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第五章 流転
10 叫び
しおりを挟む佐竹とゾディアスが<白き鎧>から出てくるのを待たずに、ヨシュアとディフリード、そして宰相ドメニコスは先にミード村へと戻った。侍従長や数名の兵らも同行する。
あまりに急なノエリオール国王との対面に、ヨシュアは緊張もまだ覚めやらぬ様子だった。帰路の間も馬上でずっと頬のあたりをぴりぴりと強張らせたままである。いかにも心に掛かる思いに耽っている様子で、ただの一言も喋らなかった。
ミード村の入り口まで迎えに出たマールとオルクは、いつになく固い表情のヨシュア王を見てちょっと目を見交わした。が、すぐに気を取り直し、まずはオルクが元気な足取りで下馬したヨシュアに近づいた。
「お帰り! ……っなさいませ、陛下」
いつもどおりにざっくばらんに話しかけ、ぎろりと侍従長の男に睨まれて、これまたいつものように肩を竦めて言い直す。ヨシュアにだけ見えるようにぺろりと舌を出して見せる仕草も、もはや日常茶飯事だ。
マールも隣から声を掛けた。軽くスカートを持ち上げ、いつもの女官の礼をする。
「お帰りなさいませ、陛下。お疲れ様でございました」
「あ、ああ……。戻ったよ」
普段と変わらぬ二人の姿を見て、ヨシュアがやっと少し微笑を浮かべて見せた。
「食事の支度が整っております。さ、どうぞ宿所へ――」
しとやかな仕草でヨシュアを促し、マールは侍従長やオルクと共に宿所であるルツ宅の離れへ向かった。
彼らを目の端で観察していたディフリードが、ごく密かに微笑した。このごろでは彼らも、年若い近習なりの自分の立ち位置や役割を理解しつつある。この美貌の将軍はそのことに、ことのほか満足しているらしかった。
マールは先日のディフリードによる「種明かし」の一件から、なるべくヨシュアの前では普通どおり、自然な態度で振舞おうと努力していた。
実のところ、この村への道中ずっと彼と同じ箱馬車の中にいなければならなかった。それはマールにとって相当の努力を要することだった。それでも何とかここまでは、ヨシュアに何かを勘付かれたりはせずに済んでいるようだった。
当のヨシュアはヨシュアで、できるだけマールの顔をまともに見たり関わったりするような事は意識的に避けている様子だった。まずは、それが幸いしたとも言えるだろう。ヨシュアの方でも、佐竹から例の件が単なる「養女」の話だったということだけは聞かされたらしい。それで多少、精神的に落ち着いたようには見えた。
オルクはヨシュアが落ち着いたことを素直に喜んでいるようだった。
ディフリードの養女の件についてはマール自身、今この状況ですぐに決めることはできなかった。何より今は、ヨシュアもマールもノエリオールとの交渉問題で非常に多忙だ。それに伴う心の負担も大きくなっている。
ディフリードの方でも「特に急ぐわけではないから、ゆっくり考えてくれたまえ」と、笑って了承してくれていた。
(それにしても……。どうしたのかしら)
ひどく落ち込んだ様子のヨシュアを見て、マールは思案している。
もちろん、敵国であるノエリオールとの直接交渉なのだ。国王であるこの少年王の心労は計り知れない。それでもここしばらくは、そこまで気鬱になるような様子はなかったはずなのに。
(なにかあったんだわ……きっと)
とはいえここで陛下に向かって「何があったのですか」などと尋ねることは許されない。今の自分たちにできるのは、ただ一刻も早く彼に休んでいただくことだけだ。食事を取っていただき、なるべく気分を明るくして差し上げる。ただの使用人にできるのは、せいぜいそのぐらいのものだ。
ルツ宅の離れに着くと、すぐに手や顔を清める手伝いをして、マールはヨシュアに囲炉裏の前に座ってもらった。板敷きの間には動物の毛皮の敷物が敷いてある。今はそこがこの少年王の定位置となっている。マールはそうしておいて、囲炉裏で煮ていたシチューや雑炊などで食事の給仕を始めた。
ヨシュアはマールが差し出した食事の器を受け取りはしたものの、やはり心ここにあらずといった様子だった。木の匙を手にしたままじっと動かない。侍従長に何度が促されてはひと口、ふた口と食べはするのだが、すぐに手は止まってしまい、また何事かを思い悩む風である。
マールとオルクはまた目を見合わせ、「困ったね」という顔になった。
と、藪から棒に入り口の壁を叩く音がした。仕切りの垂れ布の陰からひょっこりと現れたのはディフリードだ。マールたちは驚いた。
「ちょっとお話があるのですが。一緒にお食事でもいかがでしょうか、侍従長殿」
何か大事な用があるからとにこやかに耳打ちして、そのまま男を連れて出て行ってしまう。どうやら気を利かせてくれたらしい。
マールはほっとした。さすがこの国随一の美貌の将軍様は、気の回しようも常人とは異なるようだ。
「な……、なあ。ヨシュア?」
恐るおそるといった様子で、まずオルクが口を開いた。ヨシュアは「ん?」と首を傾げてこちらを見る。
「あ……あのさ。どうしたの? さっきから」オルクは後頭部を掻きながらまっすぐに質問した。「まっ、まあ、いつもヨシュアが大変なのはわかってんだけどさ……。でも今日、帰ってきてからずっと変だから──」
ヨシュアはちょっと黙ってオルクを見つめ返した。
持っていた雑炊の椀の中へと視線が落ちる。
しばしの沈黙があった。
「サーティークに、謝られた……」
「は?」
マールとオルクは固まった。いきなりぽつりと紡がれた言葉を、すぐには理解できなかったのだ。
ヨシュアはやっぱり椀の中を見つめたままで、ぽつりぽつりと言葉を足してゆく。
「隣にナイトウ殿もおられて、それで……。みんなに、頭を下げられた――」
マールとオルクは困った目をまた見交わした。
オルクが先を促した。
「そ……そうなんだ。それで……?」
ヨシュアはのろのろと目線を上げ、二人の少年少女を見やった。だがそれは、二人の顔をつきぬけてもっと遠くのどこかを見ているようだった。
板敷きの間に、再びしばしの沈黙が流れる。
やがてヨシュアはことりと椀を床に置いた。
「……んな、の……」
「え?」
震えるような掠れた声がその口から流れ出る。マールとオルクは身を乗り出した。よく聞き取れなかったのだ。
「そんな、のっ……!」
急に大きな声でヨシュアが叫んだ。
「そんな、ことっ……! 謝って、もらったって……!」
がん、と拳を横の床に叩きつける。
マールとオルクは、もうびっくりして彼を凝視しているだけだ。
「帰って、こないっ……! 兄上もっ……、ズールも、誰もっ!」
ぼろぼろっと、その目から涙が零れた。二人はもう絶句して凍りついた。
「私は、馬鹿だっ……! あの王に、あのっ……!」
もう何も言葉にならないように、ヨシュアは俯いて肩を震わせた。両手で顔を覆い、背を丸めてすっかり下を向いてしまう。顔の皮膚をかきむしるようにしている指の間から、堪えきれずに嗚咽が漏れ出した。
「ヨ、ヨシュア……」
オルクはもう呆然として、そう言うだけで精一杯らしかった。マールも沈黙し、座ったままスカートの端を力いっぱい握り締め、ヨシュアをじっと見つめているばかりだ。
ヨシュアは押し殺した声をどうにか泣き声にすまいと必死に努力しているようだった。
「殺して、くれなんて、言うのだ……。あいつは、私に……!」
「え──」
オルクとマールが驚愕した目のままヨシュアを見上げた。
「自分を殺して……、恨みを晴らせとっ……!」
ヨシュアは、ぱっと手を離して顔を上げた。
「そんな、ことっ……。なんになる……!」
ぼろぼろと涙を零しながら、もうヨシュアは絶叫していた。
「なんに、なると言うのだっ……! 兄上は……兄上はもう、帰ってこられないというのにっ……!!」
ひと言ひと言いいながら、がつん、がつんと床を拳で打ち叩く。
そうして歯を食いしばり、また嗚咽を堪えて俯いた。
しばらくは少年王の押し殺した嗚咽だけが、板の間の上を流れていた。
やがてマールがついと立ち上がった。オルクは驚いて彼女を見上げた。
少女は静かにヨシュアのそばまで行くと、もうすっかり冷めてしまった料理の椀を引き取って囲炉裏に戻った。そこにかけた鉄鍋から新しい椀に再び料理を取り分ける。そうしてすぐヨシュアの元に戻り、そのそばに跪いた。
マールは黙って、少しヨシュアを見つめていた。が、やがて彼の手をとると、両手を椀に添えさせた。彼に椀を手渡してから、少し離れてまた座った。
「……陛下。いえ、ヨシュア様」
初めて自分をそう呼んだマールを、ヨシュアはまだ涙に濡れた瞳で見つめ返した。その目には驚きが浮かんでいた。
マールの瞳は静かだった。二人の少年が沈黙して自分を見つめていることも、その片方が非常に高貴な身分であることも、何も気にする風ではなかった。
「あたしも、父さんを森の獣に殺されてます」
マールはきりっと頭を上げたまま、まっすぐにヨシュアを見て言った。
「生まれる前のことだけど……。だからあたし、父さんの顔も覚えてないけど」
その声も静かだった。ヨシュアがさらに目を見開いた。
「それでも、そりゃあ……最初は、憎かった。『どうしてあたしには父さんがいないの』って。憎くて憎くて、世界中の野獣を全部、殺してやろうかって思ってた。そこらの棒っきれを振り回して、本当にその練習をしてたことだってあるわ。でも――」
オルクがちょっと悲しげに目を落とした。彼の両親はどちらもいまだ健在なのだ。
「村の男の人たちが、毎年のように森に入って……沢山、野獣を殺してくれたけど」
言ってマールはふと窓の外を見たようだった。
「目の前に、どんなにそいつらの死体を積み上げられても、あたし……ちっとも嬉しくなんかなかったわ」
「…………」
返事をしないヨシュアのほうをマールは再び見つめた。
「おんなじです。そんなことしたって……なんにもならない」
ヨシュアが、ふっと肩の力を抜いて視線を床に落とした。
「ヨシュア様の言うとおり。……だあれも、帰ってこないんだもの――」
マールのほうもヨシュアを見ているようでいて、そうではなかった。そのずっとずっと先、遠くを見るような目をしていた。
「でも……。ヨシュア様は、まだいいわ。獣は、謝ってなんかくれないもの」
「…………」
「謝らせればいいじゃない。何度でも、何度でも……ヨシュア様の気の済むまで。そいつに謝らせればいいんだわ。罵倒してやればいいんだわ。……だけど」
そこでまたマールの視線がヨシュアの顔の上に戻ってきたようだった。
「だけど、いつかは、ちゃんと立ち上がらなきゃいけないんだと思うの」
その声は毅然としていた。その目もじいっと、ヨシュアの瞳を覗きこんでいた。
「だってヨシュア様は、……王様でしょ?」
ヨシュアは一言もなく、床の一点を見つめたままだ。
「ヨシュア様は、このオルクとは全然、違う人でしょ……?」
「え、俺……?」
隣でオルクが困ったように目を上げた。変なところで引き合いに出され、居心地の悪そうな顔になる。マールは構わずに言葉を続けた。
「そりゃあ、普通の人みたいに泣いたって、笑ったっていい時もあるでしょうけど……。やっぱり最後は『普通の人と何もかも同じ』ってわけには行かないんじゃないですか……?」
「…………」
ヨシュアがおずおずと目を上げた。やがてじいっとマールの翠の瞳を見つめる。
「だってそのために、みんなもいるんでしょう? 侍従長様だって、宰相様だって、将軍様たちだって――」
マールはちょっと言葉を切った。
「あと、……サタケも」
ほんの少し、声に翳りが混ざりこんだようだった。
「それに……あたしたちだって」
最後は消え入りそうに小さな声だった。
「…………」
少年たちは少し呆然としたような顔で沈黙し、やっぱり毅然と頭を上げている女官見習いの少女の顔を、なにか眩しいものを見るようにして見つめていた。
部屋の外では、すでに<鎧>から戻ってきていた佐竹が静かにその様子を窺っていた。隣には巨躯の竜騎長も立っている。
やがて黙って互いに目を見交わすと、音もなくその場を離れ、二人は足音を忍ばせて自分の宿所へ戻って行った。
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