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10.退院日
しおりを挟む4月16日 火曜日
とうとうあかりの退院日が来た。けれど、朝起きても、わくわく感というかうれしいという感情はあまり浮かんでこず、少しさみしいような感情が浮かんできた。それはいざ病室の中へ入っても同じだった。
「あっ、来た来た」
入るとすぐに快活なみらいの声が耳の中に入ってきた。僕はふたりの姿が見える位置に椅子を置いてそこへ座った。
「じゃあ、あかり、退院おめでとう」
「おめでとう」
僕の抑揚のない言葉をみらいの明るい声でごまかしてくれた。あかりの退院を快く思っていないわけではないのだが、もうみらいと会えないと思うと作り笑顔ですらできている自信がない。
あかりを見ると、視線を落として右手で左手を握りしめていた。あかりも僕と同じことを思っているのかもしれない。しかし、僕が一緒にいたのは三日間ほどで、あかりは一週間、朝も昼も夜も一緒だったから、その気持ちは一層強いはずだ。あかりにとってみらいとはずっと一緒にいたい存在なのだろうか。
「ありがとう、ございます」
あかりは弱々しくそう言うと、目からぽろぽろと涙が出てきた。僕は何を言ってあげればいいのかわからずに、あかりのことを見ることしかできなかった。
「みらいさんと、もっと一緒にいたい」
「大丈夫、あかりちゃん。退院してからも会えるでしょ」
あかりはさみしげにつぶやくと、みらいは明るい声でそう返した。僕は見舞いならみらいに会えるということを忘れていた。もしも、みらいがあかりの姉だったらなと思うと、兄としての役割を全うできていないことを実感した。
「そう、ですね」
そう言われても、あかりは笑顔を見せることはなかった。もう会えないということではないのにもかかわらずどうして落ち込んでいるのだろう。
「慎之介はどうするの。また来てくれる?」
「僕は・・・・・・」
突然の質問に僕は悩んだ。
あかりが退院すればもう前のだらだらとした生活に戻ると思っていた。この一週間の内、五日はバイトでそれ以外は病院へ足を運んだのだからうまく休めていなかった。僕の身体は休息を欲しているのだが、心はまた違う方向を向いていた。
「う、うん、また来るよ」
僕は身体より心のほうを選んだのだ。しかし、別にまたここに来たいという思いのほうが強いということはなく、みらいがじっとこちらを見つめてくるのでそう答えたのだった。
「なんだか、信じれないな。本当に来てくれるの?」
みらいは意地の悪い顔をした。嫌な予感がする。
「じゃあ、来なかったら、罰ゲームね」
「えっ、罰ゲームあるの?」
「当たり前でしょ、ただの約束と一緒にしないでほしいな」
さっきのみらいの質問に対し、『行かない』と言わなかった自分を悔いた。みらいなら何をしてくるのかわからないと知っていたはずなのに。
みらいは罰の内容を考えていた。その間、それがなにかと胸がざわめいたものの来ればなにも問題ないと思うと、気持ちが楽になった。
「決めた!」
再び快活な声が病室の中に響き渡るとみらいはこちらへ視線を向けた。僕は罰ゲームがなにか聞き流してもいいのではないかと考えた。
みらいは一度、口を開いたもののすぐに閉じた。すると、みらいは頬を赤くした。何か言いづらいことなのか。僕はそう思ったものの、みらいはいつもの悪戯な笑みをした。
「もし来なかったら、キスしてもらおうか」
大きく目を見開いた。一瞬、頭の整理が追い付かず、キスってなんだ? と思ったほどだ。余裕のあった気持ちも今では、行かなきゃという思いが支配していた。
「キ、キス!?」
僕が言ったのではない、その言葉は後ろから聞こえてきた。あかりだった。どうしてかあかりは赤く染めた顔を手でおさえていた。キスしなきゃいけないのは僕なのに。
「あかりちゃんじゃないよ」
あかりは何も言わずに来た時と同じようにうなだれた。いったいどうしたのか。
「じゃあ、また明後日ね」
「罰ゲーム、本当にするの?」
「慎之介は、わたしとしたいの?」
明るい声でそう言うものだから、僕は「そんなわけない」と大きな声で言ってしまった。強く否定しまったのを悪く思いながら、みらいのことをおそるおそる見た。
「さっきのは、冗談だよ」
みらいは僕らにぎりぎり聞こえるくらい声でそう言い、表情を見せないようにうつむいてしまった。僕はつい出た言葉を発したことを後悔した。
「ごめん」
「ううん、慎之介は悪くない」
僕は早く病室から出たかった。明後日までにこの出来事を忘れて、次会ったら明るく挨拶をかわしてとりとめのない会話をしようと考えた。
病室の扉を見つめた時、扉がすこしだけ開いていた。そして、その隙間からだれかがのぞいていたのだ。しかし、のぞいていた人影は僕と目が合うとすぐにどこかへ逃げてしまった。扉を思い切り開け、左右に視線を向けるものの人の気配はなく、もう逃げられたのだった。
「どうしたの?」
「いや、だれかがのぞいていたんだ」
「きっとあれじゃない。お年寄りの人がわたしたちの会話を聞いて自分の青春時代を思い出してたんじゃない?」
よく冗談を言えるものだ、と思ったものの、のぞいていた人物というのがお年寄りである確率が高かった。僕がこの病院の中ですれ違った人はお年寄りの人がほとんどで、若者が入院している割合は低いと推測したからだ。
僕は誰がこの病室をのぞいていたのだと考えていると、みらいが声をかけてきた。
「まあまあ、いいじゃん。聞かれたとしても困るようなことじゃないし」
本当にそうだろうか。さっきまで恥ずかしい話をしていたような気がするが。変な噂を流すのはやめてほしいが、特に対処法もないのでみらいと同じように気にしないようにした。
「あかり、帰ろうか」
僕はそう尋ねたものの、あかりは聞こえていないのか反応しなかった。
「おーい、あかり」
「え、あ、うん」
「どうした?」
「ちょ、ちょっと考え事してて」
いつもあかりはやると決めたことは一直線に向かうタイプなので立ち止まって考えるということはしない。そんな あかりが考え事をするということはなにか重大なことに思えた。
「帰るんだよね、ちょっと待って」
あかりはベッドの隣にある松葉づえを手に取り、ベッドから起き上がった。
「じゃあ、また明後日ね、みらい」
「うん」
「あの」
あかりは歯切れが悪そうにつぶやいた。
「どうしたの?」
「あたし、明日来ますね」
「うん、わかった」
僕らはみらいにそう別れを告げると、一緒に病室をでた。みらいは僕らに手を振っていて、それを返すように僕らも手を振った。廊下に出てあかりの歩くスピードに合わせた。
病院の外に出ると夕焼け空が広がっていた。あかりのことを考え、帰りはバスで帰ることにした。病院の前にあるバス停でバスを待っていると、あかりが尋ねた。
「ねぇ、お兄ちゃん」
あかりの声は弱々しかった。病室での様子も少しおかしかったような気がするが、どうしたのだろう。
「あたし、明日部活がないからみらいさんに会いに行くね。明後日はお兄ちゃんバイトないでしょ。だからその日はお兄ちゃんが行ってね」
「あかり、その足でここまで来れるのか?」
病室にいた時から抱いていた質問をした。ひとりでここまで来れるのかと不安に思ったが、あかりはすぐにうなずいた。それに強い決心が感じられた。
「行ける。あたしはなるべくみらいさんをひとりにさせたくないの」
あかりは病室でいた時とは違い、どこかまっすぐを見るような眼差しをしていた。
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