いつか森になる荒野

千年砂漠

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大樹の想い

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 木曜日の昼休み、前田君が僕を訪ねてきた。本棚は一応できたが仕上げを手伝ってくれないかという。瞬は今日は用があって手伝えないらしい。
 僕が承諾すると、前田君は自宅までの略図と携帯電話の番号を書いたメモをくれた。
 前田君の家は西の農業地域の中にあった。作業は彼の部活と夕食を終えて七時半からとの約束で、家を訪ねた。
 農家を営む前田君の家は大きく、庭も広かった。庭の奥にある納屋の前に明かりが灯っていて、そこにいた前田君が手を振って呼び入れてくれた。
「悪いな。一人より二人の方が早く済むから」
「いえ。でも、仕上げって何をするんですか」
 単純な形だが、素人が作ったにしては立派な大型の本棚が三つ、下に木片を差し込んで底を地面から少し浮かせた状態で置いてあった。
「ペンキ塗るんだ。これを着てくれ。汚れるから」
 前田君が手渡してくれたのは雨合羽だった。それを着て軍手をはめ、作業にかかった。
 塗る色は本棚三つそれぞれ違い、彼が用意した色は、白と水色と薄緑色だった。前田君に塗るこつを教えてもらい、もたもたと塗っていく。僕が一つ塗り終わる頃には彼は後の二つを塗り終えていて、僕の手伝いなどいらなかった気がした。
 カッパを着ての作業は暑く、喉の渇きを覚えていたところへ、
「お兄ちゃん、お母さんがこれお友達と飲んでって」
 かわいらしい声と共に、小学の高学年くらいの女の子が麦茶のペットボトルとコップを持ってきてくれた。
 こんばんは、と礼儀正しく挨拶したその子を、前田君が妹の春菜だと紹介してくれた。
「お兄さんと同じ学校の、中原優人です。飲み物をありがとう」
 僕が自己紹介してお礼を言うと、はにかんだ笑みを見せて母屋に帰って行った。
「かわいい妹さんですね」
 カッパを脱いで納屋に置いてある木箱の上に座り、注いでもらった麦茶を飲みながら僕が言うと、
「うん、とてもかわいい」
 前田君は臆面もなく頷いた。
「だから、あまり他人に紹介したくない。お前だから紹介した。お前は、その」
 言いにくそうに言葉を詰まらせた彼を見て、諒解した。五人の情報共有、本当に徹底している。
「ああ、言わなくていいです。意味は分かりましたから」
「すまん。俺も瞬と同じで偏見はないと言い切れないが、少なくとも嫌悪感はない。ただ、そういう奴が周りにいなかったから、どういう態度でいれば良いのか分からなくて」
 ふと違和感が頭をかすめた。情報は全て伝達し合うはずであるのに、僕が同性愛者であるという誤解で情報が止まっている。広海が真実を知っているのだから、当然数日の内に他のみんなに回るだろうと思っていた。が、知らないようだ。そういえば旭ですら何も言ってきていない。多分、広海が意図的に情報を止めているのだ。
「とりあえず旭は瞬と二人で怒っておいた。広海や俺たちを安心させたかったと言っても、嘘をついていい理由にはならない。中原にも迷惑をかけて、悪かった」
「いや、僕は良いんです。でも、そのことなんですが、もしかしたら旭は前田君たちを安心させるためだけじゃなくて、美国のためというのもあったんじゃないかと思います」
 旭は女性に性的な欲望を持たない同性愛者と誤解している僕を側に置くことで、美国に『男の姿』への耐性をつけさせたかったのではないだろうか。前田君には言わないが、僕が本当はノーマルだという事実を広海が伏せているのは、旭と同じ考えでいるからのような気がする。
「そうか……中原は美国の話をもう知っているんだよな」
 前田君の問いに、僕は黙って頷いた。
「美国が被害に遭ったのは、今の春菜と同じ歳だ」
 ハッとして僕は春菜ちゃんが帰った方を見たが、温かな色の光が灯る母屋があるだけだった。
「俺はあの時、ことの重大さが分かってなかった。春菜があの時の美国と同じ歳になって、あれがどんなに酷いことだったのか思い知った」
「それはしかたないです。前田君だって、子供だったんですから」
 前田君はうつむき、ポツポツと話を続けた。
「俺は五歳から剣道をやっているが、中学に入って急激に実力が伸びた。上級生を押しのけてレギュラーになるくらい強くなって」
 態度もそれに比例して大きくなった。実力主義だった中学の剣道部は強い者ほど発言力があり、中三になる頃には部内で彼を諫められる者はいなくなっていた。
「三年になって、部内の生意気な一年生を小突いてる所を美国に見られた。その時は何も言わなかったが、後で俺の所へ来て」
――大樹が強いのは知ってる。でも、強かったら何をしてもいいの? そんなの、あいつと同じだよ。大樹がそんなふうになってしまうのは、私、悲しい
「美国に言われて、俺は頭を殴られたようなショックを受けた。確かに俺のやってることは、立場と力を利用して美国を襲ったあのクズと同じだと」
 同時期に、剣道の強豪の私立高校が「推薦でうちに来ないか」と打診してきていた。一度見学をと招待されていった高校の部活の様子を見て、
「ここは違う、自分が行くべき所じゃないと思った」
 専用の剣道場とトレーニングルーム、複数いるマネージャー。設備も人も、勝つために用意された場所だった。美国に叱られる前だったら、そこに行っていたかもしれない。しかし、正選手と正選手になれなかった生徒への指導者の態度の違いや、マネージャーに対する選手のぞんざいな物言いを見て行く気が失せた。
「そこに行ってレギュラーを取る自信はあった。広海たちも美国には自分たちがいるからお前は剣道の強い学校へ行けと勧めてくれた。でも、行けば絶対俺もあの環境に染まって、横柄な人間になると思った」
 思い悩んだ彼は、広海たちが行くという森ノ宮高校の剣道部へ見学に行った。
 そこで指導している教師は彼の名と実力を知っていて、驚いて止めた。君はうちのような弱小に来るべきではない、と。
 それでも頼み込んで見学させてもらった。古い格技場を柔道部と半分に分け合った剣道部は部員数が少なく男女併せての活動だった。下座に座って稽古を見ていると、指導教師が呼びつけるのではなく自らが来て隣に座り、部の活動精神を語ってくれた。
 ここは高校教育の一環としての部活で、勝敗より教育を重視している。誰かに勝つより己に勝つのが目標だ。強豪校は他の学校に勝つために、選手は競技に強くなるためだけのことを考えて鍛えられるように施設を造り、雑用もマネージャーを置いて任せるが、うちではしない。掃除も、雑用も、上級生下級生関係なくみんなでやる。礼儀作法を守り、してもらったことには感謝でき、何かできない者にはできる者が教えて補助する。将来社会に出たとき、ちゃんと生きていける人間になれるように。
「それを聞いて、俺はこの高校を選んだ。今も先生は他に行けばもっと実力が伸びたはずだと惜しんでくれるけど」
「自分でももったいないとは思わないんですか」
「思わない。俺は将来、家を継いで農業をやるつもりなんだ。正しく誠実な農業をやるための体と心を鍛えられたらそれでいい。自分が強くなるためだけに雑用を人に押しつけて、感謝の気持ちも忘れて、それで例え日本一になっても何の価値もない」
「立派です。前田君、とても立派です。僕、感動しました」
 僕が興奮して立ち上がると、前田君は照れたように苦笑いしたが、すぐに表情を引き締めた。
「この話、お前から美国にしてくれないか」
「ぼ、僕がですか」
 前田君は頷いて目を伏せた。
「美国は弱い自分を助けるために俺がこの高校に来たと思っている。そうじゃなく、俺は俺のために来たんだと説明したいが、俺は口下手なんで、上手く伝えられない。それ以前に、俺は美国と込み入った話をする距離に近づけなくなってしまった。美国は広海や瞬より俺の姿が一番恐いんだ」
 確かに背も高く鍛えている前田君の体つきは、瞬や広海に比べると大人の男性に近い。
「他の三人では、美国は自分に気を遣ったと思うだろう。お前なら美国も自分に危害を加えないと分かっていて、二人きりで話しても良いと思えるくらいの信頼もある。何よりあの事件に関しては完全な第三者だから、中立で客観的事実を話していると思って聞いてくれるかも知れない」
 頼む、と頭を下げた前田君を見て、今日彼が僕を手伝いに呼んだ訳が分かった。本棚のペンキ塗りは口実で、本当はこの話がしたかったのだ。
「分かりました。できるだけ早く機会を作って、美国に話してみます」
 頷いた僕に、前田君はもう一度「頼む」と頭を下げた。
「じゃあ、僕はこれで帰ります」
 僕が帰りかけると、前田君が少し待つように言って止め、母屋に走って行った。やがて戻ってきた彼の手には、夏野菜が入った紙袋があった。
「これ、持って帰ってくれ」
「いいんですか? こんなにたくさん」
 遠慮はいらないと押しつけられ、僕は礼を言って受け取った。自転車の前かごに積んで帰ろうとしたとき、
「優人」
 前田君が僕を名前で呼びかけた。
「これから、優人と呼んで良いか」
 もちろん、と僕が頷くと、
「じゃあ、俺のことは大樹と呼んでくれ」
 家の逆光で表情は見えなかったが、彼はきっと笑っていた。


 帰り道は田畑の中の人家の少ない道を走った。こちらの方が近道だったからだ。明かりも少ない道を帰っていると、黒の軽四自動車が寄ってきて僕の横を併走した。
「ねえねえ、どこ行くの」
 助手席と後部座席から素行の悪そうな若い男が顔を出して、僕に話しかけてきた。
「遊びに行くなら乗せていってあげるよ」
「っていうか、オレらと遊びに行かない?」
 彼らの目に不愉快な思考が透けて見え、僕はげんなりした。最近忘れていたが、僕はこんな馬鹿を引き寄せやすいのだった。広海に気をつけろと忠告されたばかりだというのに、僕の脳は耳と記憶をつなぐ線が一本切れているのではないだろうか。
 相手にしたくなくて返事もしなかったが、僕の気を引こうとしつこくあれこれ話かけてくる。そのうち後部座席の男が、怒気を混じった声で脅しをかけてきた。
「なあ、無視してんなよ。聞こえてんだろ。ちょっと止まれよ」
 突然車が幅寄せしてきて、僕は危うく自転車ごと倒れそうになった。なのに彼らは悪辣な笑みを浮かべて、からかいの言葉まで投げつけて来た。
 恐怖より腹立たしさの方が勝った。自分の欲望を満たすためなら相手のことなど全く考えないこんな奴らがいるから、美国みたいに泣く人間が絶えないのだ。
 自衛しろと広海がアドバイスしてくれた通り、僕は行動した。
 つまり、彼らに向かって思い切り叫んだのだ。

「うるせえ! ふざけんな! ばかやろう!」

 瞬間、窓側の二人は吹っ飛ぶようにひっくり返り、車はタイヤが浮くくらい傾いた。運転していた奴は気絶したのだろうが、車はオートマ車だったらしくそのまま大きく曲がりながら進み、ガードレールに当たって止まった。
 行ってみると、車の中で三人とも気を失っていた。車は自転車並の緩い速度だったので大して壊れていなかったし、三人も怪我はなさそうだった。なので、僕は放置して立ち去った。
 放っておいても通りがかった誰かが通報するだろうと思っていたら、案の定途中でサイレンを鳴らして西に向かう救急車とパトカーにすれ違った。
 男子高校生をナンパしようとしたら大声を出されて気絶して事故を起こした、なんて説明してみろ、正気を疑われるから。いっそ、薬物摂取の疑いで警察に引っ張られて行け。
 帰った僕はもらった野菜を母さんに渡して、とても喜ばれた。
「そういえば、ちょっと前にどこかで雷でも落ちたような音が聞こえなかった?」
 何も気づきませんでした、と僕が笑ったのは言うまでもない話だ。
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