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第二章(その4) 被害者津田純子
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戸田が課長室に通されるなり、
「戸田警部補。気持ちは分かりますが、学校への直接介入はできませんよ」
と石崎展子課長が言い放った。
「それに、先ほど県の教育委員会の方から、各校に対して速やかな欠席生徒の把握と、登下校時の安全対策の指導の徹底についての通達が出されています。」
「そんなことは、とっくに確認済みでして。それでは遅すぎやしませんか」
戸田は詰め寄った。
「本来ならば、警察から出向いて指導すべきなんです」
「それを決めるのは、たかだか一課長の権限ではない。それくらいは知ってるでしょ」
「石崎課長。鹿箭島県の高校は百校ちょっとしかない。各所轄の地域課が小一時間ずつ時間を割けば、簡単に把握できることです。その学校の生徒に被害者はいないとね。たぶん、夜のニュースまでには似顔絵は公開されるでしょうが、おそらく対象者から未成年が漏れてしまいます。小藤の描いた似顔絵は使わないでしょうから」
やれやれ、と石崎課長はため息をついた。
「変わらないわね、戸田君。これからの幹部会議でその話は出るでしょうし。まあいいわ。二時間だけ、場所を貸しましょ。誤解のないように言っておくけど、戸田君と同じ考えではありませんよ。その方向に広く考える傾向があるだけ。傾向よ、わかった?」
戸田は頭を下げた。
「すいません。例の紅茶、入れてますんで、すぐ持ってきます」
石崎課長は、苦笑しながら課長室からの出口を指差した。
――教育委員会からの指示だと、内容は各校の校長教頭を経由した上でなくては担任教師へは伝わらない。担任教師の確認がすむと、今度は逆の経由で教育委員会に報告される。懸念事項があった場合でも、各校責任者からではなく教育委員会を通じて警察へ通報されることになる。教育委員会を経由することで責任が軽減する。そう思いこんでしまうからだ。
何よりも教育関係者という輩は、被害者の遺体が目の前に置いてあっても、自己保身をはかる。速やかにことが運ぶとは思えない。
まして、平日は、今日明日の二日間。その後、四連休が入る。彼らを通じていては、一週間どころか、一ヶ月後でも把握できるとは思えない。
戸田はそう熱弁した。
まず、生徒指導担当の教師と直接連絡を取り、学校周辺の危険性が高いこと。可能性は低いが、生徒が事件に巻き込まれている場合もあること。現状での生徒の出席状況を把握してもらうこと。完全に把握できなくても、折り返し連絡だけは入れてもらう。
それだけでいい。とにかく数を当たってほしい。
言い終わらるやいなや、戸田自身既に連絡を始めていた。
刑事部屋から呼びつけられた瀬ノ尾は、小藤巡査や少年課の婦警数名と分担割りして、受け持った高校に確認の電話を入れながら、ある疑念に駆られてる。
すぐにでも戸田に問い糺したかったができなかった。
『戸田さんと、おそらく石崎課長も、被害者が高校生だと半ば確信している。一体どこに根拠があるんだ?』と。
ものの一時間もしないうちに、折り返しの電話が入るようになった。
一番早い回答を出したのは、鹿箭島市小松原にある私立R学園高校だったろう。折り返しも何もなかった。問い合わせた電話先で、
「お疲れさまです。充分配慮はいたしますが、当高校には女生徒はおりませんので」
掛けたのはどの婦警だったか、赤面すると同時に、最後まで応対せずに切ってしまった。
そうした間違いはあっても、折り返しの電話を受け該当者がない高校が増えていくのは、望ましいことだった。
「戸田警部補。電話に出てください。警部補を名指しの女性です」
戸田は一瞬怪訝な表情を浮かべ、おそらくなけなしの記憶をあるったけ振り絞ったあげく、電話を受けた婦警に小声で聞いた。
「おれにか? どこの美人だ?」
「I市の県立高尾野女子高の新納涼子先生とおっしゃっていますが」
折り返しか、そう戸田が手真似で聞くと、婦警は首を振って付け加えた。
「旧姓が香山さんだと」
う、と言ったきり、椅子から飛び上がった戸田の顔色が見事なまでに変わっていく。人が緊張していく過程が眼に見えてわかった。
一瞬で血の気が引き、戸田の浅黒い顔面ですら真っ青になった。
次の瞬間には、一気に血が逆流したと見えて顔面は紅潮している。
受話器を持って直立したままの戸田は声すら裏返っていた。
「替わりました。戸田です」
日頃ですら、もそもそとした戸田の冴えない声が、よりもそもそと喋っている。もはや本人にしか聞こえまい。
「早急に、ファックスを流します」
戸田の声が急に大きくなった。続けざまにファックス番号を読み上げていく。
戸田の声を受けて、似顔絵を送信し終えた婦警が終了の合図を送った。
「では、確認をして折り返し連絡をお願いします」
受話器を置いた戸田は大きく深呼吸をした。
既に通常の声音、顔色に戻っていたが、何も言わなかったし、誰も聞けなかった。
六分後。午後三時四十二分。電話が鳴った。戸田が飛びついた。
「県警刑事課戸田」
後の声は聞こえない。
左手をポケットにつっこんだ戸田の、相づちだけが聞こえてくる。
しばらくして、やっと戸田の普段通りの声が聞こえ始めた。
「すぐに、ぼく、いや自分が行きましょう。所轄、警察署への連絡は自分の方でやります。ええ、可能なら自宅より学校の方が……。それも、そっちに着いてから、ということにしてください」
受話器を置いた戸田が、小藤巡査を呼んで、ポケットの中のメモ帳を渡した。
「小藤さん。これコピー取ったら返してください。コピーは刑事課の誰か、渡辺係長にでも渡して置いてください。瀬ノ尾。これから出水市へ行く。被害者が割れそうだ」
えらくせかせかと指示を出した戸田は、まだ誰も食べずに置いてあったココナッツクランチの一箱と紅茶パックを内ポケットに突っ込んで、瀬ノ尾を急かした。
「急がんと日が暮れる」
一方で、婦警たちに時間まで確認作業を続けるように頼むと、
「のん婆に、あたりが出たら一杯おごると伝えて置いてくれ」
言い置いて少年課を飛び出していった。
背中にどの婦警だかの小声がくっついている。
『のん婆って、まさか石崎課長の……』
瀬ノ尾は、メモとコピーを一部受け取り、目を通しながら後に続いた。いつもながら、ポケットの中の左手で書いたとは思えないほどの、端正な字が並んでいる。
[津田純子十七歳。A型。鹿箭島県出水市宮之城町○○。似顔絵に酷似。ピアス痕あり。高尾野女子高服飾科三年]
「とりあえず高尾野女子高。ルートは瀬ノ尾にまかす」
戸田は簡単に命じ、瀬ノ尾は頭をひねりながら、遠回りになる国道三号線は使わず、県道三百二十八号線から堀切峠越えの県道五百四号線を選択した。
出水市の高尾野町、宮之城町は、鹿箭島市の真北七十キロほどに位置している。およそ一時間半ほどの行程となる。
午後五時を回り、徐々に薄暗くなっていく県道を走りながら、瀬ノ尾はぼんやりと戸田の字のことを考えていた。
その間戸田は一切口を開かない。ぼんやりと車窓を眺めていたが、寝てはいない。
瀬ノ尾は、戸田が若い時分大けがをして三ヶ月ほど入院していた、と聞いていた。猟銃の暴発に巻き込まれたと言う噂だった。
『そのときに左手の訓練をしたんだろうな』
「ここの、紫尾温泉の柿は旨いんだ」
戸田が唐突に口を開いた。
「はぁ」
「ここの温泉には、柿の渋抜き専用の浴槽があって、夜漬けておくと、朝には渋が抜けて旨くなる」
「よくご存じで」
「勤務地だったからな」
それきり戸田はまた口を閉ざした。
紫尾温泉を抜ければ、もう一走りで高尾野女子高に着く。
車を降りると戸田には珍しく、まっすぐ校門の方へ歩いていった。平生なら、連れを平気で待たせておいて、不必要なほど周囲を物色する男だ。だが、瀬ノ尾には、その変化は見通せない。おやぢ、えらく気合いが入っている。そう感じただけである。
校門からほど近い玄関下に一人の女性が立っているのが見えた。
戸田は、ゆっくりと近づくと軽く頭を下げた。
「お久しぶりです」
彼女は、戸田と目があった瞬間、切れ長の目に悪戯っぽい少女の表情を浮かべて笑った。丸顔の色白の頬に深いえくぼが浮かんで、すぐに消えた。
「戸田さん。香山ですけど、わかりますか」
ああ、と戸田は頷いた。
そのあと何かつぶやいたようだったが、誰にも聞こえなかった。
彼女、涼子は、静かに戸田を見つめて言った。
「傷は、痛みませんか」
戸田は、反射的に右肩を押さえて、鼻で笑った。
「古傷は、辛いときほど痛むもんです。年取るとなおさらね」
涼子の笑顔に翳りが浮かび、戸田は軽く唇をかんで、眉根を寄せると、一瞬で慚愧の浮かんだ表情を振り払った。
「で、その生徒さんの件ですが。津田純子さんでしたか。話を聞かせてください」
「戸田警部補。気持ちは分かりますが、学校への直接介入はできませんよ」
と石崎展子課長が言い放った。
「それに、先ほど県の教育委員会の方から、各校に対して速やかな欠席生徒の把握と、登下校時の安全対策の指導の徹底についての通達が出されています。」
「そんなことは、とっくに確認済みでして。それでは遅すぎやしませんか」
戸田は詰め寄った。
「本来ならば、警察から出向いて指導すべきなんです」
「それを決めるのは、たかだか一課長の権限ではない。それくらいは知ってるでしょ」
「石崎課長。鹿箭島県の高校は百校ちょっとしかない。各所轄の地域課が小一時間ずつ時間を割けば、簡単に把握できることです。その学校の生徒に被害者はいないとね。たぶん、夜のニュースまでには似顔絵は公開されるでしょうが、おそらく対象者から未成年が漏れてしまいます。小藤の描いた似顔絵は使わないでしょうから」
やれやれ、と石崎課長はため息をついた。
「変わらないわね、戸田君。これからの幹部会議でその話は出るでしょうし。まあいいわ。二時間だけ、場所を貸しましょ。誤解のないように言っておくけど、戸田君と同じ考えではありませんよ。その方向に広く考える傾向があるだけ。傾向よ、わかった?」
戸田は頭を下げた。
「すいません。例の紅茶、入れてますんで、すぐ持ってきます」
石崎課長は、苦笑しながら課長室からの出口を指差した。
――教育委員会からの指示だと、内容は各校の校長教頭を経由した上でなくては担任教師へは伝わらない。担任教師の確認がすむと、今度は逆の経由で教育委員会に報告される。懸念事項があった場合でも、各校責任者からではなく教育委員会を通じて警察へ通報されることになる。教育委員会を経由することで責任が軽減する。そう思いこんでしまうからだ。
何よりも教育関係者という輩は、被害者の遺体が目の前に置いてあっても、自己保身をはかる。速やかにことが運ぶとは思えない。
まして、平日は、今日明日の二日間。その後、四連休が入る。彼らを通じていては、一週間どころか、一ヶ月後でも把握できるとは思えない。
戸田はそう熱弁した。
まず、生徒指導担当の教師と直接連絡を取り、学校周辺の危険性が高いこと。可能性は低いが、生徒が事件に巻き込まれている場合もあること。現状での生徒の出席状況を把握してもらうこと。完全に把握できなくても、折り返し連絡だけは入れてもらう。
それだけでいい。とにかく数を当たってほしい。
言い終わらるやいなや、戸田自身既に連絡を始めていた。
刑事部屋から呼びつけられた瀬ノ尾は、小藤巡査や少年課の婦警数名と分担割りして、受け持った高校に確認の電話を入れながら、ある疑念に駆られてる。
すぐにでも戸田に問い糺したかったができなかった。
『戸田さんと、おそらく石崎課長も、被害者が高校生だと半ば確信している。一体どこに根拠があるんだ?』と。
ものの一時間もしないうちに、折り返しの電話が入るようになった。
一番早い回答を出したのは、鹿箭島市小松原にある私立R学園高校だったろう。折り返しも何もなかった。問い合わせた電話先で、
「お疲れさまです。充分配慮はいたしますが、当高校には女生徒はおりませんので」
掛けたのはどの婦警だったか、赤面すると同時に、最後まで応対せずに切ってしまった。
そうした間違いはあっても、折り返しの電話を受け該当者がない高校が増えていくのは、望ましいことだった。
「戸田警部補。電話に出てください。警部補を名指しの女性です」
戸田は一瞬怪訝な表情を浮かべ、おそらくなけなしの記憶をあるったけ振り絞ったあげく、電話を受けた婦警に小声で聞いた。
「おれにか? どこの美人だ?」
「I市の県立高尾野女子高の新納涼子先生とおっしゃっていますが」
折り返しか、そう戸田が手真似で聞くと、婦警は首を振って付け加えた。
「旧姓が香山さんだと」
う、と言ったきり、椅子から飛び上がった戸田の顔色が見事なまでに変わっていく。人が緊張していく過程が眼に見えてわかった。
一瞬で血の気が引き、戸田の浅黒い顔面ですら真っ青になった。
次の瞬間には、一気に血が逆流したと見えて顔面は紅潮している。
受話器を持って直立したままの戸田は声すら裏返っていた。
「替わりました。戸田です」
日頃ですら、もそもそとした戸田の冴えない声が、よりもそもそと喋っている。もはや本人にしか聞こえまい。
「早急に、ファックスを流します」
戸田の声が急に大きくなった。続けざまにファックス番号を読み上げていく。
戸田の声を受けて、似顔絵を送信し終えた婦警が終了の合図を送った。
「では、確認をして折り返し連絡をお願いします」
受話器を置いた戸田は大きく深呼吸をした。
既に通常の声音、顔色に戻っていたが、何も言わなかったし、誰も聞けなかった。
六分後。午後三時四十二分。電話が鳴った。戸田が飛びついた。
「県警刑事課戸田」
後の声は聞こえない。
左手をポケットにつっこんだ戸田の、相づちだけが聞こえてくる。
しばらくして、やっと戸田の普段通りの声が聞こえ始めた。
「すぐに、ぼく、いや自分が行きましょう。所轄、警察署への連絡は自分の方でやります。ええ、可能なら自宅より学校の方が……。それも、そっちに着いてから、ということにしてください」
受話器を置いた戸田が、小藤巡査を呼んで、ポケットの中のメモ帳を渡した。
「小藤さん。これコピー取ったら返してください。コピーは刑事課の誰か、渡辺係長にでも渡して置いてください。瀬ノ尾。これから出水市へ行く。被害者が割れそうだ」
えらくせかせかと指示を出した戸田は、まだ誰も食べずに置いてあったココナッツクランチの一箱と紅茶パックを内ポケットに突っ込んで、瀬ノ尾を急かした。
「急がんと日が暮れる」
一方で、婦警たちに時間まで確認作業を続けるように頼むと、
「のん婆に、あたりが出たら一杯おごると伝えて置いてくれ」
言い置いて少年課を飛び出していった。
背中にどの婦警だかの小声がくっついている。
『のん婆って、まさか石崎課長の……』
瀬ノ尾は、メモとコピーを一部受け取り、目を通しながら後に続いた。いつもながら、ポケットの中の左手で書いたとは思えないほどの、端正な字が並んでいる。
[津田純子十七歳。A型。鹿箭島県出水市宮之城町○○。似顔絵に酷似。ピアス痕あり。高尾野女子高服飾科三年]
「とりあえず高尾野女子高。ルートは瀬ノ尾にまかす」
戸田は簡単に命じ、瀬ノ尾は頭をひねりながら、遠回りになる国道三号線は使わず、県道三百二十八号線から堀切峠越えの県道五百四号線を選択した。
出水市の高尾野町、宮之城町は、鹿箭島市の真北七十キロほどに位置している。およそ一時間半ほどの行程となる。
午後五時を回り、徐々に薄暗くなっていく県道を走りながら、瀬ノ尾はぼんやりと戸田の字のことを考えていた。
その間戸田は一切口を開かない。ぼんやりと車窓を眺めていたが、寝てはいない。
瀬ノ尾は、戸田が若い時分大けがをして三ヶ月ほど入院していた、と聞いていた。猟銃の暴発に巻き込まれたと言う噂だった。
『そのときに左手の訓練をしたんだろうな』
「ここの、紫尾温泉の柿は旨いんだ」
戸田が唐突に口を開いた。
「はぁ」
「ここの温泉には、柿の渋抜き専用の浴槽があって、夜漬けておくと、朝には渋が抜けて旨くなる」
「よくご存じで」
「勤務地だったからな」
それきり戸田はまた口を閉ざした。
紫尾温泉を抜ければ、もう一走りで高尾野女子高に着く。
車を降りると戸田には珍しく、まっすぐ校門の方へ歩いていった。平生なら、連れを平気で待たせておいて、不必要なほど周囲を物色する男だ。だが、瀬ノ尾には、その変化は見通せない。おやぢ、えらく気合いが入っている。そう感じただけである。
校門からほど近い玄関下に一人の女性が立っているのが見えた。
戸田は、ゆっくりと近づくと軽く頭を下げた。
「お久しぶりです」
彼女は、戸田と目があった瞬間、切れ長の目に悪戯っぽい少女の表情を浮かべて笑った。丸顔の色白の頬に深いえくぼが浮かんで、すぐに消えた。
「戸田さん。香山ですけど、わかりますか」
ああ、と戸田は頷いた。
そのあと何かつぶやいたようだったが、誰にも聞こえなかった。
彼女、涼子は、静かに戸田を見つめて言った。
「傷は、痛みませんか」
戸田は、反射的に右肩を押さえて、鼻で笑った。
「古傷は、辛いときほど痛むもんです。年取るとなおさらね」
涼子の笑顔に翳りが浮かび、戸田は軽く唇をかんで、眉根を寄せると、一瞬で慚愧の浮かんだ表情を振り払った。
「で、その生徒さんの件ですが。津田純子さんでしたか。話を聞かせてください」
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