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第五章 事態は急転直下です

6 北壁へ跳躍します

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 場は再び、しんと静まり返った。
 周りじゅうの視線が集中しすぎて肌がぴりぴりするほどだ。その視線の中で、俺に最も痛みをおぼえさせてしまうのはきっと、クリストフ殿下の視線だろう。そのつぎは多分、ベル兄だ。
 と、皇子がぐいと顔をあげた。
 ほとんど睨みつけるみたいにして宗主を見つめている。

「自分も同行させてください、閣下」
「じっ、自分も!」

 殿下とベル兄がまず叫び、その後つぎつぎと他の騎士たちも同じように「わたくしも」「自分も」と声を上げ始めた。あのアンリも叫んでいる。
 広間は急に男どもの野太い声で騒然としはじめた。

「静まれ! 見苦しいぞッ!」

 騎士団長の一喝で、すぐに元の静けさが戻る。
 グウェナエルは団長に丁寧に一礼し、またこちらに向き直った。

「申し訳もなきことにございまするが。かの地へは相当な距離がありまする。此度こたびの距離と必要な速さをかんがみるに、わたくしが一度に運べるのはひとりだけ。さらに、時間もありませぬ。先ほど申した通り、トリスタン殿は現地の魔導士らがどうにか延命している状態にございますゆえ。ことは一刻を争うのです」
「な、なんと……」

 周囲がまた少しざわつく。みんなあらためてショックを受けた顔になっている。
 皇子がぎゅっと唇をかんだのが見えた。横顔が蒼白だ。
 グウェナエルはそんな皇子を静かな目で見返した。

「申し訳もありませぬが、クリストフ殿下。ただ今はマグニフィーク少尉のほかはお連れできませぬ。その他の皆様は、どうか後ほど当地を目指してくださいませ。《跳躍》の使える魔塔の魔導士を数名、こちらに差し向けますゆえ」
「しかし……!」
「いや、ダメだ」
 一歩踏み出し、さらに言い募ろうとする皇子を制したのは俺だった。
「あんたは残れ」
「えっ……」

 冷たく言い放ったひと言に、皇子が珍しく凍りついた。目が大きく見開かれている。

「……何を言い出すんだ、シルヴェーヌ」
「変なこと言い出してるのはあんたでしょうが。……あんた、忘れてる? 自分の立場ってもんをよ」
「な──」
「あんたはこの国の第三皇子殿下だ。つまり皇位継承第三位のおかただ。普段ならともかく、今の危険な北壁へなんか行っちゃダメだろ」

 俺はなるべくいつも通りの声を出すように努力していた。かなり。でないと声が今にも震えちまいそうだったから。ひきつった頬がすんげえ邪魔をするけど、どうにかこうにかへらへら笑った顔を作っておく。

(この人が北壁に行くなんてあり得ねえ。しかもこの危ねえ時に)

 皇后陛下が心労でお倒れになるぞ。せっかくお元気になれたのに、またかーちゃん泣かせるつもりか。どーすんだよ。
 第一、あんたに万が一のことがあったら、次の皇位はどーすんだ。あのアホ丸出しでサイテーな性格の皇太子と第二皇子に任せておけるはずがねえだろ。国がほろぶぞ、下手したら。
 そんなことを淡々と言い募ったけど、皇子は黙りこみ、厳しい顔で俺を睨みつけてきた。これまで見たこともないような怖い目だった。

「……わたしをあまりあなどるなよ、ケント」
 食いしばった歯の間から押し出すようにして言う。
「それほどの危険すら想定せずに、この騎士団にいると思うのか? わたしが」
「侮ってるわけじゃねえよ。自分の立場と、シチュエーションを考えろっつってるだけだ」

 俺も同じぐらいにはキツイ目で皇子を睨み返し、すぐにぱっと踵を返した。
 もう皇子の方は見なかった。それ以上、あの人を見返しながらこの顔をたもってる自信がなかったからだ。
 それに、皇子の顔を見れば見るほど、どんどん後ろ髪をひかれることはわかってた。足が床にへばりついて、動かなくなってくことはな。いやってほどに。

「シルヴェーヌ!」

 背中でベル兄の叫ぶ声を聞いた。けど、俺はやっぱり振り向かなかった。
 むしろずんずん大股で歩いて、グウェナエル宗主の側に行く。俺よりだいぶ背が高い宗主は、何を考えてるのかわかんねえ目で静かに俺を見下ろした。

「宗主さま。時間がないんでしょ? だったらもう行きましょうよ。ぐたぐた言ってねえでよ」
「……そうですね」

 ふ、とその瞳が不思議に柔らかい光を帯びた……ような気がした。
 くっそう。なんもかんも見透かされているようで気分がわりい。

「実に申し訳もなきことですが、あなたのおっしゃる通りです。まことに時がない。聖騎士殿の命はこの間にも、刻一刻と削り取られておりますゆえ。……では、騎士団長閣下。あとはよしなに」
「了解しました。どうぞ聖騎士殿をよろしくお願いいたしまする」
「は。この身命を賭しましても、必ずやお救いいたす所存です」

 言って騎士団長閣下に一礼し、グウェナエルはごく自然に俺の手を取った。
 皇子の視線がいっそう厳しく突き刺さってくる。そっちはいっさい見なかったけど、おっそろしい目で睨んでることだけはわかった。肌で。

「では、参りましょうか。シルヴェーヌ・マグニフィーク少尉」
「はいっ」

 途端、ぐるんと視界が回転した。

「──ひえっ!?」

 いきなりみっともねえ悲鳴をあげる。
 唐突に、足元に何もなくなったんだ。
 まるで水中に浮遊しているような奇妙な感覚。そして視界は一瞬で、いろんな色がマーブル模様にまざりあった奇妙な空間に変貌していた。
 ありとあらゆるものがぐにゃぐにゃに混ざり合った虹色の、ぶよぶよと不定形な混沌世界。

「ひぎいいいいっ!?」
「落ち着いて、シルヴェーヌ嬢」

 耳元で宗主の静かな声がして、初めてその腕に抱きしめられているのに気がついた。俺は無我夢中でその体にしがみついた。
 怖い。怖すぎる。
 頭全体がめちゃくちゃ痛い。巨人の手に握りつぶされてるみたいだ。目の奥でバチバチと火花が爆散している。
 吐き気もひどい。目が回る。視点がどこにも定まらない。
 ぐらぐらする。気分が悪い。
 これが《跳躍》の魔法なのか?
 こんなの、常人にはキツすぎるって!

「うぐううっ……」
「申し訳ありません。もう少しだけ我慢してください」
「は……はひい……」

 俺はすでに息も絶えだえだった。目の裏がひどく痛んで、生理的な涙がどんどんこぼれる。体じゅうの骨がきしむ。それ以上悲鳴をあげないようにするだけで精一杯だ。

「目を閉じて、私の胸に顔をくっつけておいでなさい。少しは気分がましになりましょう」
「はい~……」

 気の遠くなるような時間は、延々と続くかと思われた。意識がぼうっと霞んで、時間感覚がものすごくおぼろげになっているのがわかる。
 でも、あとで考えれば一瞬のことだったみたいだ。

「……さあ。到着しましたよ、マグニフィーク少尉」

 宗主にそう言われて背中を叩かれ、やっと目を開けたとき。
 俺の目の前には、今まで見たこともない景色が広がっていた。
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