狼王のつがい

吉野 那生

文字の大きさ
上 下
3 / 46
出会い編

失われた記憶と仮の名

しおりを挟む

何者だ?と問われて差し出せる答えを、生憎〇〇は持ち合わせてはいなかった。


その事に戸惑い答えあぐねているうちに、目の前に立つシルヴァンとやらの顔がどんどん険しくなってゆき、慌てて口を開く。

「ごめんなさい…わからないんです」

「わからない、だと?」


一段低くなった声に怒気が混じっている事を感じ取り、〇〇はたじろぎながら頷いた。

萎縮している〇〇の「気」は、シルヴァンにも伝わっていた。
だからと言って、不審者を見過ごす事は出来ない。


敢えて「気」を限界まで高め、〇〇を威圧するように睥睨した。

「正直に答えた方が身の為だぞ」


気の弱い、或いは力のない女子供であれば失神しかねない凄まじい「気」をまともに受け、〇〇の顔が真っ青になる。
けれどカタカタと身体を震わせながら、それでも真っすぐにシルヴァンを見つめ

「自分が誰なのか本当に覚えていないんです」

答える頼りなくか細い声に、不安げに揺れる眼差しに、苛烈なまでの視線が和らぐ事はなかったが…シルヴァンは内心、ほぅと感心していた。



——これだけの「気」をまともにくらっても倒れぬとは…。
この娘、やはり只者ではないのかもしれない。


シルヴァンの左目は固く閉ざされたままだ。

その代わり、視力を失ってから最大限まで研ぎ澄まされた感覚により、ありとあらゆる「気」を察する事ができるようになっていた。
「視えて」いるのと遜色ない…あるいはそれ以上に何が起こっているのかわかるようになっていた。

今見えている右目だけに頼り、暮らしてゆくには今の環境は厳しすぎたのだ。



あの時…。

懐かしい「匂い」と共に異変を感じて飛び出したシルヴァンの上に「降ってきた」のが〇〇だった。

崖の上から彼女が飛び降りたのか、落ちたのか、それはわからない。
けれど、あの時の状況はどう考えてもおかしかった。
非常事態、異変といってもよい状況であったのは間違いない。


何よりも…彼女自身、異質な存在だった。
この国、いや、この世界の誰とも似ていない存在。



黙り込んだまま考え出したシルヴァンを上目遣いに窺い、〇〇は詰めていた息をそっと吐き出した。


少しだけ気が逸れたのか、シルヴァンから放たれる威圧感がやや弱まったのが、まず大きな要因だったが。 

自分が何者なのかわからないと先ほど答えたけれど、それでも目が覚めてから感じるのは違和感ばかりだ。


レプスと名乗ったあの女性も、そして目の前に立つシルヴァンという男性も、一見「普通の人」に見える。

さえなければ。



——飾り物、という事は…ないんだろうな。

身動ぎしただけで悲鳴を上げる右腕は諦め、左手で頭部にそっと触る。

分厚い包帯に阻まれ完全にはわからなかったけれど、顔の横にある耳はレプスのものともシルヴァンのものとも違う。


彼らが「普通ではない」と感じるという事は、一体どういう事なのか。
そもそも、「普通」とは何なのか。



——自分が何を知っていて何を知らないのか。
この世界の事、私自身の事。
何1つわからない…。


グルグルと考え込んでしまった〇〇は、相手の吐息にビクリと身体を震わせた。


「そう怯えるな、捕えたり殺したりしない。
少なくとも正直に答えれば」

溜息まじりに告げられ恐る恐る顔を上げると、見極めるようにこちらを見つめるシルヴァンと目があい、〇〇はピシリと固まった。


「自分の事すらわからない、と?」

「そう、です」

…か?」

「私の考えるとあなたの言うが同じかわかりませんが、少なくともあなた方と私は違う存在のように感じます…その、見た目とか」

「我ら獣人の事も詳しくは知らぬと。
迷い人…か」


難しい顔をしたまま顎に手をやり何やらブツブツと呟いているシルヴァンを、〇〇は困惑しながら見守った。



どれくらい時が過ぎたのか。


「何もしない」と先程彼は約束したけれど…その約束が守られるか、怪しいものだ。

彼がどういった人なのか、どれくらい偉いのか知らないけれど、それよりもっと偉い人が命令したら?
もし、急に気が変わったら?
彼が約束を守り続ける保証はない。



——だって…私は「」ではないのだから。

何故そう思ったのか、自分でも説明ができないけれど。
理屈抜きにそう感じた瞬間、急激に心が冷えた気がして、〇〇は痛まない方の腕で自分の身体を抱きしめた。



一方で今後の事を考えながら、シルヴァンは密かに〇〇を観察していた。

仕草も粗野ではないし、身なりも綺麗に保たれている。
言葉遣いや話し方からも、一定以上の教育を受けているように見える。

着ていた服は…見慣れない形に見た事のない布地で、明らかにこちらの物とは違っていた。
身体にピタリとあっていたそれは、特別に誂えたモノなのかもしれない。

履いていた靴も艶のある革製で、細かい縫い目は均等だ。
よほどの職人が拵えたモノでないとこのような綺麗な縫い目にはならないし、使われている金具もピカピカしている。


服を誂え、高級な靴を履いているという事は、それなりに高い身分の者なのか。

それとも…?



そんな事を考えていたシルヴァンは、ふと〇〇の容姿に目を止めた。
青ざめた顔で震えているその姿が、酷く嗜虐心を煽ると同時に保護欲をそそる。


そんな相反する思いに驚き、シルヴァンはマジマジと〇〇を見つめた。


「…なんですか?」


〇〇の睫毛が意外と長い事。
肌が透き通るように白く、真っ黒な髪の毛との対比が美しい事。
そして…いくぶんカサついてはいるものの、ぽってりと紅い唇から、何故か目が離せない事。



——あの唇を思うさま貪ったら…この娘はどんな顔を見せるのだろう。


突如沸き起こった獣の本能にまず驚き、それを意志の力でねじ伏せたシルヴァンは、あえてその事を考えないよう意識を切り替えた。
 



——それにしても…先程感じた異変。


あの複数の気配。

あれはこちらを探り、機を窺い隙あらば…という類のものだった。
そんな者達と、目の前にいるこの娘が一緒にいた事は間違いない。



この娘とあの者達とは、どういった関係なのか。

記憶を無くしたと本人は言っているが、それが本当の事なのか、此方を欺くための芝居なのか、見極める必要がある。


無言のまま凝視するシルヴァンに、実際には片方の目しか見えていないにかかわらず、心の奥底まで見透かされそうな恐ろしさを感じ、〇〇は唇を噛みしめた。


「ここで保護するのなら、お前を何と呼べば良いかと思ってな」

思いがけない事を言われ、驚いて顔を上げた〇〇と無表情なシルヴァンの視線が絡む。


「名前は…?それも覚えてはいないのか?」

探るような口調に、〇〇は自分の中に何も浮かんでこない事に落胆しながら頷いた。


「では……これからはアリシア、と」

「アリ、シア…?」

戸惑いながらも繰り返した〇〇に、シルヴァンがぎこちなく顎を引くように頷きを返し…。



それが記憶を失い「〇〇」だった彼女が、この地で「アリシア」になった瞬間だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

悪女カメリア

西楓
恋愛
花屋の娘ユリアンナは悪女カメリアの半生の夢を見る。夢の中で極悪非道の限りを尽くすカメリアはギロチンで処刑されてしまう。 そのカメリアの10歳の頃に転生してしまったユリアンナは…暗めです。

どうせ結末は変わらないのだと開き直ってみましたら

風見ゆうみ
恋愛
「もう、無理です!」 伯爵令嬢である私、アンナ・ディストリーは屋根裏部屋で叫びました。 男の子がほしかったのに生まれたのが私だったという理由で家族から嫌われていた私は、密かに好きな人だった伯爵令息であるエイン様の元に嫁いだその日に、エイン様と実の姉のミルーナに殺されてしまいます。 それからはなぜか、殺されては子どもの頃に巻き戻るを繰り返し、今回で11回目の人生です。 何をやっても同じ結末なら抗うことはやめて、開き直って生きていきましょう。 そう考えた私は、姉の機嫌を損ねないように目立たずに生きていくことをやめ、学園生活を楽しむことに。 学期末のテストで1位になったことで、姉の怒りを買ってしまい、なんと婚約を解消させられることに! これで死なずにすむのでは!? ウキウキしていた私の前に元婚約者のエイン様が現れ―― あなたへの愛情なんてとっくに消え去っているんですが?

こうして魔王は、女子高生へと転生したのだった

六つ花えいこ
恋愛
かつてその娘は、魔王であった。 悪逆非道の限りを尽くした魔王は、その生を終えると、なんの力も持たぬただの人間の娘へと転生した。 しかし、非力な少女であっても、やはり魔王の先には悪しき道が示されていた。 「まぁ卑しい事。そんなに貪らなくても、まだ沢山おかわりはありましてよ」 さぁほら、食べなさい。そう言って魔王は鱈腹で涙を浮かべる少女にウサギ型に切られた林檎を突き出した。 ――これは元魔王であった悪役令嬢が、真実を見つけるお話である。

告白

チョコミント
恋愛
転向してきた高校。 そこは、完全なる男子校だった…。 狼の中に1匹の子羊…。

平民と恋に落ちたからと婚約破棄を言い渡されました。

なつめ猫
恋愛
聖女としての天啓を受けた公爵家令嬢のクララは、生まれた日に王家に嫁ぐことが決まってしまう。 そして物心がつく5歳になると同時に、両親から引き離され王都で一人、妃教育を受ける事を強要され10年以上の歳月が経過した。 そして美しく成長したクララは16才の誕生日と同時に貴族院を卒業するラインハルト王太子殿下に嫁ぐはずであったが、平民の娘に恋をした婚約者のラインハルト王太子で殿下から一方的に婚約破棄を言い渡されてしまう。 クララは動揺しつつも、婚約者であるラインハルト王太子殿下に、国王陛下が決めた事を覆すのは貴族として間違っていると諭そうとするが、ラインハルト王太子殿下の逆鱗に触れたことで貴族院から追放されてしまうのであった。

主人公受けな催眠もの【短編集】

霧乃ふー 
BL
 抹茶くず湯名義で書いたBL小説の短編をまとめたものです。  タイトルの通り、主人公受けで催眠ものを集めた短編集になっています。  催眠×近親ものが多めです。

前世の祖母に強い憧れを持ったまま生まれ変わったら、家族と婚約者に嫌われましたが、思いがけない面々から物凄く好かれているようです

珠宮さくら
ファンタジー
前世の祖母にように花に囲まれた生活を送りたかったが、その時は母にお金にもならないことはするなと言われながら成長したことで、母の言う通りにお金になる仕事に就くために大学で勉強していたが、彼女の側には常に花があった。 老後は、祖母のように暮らせたらと思っていたが、そんな日常が一変する。別の世界に子爵家の長女フィオレンティーナ・アルタヴィッラとして生まれ変わっても、前世の祖母のようになりたいという強い憧れがあったせいか、前世のことを忘れることなく転生した。前世をよく覚えている分、新しい人生を悔いなく過ごそうとする思いが、フィオレンティーナには強かった。 そのせいで、貴族らしくないことばかりをして、家族や婚約者に物凄く嫌われてしまうが、思わぬ方面には物凄く好かれていたようだ。

影王の専属人は、森のひと

藤原 秋
恋愛
政権交代後の過渡期にあるグスタール王国。 通称「森のひと」と呼ばれる亜人、猫型の獣耳を持つ狩猟民族のリーフィアは、ひょんなことから王妹シルフィールの従者として王城に出仕することとなった。 不慣れな環境といわれのない差別に悪戦苦闘する日々の中、彼女は主の兄である若き国王クリストハルトに奇妙な違和感を抱く。 その違和感の正体を知った時、彼女に降りかかることとなった思わぬ災難とは……!?  「やらしい意味じゃなくて、オレ、純粋にもふもふしているの好きなんだよね。獣耳、可愛いからずっと触ってみたかったんだ」   は……? 屈託のない顔で何とんでもないこと言っているのよ。そんなセクハラ、許すわけないでしょ!   ―――そう、思っていたはずだったのに。何がどうして、こんなことになってしまったんだろう……?  因果な運命に巻き込まれてしまった真面目で不愛想な猫耳娘と、彼女の獣耳がいたくお気に入りの軽薄なワケあり影王、そんな二人が紆余曲折を経て秘密の主従に至るまでの物語。

処理中です...