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屋根の上の烏(その3)

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   (三)
 三月朔日、藤助は【ひたちや】におときを訪ねた。座敷に上がると、
「遊びに来たのではありません。相談に、いえお願いがあってお邪魔いたしました」
 と切り出した。町人の身分とは言え、芸州浅野家御用を勤め、浅野家の家老格の一族に繋がる家柄である。何ごとかと、さすがに緊張の色を隠せない【ひたちや】の主人藤四郎とおときに向かって、藤助は余語を交えず、ぶつけてみた。
「おときさんとやら。あなたには、江戸を遠く離れた芸州くんだりに行ってでも、柳助と所帯を持つ気がありますか」
 咄嗟には理解しかねた風で、おときは少し目尻の下がった大きな目を見開いたまま、まじまじと藤助を見つめていた。藤四郎がおときの肩に手を置いてきゅっと掴んで、
「芸州屋さん。それは、柳助さんからのお話でしょうか」
 ほっとした表情を浮かべ、遠慮がちに問いかけてきたが、藤助は首を振った。
「いや。そうではありませんが、わたしでよければ話をまとめようと考えたのです」
 藤助のことばを聞いた藤四郎の顔には、あからさまに落胆した表情が浮かび上がった。おときはと言えば、事の成り行きを理解した途端、朱に染まった顔を隠すかのように深く俯いたきりになった。
――やはり、このふたりには聞くまでもなかったな。
 では進めても、と言いかけた藤助のことばを、藤四郎が遮った。
「それは、柳助さんが、芸州様にお仕えするということでしょうか」
 藤助は一瞬口ごもった。
「いや。はっきりと決まったわけではありませんよ」
「決まっていなくとも、決まったこととして万事を進めていく。そうしたことでございましょう」
「……」
「芸州屋さんがお出でなさって、相談事があると仰ったとき、私も、おそらくおときも、柳助さんとは金輪際にしてくれ。そう切り出されるものと覚悟いたしておりました。やはり、その通りでございました。柳助さんが芸州様にだんだんとお目をかけて頂くようなるにつれ、心配しておったのでございます。私どものような者のところへ出入りしておれば、いずれ柳助さんの行く末の障りになるのではないかと思っておりました」
「待て、ひたちや。そう言う話ではなく……」
 藤助は慌てた。俯いたままのおときの顔から朱の色が消え、透き通るような白い肌が青ざめたかにさえ見える。ぽとりと、おときの最初の涙が膝に落ちた。止めどなくこぼれ落ちる涙の音が耳に刺さる気がして、藤助は後のことばが出てこなかった。
「なに、店にとりましては客がひとりいなくなるばかりのこと。人にとりましては……。どの道、いなくなるものでございますから、西国に行くのも、西方へ行くのも同じことでことでございます」
 ひたちやの主、藤四郎のことばがやけに寂しく響いた。
「いや、そういう話ではないのです。落ち着いて聞いてもらいたいのですが」
 藤助は、いつしかねじ曲がった話の行く先を元に戻そうとした。
「恥から話しますが、芸州様がいたく柳助にご執心で、此度《こたび》の帰国になんとしても柳助を伴いたいからなんとかせよ、と仰せでした。あのような性分の男ゆえ、まず承諾はせぬでしょう。一度はお断りいたしましたが、私も半分は宮仕えの身。二度は断れませぬ。柳助には、何としても芸州まで下ってもらわねば、私も困るのです」
「……」
「いや、芸州様にお仕えせずとも構わぬのです。あのよう性分故、今さら他家に仕えることはないでしょうから、それは期待しておりません。ただ、芸州まで行ってもらえれば、私も面目が立ちます。それには」
 藤助は一旦ことばを切り、おときを見つめた。
「私の見るところ、柳助の腕は、おときさん。あなたがいてこそ、より冴えるように思えるのですよ。柳助の腕を生かすためにも、腰を動かすためにも、おときさん。あなたの助けがいるのです。はっきり申しましょう。あなたには、柳助と夫婦になり、芸州に下って欲しい。いや、あなたから、芸州へ一緒に行くと言ってもらいたいのです」
 おときは、顔を上げ眼を丸くしてまじまじと藤助を見ている。涙の跡が斑に化粧を落としひどい顔になっていた。藤四郎がさりげなく手拭いを手渡すと、気づいたおときは真っ赤になって俯き、残った化粧を拭い始めた。
「それで、先ほどおときに、芸州で柳助さんと所帯を持つ気があるかと、仰ったわけですか。ですが、私には、おときにそんな暮らしができるとは、とても思えませんが」
 藤助は笑った。何とか話が元に戻った、と。そして言った。
「いや、何も芸州で暮らす必要はないのです。ちょっとした絡繰からくりを考えてありましてね」
 と言いながら、藤助は照れくさそうに笑った。
「柳助とおときさんには、芸州より西へ出向いてもらい、往き復り芸州に滞在してもらう。折に触れて、おときさんから芸州で暮らしてみたい。旅の途中で、繰り返し口にしてもらえればそれでいい。何、嘘でもいいんです。真実まことになれば、みな丸く収まる……。みなに都合の良い話です。
「……」
「芸州候は柳助を手に入れられる。私は面目が立つ。おときさんは、この世界から足が洗える。藤四郎さんは、多額の身請け金を手にできる。柳助さんは、身過ぎのこと、材料代のこと、何も考えずただひたすら菓子作りに打ち込める。そうした話ですよ」
 藤四郎は、しばらく想いあぐねていたようだったが、重い口を開いた。
「誰もに都合良く丸く収まるお話なぞ、この世界にはございますまい。必ずどこかで下の者が泣くように出来ているもの。それがこの世というものでございましょう。私どもはそれに慣れております。柳助さんのためにならぬから身を引いてくれ。そう仰られれば、一も二もなくお受けいたしました。ですが、芸州屋さんの話は、この頭ではどうにも理解が出来かねるのでございます」
「おときさんもか」
 藤助がいきなり訊いたせいか、おときは目を丸くしたまま呆然としている。
「おとき、お前が想うように答えなさい。このお話の要はお前の心持ちひとつだろうから」
 藤四郎に囁かれて、やっとおときは自分の考えを巡らせ始めたようだった。藤四郎がおときの様子を見やりながら、さらに重い口を開いた。
「芸州屋さん。確かにこの話は旨い話のように思えます。ですが、私にはこの話が、まるで、おときに柳助さんを口説かせる話のように聞こえてならないのです。だとすれば、おときには荷が重すぎやしませんか」
 藤助は、藤四郎の鋭い反論を意外に想いながらも、反面、なるほど、とも感じていた。
――柳助が、ここに通うようになって変わっていくはずだ。この藤四郎という主人あるじ、一体どういう素性の男なのか……。
「いや、その通りですよ、ひたちやのご亭主。あの柳助という放れ馬をこなせる伯楽は、この世におときさん一人しかいないでしょう。だから頼むしか手段はありませんでした」
 藤助はあっさり手の内を明かして、潔い笑みを浮かべた。
「商人ですから、掛け値はうんと掛けておきたい。利幅は大きくしておきたい。そういう欲にかられました。申し訳ない。ひたちやさんの言う通り、おときさんに柳助を口説き落として貰いたい。さらに言えば、おときさんを芸州家の人質に取らせてもらいたい。そういうことです」
 おときは、何故か俯いたままひどく赤くなっている。
――放れ馬をこなすと聞いてよからぬ想像を巡らしたのか、柳助を口説き落とすと聞いてあらぬ妄想にかられたのかは、想像するしかない。
「あたしは、柳さんのためになるなら、なんでもするし、どこへでも行きたい。邪魔にならなければ、だけど……」
 俯いたまま消え入りそうな声で呟くように言った。すぐに藤助が膝を打った。
「それで話は決まった。あとは、よしなに頼みます」 
 藤助は、不安の色を隠さない藤四郎と本当の意味で事態を理解していないにおときに向かって諄々と思惑を説いた。
 できれば、この三月四月からの半年ないし一年の間、柳助を長崎へ向けての菓子修行(遊歴と言うべきかも知れぬがと藤助は言った)へ行かせたい。その費用は全額芸州屋(その実は浅野家だが)が持つ。ただし、江戸から長崎への行き帰りには安芸(広島)に寄り、芸州候にお目通りし、成果を披露すること。それが唯一の条件で、できれば、長い期間芸州に滞在し、ことによればそのまま暮らしてもらうのが望ましい。
 おときと藤四郎には、そのことを繰り返し柳助に勧めてもらいたい。
 特におときには、柳助と一緒に下向してもらい、安芸で柳助の帰りを待ってもらう。その間、芸州屋(芸州家)で一切の面倒を見る。さらに、一藩に出入りする菓子司の女将おかみとして恥ずかしくない素養を身につけさせたい。それがおときさんを芸州家の人質に取るということです……と。
 おときは、大きな目を丸く見開いて、藤助をまじまじと見つめたきり身じろぎひとつしない。時折、ぱちぱちと音が聞こえるような瞬きをしながら、一心に藤助の話を呑み込み噛み砕こうとしているように見えた。
 藤四郎は、そうしたおときを見つめながら、ひどく哀しげな表情を浮かべた。
「芸州屋さん。この話は、おときのような、相模の食うや食わずの水飲み百姓の娘で、こうした場所に働きに出された女や、私のように人の道を外れた者にとっては、想像も出来ないような、まったく別な世界の話です。有難い、いえ、考えることも出来ないような話で、感情がついていけないんです。考えるだけでばちが当たってしまう。そんな想いで胸が塞がれる。私どもはそんな人間なんでございます。どうか、お汲みいだきますように」
 藤四郎は深く頭を下げ、そのまま呻くように言った。
「おときは、柳助さんのためだから。そう申して芸州屋さんの仰るようにするでしょう。ですが、これは自分の欲の少ない、自分のために何かするってことが苦手な性分です。裏店の饅頭屋の女房にはなれても、殿様の処へ出入りするような菓子司の女将にはなれやしません。おときなりに死にものぐるいで努力はするでしょうが……」
「……が、なんだ」
 藤助が、言い淀んだ藤四郎を促した。
「いえ。私どものように、襤褸ぼろを着て生まれ、襤褸を着て育った者は、決してその襤褸を脱ぐことはできないんでございます。どんなに着飾り、どんなに振る舞ったところで、身に付いたものは隠し通すことはできない。いつかは表に出て来る……。襤褸が出るとはそうしたことでございましょう。それは柳助さんにとっての恥、これにとっては負い目の刃となるでしょう。ですから……」
「いや。待てひたちや。おときはそれほどの馬鹿ではあるまい。おときなれば、それもできると見込んだからこそ持ってきた話だ。人は望めば幾らでも変われる。お前が言う襤褸なぞ、欲と目的を持てば簡単に脱ぎ捨てられるはずだ」
 藤四郎は静かに笑った。
「芸州屋さん。おときは違う意味で、やっぱり馬鹿なんでございます。菓子司の女将になろうなんて、そんな大それた欲など考えられはしません。ただ柳助さんの役に立てればそれでいい。傍にいられればそれだけでいいんです。芸州屋さん。菓子司の女将なんてものは、おときではない誰か他の人のものでしょう。おときにはもっと別な、おときだけの場所を作ってやって頂ければ、その方がこれのためにはいいんです」
「そういうものなのか。おときさんはそれでいいのか」
 と藤助が呟くように念を押すと、おときは静かに頷いた。
「ふむ。――わかりました。ひとまずこちらからはお願いをする。引き受けてもらえれば、その件については、充分考えておくということにしておきましょうよ」
「ぜひにお願いいたします」
 藤四郎とおときは深く首を下げたまま、藤助が出ていくまで身じろぎひとつしなかった。
 藤助はその足で徳大寺裏の柳助の店に出向いた。店の入り口の腰高障子は閉じられたままで、軒先には【本日分売り切れ】の札が静かに揺れている。柳助はまだ、永田の馬場の山王社の参詣から戻って来ていないようだった。店先に申し訳のように置かれている縁台は、ひどく古ぼけていて、人ふたりが座れば壊れそうな、ひどく哀れな風情である。藤助は慎重に腰を下ろした。座ってみれば存外に頑丈だとわかった。
――触れれば壊れそうで、その実殴っても壊れるものじゃない……。 
 藤助の脳裏に、ひたちやのおときと藤四郎の姿が浮かび、消えた。
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