―いわゆる結婚を焦っていると見られがちな―年齢だ。
これを機に寿退社するのでは?といらぬ詮索をされるのは真っ平だったし、今、辞めたり移動するつもりは悠香には全くといっていい程なかった。
「まーた何か考え込んでる。今度は何?」
北条の苦笑混じりの言葉に悠香はハッと顔をあげた。
「眉間に皺寄せて難しい顔してたぜ。
言いたい事があるんなら全部言っちまえよ。その方がラクになるから」
「ごめんなさい…」
「謝らなくていいからさ。で、何?」
躊躇うように視線を逸らす悠香を、北条は辛抱強く待ち続けた。
しばらくすると、観念したように悠香は橋の手すりに身をもたせかけ、慎重に言葉を選びながら切り出した。
「私達って社内恋愛、に該当するんですよね?」
「俺はそのつもりだけど?」
視線で問いかけてくる北条に、悠香は困ったように微笑みつつ
「私も…そのつもりなんですけれど」
「…ど?」
「早まったな、とか…後悔してません?」
突然そう切り出した悠香を北条は驚いて見つめた。
「そう見えた?」
「いいえ」
と返事が返ってきたので
「じゃあ君はそう思ってるの?」
北条は質問を変えた。
「いいえ」
殆ど即答に近い早さで答えた割に、悠香の顔色は冴えなかった。
「あのさ、さっきも言ったけど言いたい事があるのならちゃんと言って。
じゃなきゃ俺、ホント分からないから」
なかなか本題に入ってこない悠香に、あくまで北条は優しく訊ねた。
「私…北条さんのこと前から好きでした。
北条さんが私を本気で好いてくださってる、と分かった時は心底嬉しかった。
でも…社内恋愛が発覚すると社がどう対応するか、北条さんもお分かりですよね?」
「あぁ」
なんとなく話が読めた北条は曖昧に頷いた。
「私、今の仕事がとても楽しくて、やり甲斐を感じてるんです。
だから…社内では、というか人前では同僚のふりをしてもらえませんか?」
「それって…」
「すみません、勝手な事言ってるって分かってます。
でも、こういう時って飛ばされるのは大抵女の方だし。
だけど私、どうしても今の仕事を続けたいんです」
——そんな事まで考えていたのか、と北条は驚いていた。
「ごめん。俺、君の気持ちも知らないで1人で浮かれてた」
「そんな、謝らないで下さい。
我儘言ってるの私なんですから」
申し訳なさそうに目を伏せる悠香を北条はそっと抱きしめた。
「君の言いたい事は分かった。
でも揚げ足取る訳じゃないけど、今までだって十分付き合ってるように見えたと思うぜ。
何せほぼ毎日、手作り弁当食べさせてもらってるし、退社はともかく出社は一緒だし、こないだなんか同じ部屋に寝泊りしたし」
「っ!…誤解を招くような言い方はやめてください」
それまでの思いつめていた表情が嘘のように、悠香は照れながら北条に食ってかかった。
「本当の事だろ?何なら今から…」
「でも、あなたはともかく私は認めてなかったから」
話が逸れてしまいそうになったので、悠香は慌てて北条の言葉を遮った。
これまで誰に何を言われても、悠香が否定し続けてきた事は北条も知っている。
事実その通りだったのだが、この先も悠香は態度を改めないという事か、と北条はほんの少し面白くない気分になった。
確かに発案・推進者は矢野本部長だが、事実上の責任者は自分と悠香だ。
今彼女に抜けられるという事は、プロジェクトの失敗を意味すると言っても過言じゃない位、悠香の役割は重要である。
まして本人も言っていたが、傍から見ても悠香は実に生き生きと仕事をしている。
余程楽しいのだろう、と見ているこっちまで気分が良くなるほどだ。
一方で悠香の言い分も分からなくはない。
客観的に見ても、彼女の言う通りにした方が良いのだろう。
プロジェクトの為に…そして何よりも彼女の為に。
それは認める。
しかし…
「ごめんなさい。
こんな事言う私は…嫌い?」
「まさか。
確かに悠香の言う事も一理あるし?」
北条はそこで一旦言葉を区切って素早く周りを見渡した。
「まぁでも、人前じゃなきゃ良いわけだ」
決して短くはない付き合いの中で、彼がこんな人の悪そうな表情を浮かべる時は、ロクでもない事を考えていると学習済みの悠香は、思わず一歩下がった。
否、下がろうとした。
けれどがっちりと北条の腕の中に捕えられているこの状況では、軽く仰け反っただけだった。
「って事は、誰がやったか分からなければいいんだよな?」
言葉の真意を測り損ねて、それでも警戒していると首筋に熱く湿った感触。
「ちょっ…北条さん!」
きつく吸い上げられ、身をよじる間もなく赤い痕が刻み付けられた。
「あなたって人は!」
無理やり身を離し、キッと睨みつけたが
「人前でベタベタしない。
少なくとも表向きは、仕事上の付き合いって関係を通そうという君の考えは尊重する。
だけど俺も心配性だから、せっかく手に入れた君が狼どもに狙われ続けるってのも、気に喰わないのさ」
全く意に介した様子もなく、ぬけぬけと言い放つ北条に、悠香は怒りを通り越して呆れ果てた。
「だから今まで通り、押して押して押しまくらせてもらうからな。
遠慮はなしで」
「…セクハラならお断りします」
「合意の上ならセクハラって言わないんじゃなかったっけ」
不敵に笑いかけるこの男の、どこがそれほどまでに良いのだろうと自問自答する悠香であった。
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(執筆期間:2022/05/03〜05/24)
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2022/05/30、エタニティブックスにて一位、本当に有難うございます!
✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
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○表紙絵は市瀬雪さまに依頼しました。
(作品シェア以外での無断転載など固くお断りします)
○雪さま
(Twitter)https://twitter.com/yukiyukisnow7?s=21
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