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第五章 流転
5 初恋
しおりを挟むフロイタール宮、国王の執務室。
佐竹は少年王とともに客用のソファに座り、掛ける言葉を失っている。
経緯としては、こういうことだ。
当初、あの「<鎧>探索」のため、ミード村出身で女官見習いの少女マールがヨシュアに同行することになった。彼女はそのまま彼の身の回りの世話をするようになり、自然と互いに接点が増えた。
とは言えそんなのは王族にしてみれば日常茶飯のことに過ぎない。今までなら特に何を思うこともなかったはずだった。こちらは国王として、あちらはただのお付きの女官として、普通に世話をされて終わっていたことだと思う。
だがヨシュアはなんとなく、その後も彼女のことが気にかかるようになっていた。彼にはマールのことが、なにか非常に眩しく思えたからかもしれない。
あるいはまた、彼女がオルクの幼馴染みであるというのも大きかったのかもしれなかった。あのまっすぐに伸びた若木のような少年は、先日来、ヨシュアの得難い「友人」になってくれていたから。
そしてマールという、あの少女。彼女は王宮仕えの女官によくあるような、上品ぶってつんと取り澄ました者らとは一線を画していた。元気で明るく向こうっ気の強い少女は、ほかの誰とも違っていたのだ。
かれらと一緒に過ごす時、ヨシュアは他では感じることのない安心感と、心愉しさを覚えていた。
だが。
そこへ来て、先日のあの将軍ディフリードの爆弾発言である。
彼はこともなげに「マールを妻に迎えたい」と言った。さらに、ヨシュアが口を挟む隙もあらばこそ、すでにその保護者たるミード村の祖母の了解まで取り付けたとのことだった。
ディフリード卿が本気で押せば、マールは明日にでも彼との婚儀をしてしまってもおかしくない。なにしろあの将軍は、農村出身のゾディアスなどとは違って、もともと相当に高い家柄の貴族の出なのだ。そのような家に向こうから乞われて輿入れするなど、普通の田舎娘にとっては降って湧いたような幸運にほかならない。
あの時、マール自身は呆然としていただけで、これといった返事もしなかった。すぐに失神してしまったし、実際にどういう気持ちでいるのかは分からないままだ。しかしディフリードと祖母が乗り気なら、もはや話は半分以上決まったようなものだった。
そこからずっと、ヨシュアは何か胸の奥に重たいものを抱え続けている。
一体どうしてしまったのか、自分で説明がつけられないのだ。
もちろん、なんとなしに「これがそうなのか」と思うところがないわけでもない。予想していることはある。けれども今に至るまで、それを誰に相談したらいいのかも皆目分からなかったのだ。
訥々とやっとそこまで説明してから、ヨシュアはちょっと溜め息をついた。
「だって……そうであろう? オルクだって、その……マールのことを──」
言い澱む彼の顔は、もう困り果てている人そのものだった。佐竹も隣で、やや困惑して眉間に皺を寄せているばかりである。
確かにそうだ。オルクはマールのことを想っている。それは、端で見ていれば誰にでもわかるほどだ。佐竹にですらわかるぐらいなのだから、当然ヨシュアも気付いていたのだろう。
「もちろん、私がディフリードに『その婚儀は待ってくれ』と言うのは簡単だけれども……。そうすると当然、皆から『何故か』と問われることになるだろうし」
ヨシュアはもう、頭を抱えんばかりである。
「だって、私がひと言でもそう言ってしまったら……。マールには、断ることなどできないわけだから──」
(なるほど……。そういうことか)
佐竹はようやく、問題の核心がわかった気がした。
ヨシュアはこの国の王なのだ。
そしてマールは、身分のごく低い臣民である。
もしもヨシュアが「彼女を自分の元に」と望んだら、マールに断る術などない。ディフリードが相手である以上に、それは到底、断ることなど許されない話になってしまう。
ヨシュアがほんの少しそんな素振りを見せただけでも、マールはもうその夜にでも後宮に放り込まれているかもしれないのだ。それこそ、あの目ざとい侍従長あたりが勝手に気を回して、ほとんど有無もいわさずに。
問題は、そのぐらいの話だった。
次の王位継承者がいないこの国で、嫡子の問題はそれほど重大な案件である。
臣下の皆にしてみれば、あからさまに口には出さなくとも、ヨシュア王には一刻も早く正妃でも側室でも娶ってもらって、一日も早く子を成してもらいたいところだろう。
すでに今でさえ、侍従をはじめ臣下の将軍や宰相などから「どこぞの貴族の娘は器量よしで気立てもよいというお話ですぞ」等々、様々な話が舞い込んできているのだ。臣下たちにとって、間違いなくこの話は一刻を争う重大事なのである。
考えてみれば、王というのも因果な商売だ。
「だから……そんなのは、嫌なのだ」
ヨシュアは体の前で両手をもみ合わせ、項垂れて小さな声で言った。
「彼女の気持ちを無視して、無理やりに、その……」
それ以上はとても言葉にできないらしく、ヨシュアはもう首まで真っ赤にして俯いてしまう。
佐竹の方でも、ただ沈黙するのみだった。もはや、なんと言葉を返していいものかわからない。
間違いなく、ヨシュアにとってこんな気持ちになったのは初めてのことなのだろう。
そして彼は、マールを自分の権力で無理やりに我が物になどしたくないのだ。
彼が欲しいのは、マールの心なのだろう。
(だが……人の心は)
それほど他人が勝手にどうこうできないものも、この世にはない。
事実、佐竹自身、マールからあれほど気持ちを向けられても気持ちが揺らがないことを自覚している。彼女には申し訳ないとは思いつつもだ。やはり自分自身でも、自分の心ばかりはどうにもならないものなのだ。
もしヨシュアが、王の権力を使って無理にも彼女を我が物になどしてしまったら。
彼女の心は、恐らく永久に彼の手には入らなくなるだろう。
すでに八方塞がりなのだ。
ディフリードとの婚儀を阻止することも憚られる。
だからと言って、彼女を一方的に後宮へ囲い込むわけにもいかない。
気持ちは募っていくばかり。それなのに、できることは殆どない。
二人は難しい顔をして、沈黙したまましばらく座り込んでいた。
佐竹は顎に手を当てたまま、様々に考えあぐねた。やがてその末に、やっとひと言こう言った。
「ともかく、一度この件、自分に預らせていただけませんでしょうか。じかに少し、ディフリード閣下に当たってみたく思います」
「えっ?」
はっとヨシュアが顔を上げた。
「いや……。それは構わぬが」
佐竹は不安げな少年王の顔を見つめて頷き返す。
「無論、他言は致しません。閣下にも、ごく内々に本心をお訊ねする形にしますので」
「そ、そうか……?」
ヨシュアは少し考えていたが、やがてひとつ頷いた。
「わかった。そなたに任せるよ。どうか、宜しく頼む……サタケ」
ようやく嬉しそうに微笑んでいる。それは、少し心の荷が下りたような顔だった。
◇
翌日。佐竹は早速、午前のうちにディフリードの執務室を訪ねた。
彼は彼で何かと多忙な将軍であるため、一旦そこで刻限の約束をしてくれた上、あらためて午後に会ってもらえることになった。
「サタケ上級三等、入ります」
一礼して竜将閣下の執務室に入る。美麗な将軍はいつものように、絹糸のような銀髪を陽光に照り映えさせ、妖艶な笑みでもって迎え入れた。
察しのいいディフリードは、とうに人払いを済ませている。
「珍しいね? 君が一人で私に話があるなんて」
すでにその時点で、彼には話の趣旨などお見通しのようでもあった。が、佐竹は敢えて一応の筋道を踏むことにした。
「お忙しいところ、申し訳ありません。実は内々に、閣下にお尋ねしたい事案が生じまして」
「相変わらずだねえ、君は」
固い言葉で言う佐竹を、ディフリードはあきれ混じりの顔で眺めやった。頬にはふわりと美々しい微笑みを乗せている。
「まあ、内容はなんとなく察しはつくが」
言って執務机の椅子から立ち上がると、客用ソファに移動した。すべて流れるような身のこなしだ。
「まあ、掛けてくれたまえ」
自分から先に腰掛けてこちらにも促すが、佐竹は固辞して立っていた。
「ここからのお話は、どうかご内密に」
「わかっている。……陛下に何を言われたのかな?」
にこにこしながら、いきなりずばりと核心を突いてきた。その割に、声音も表情も至って柔らかいままだ。いつものように、白手袋の指先を顎のあたりに触れさせて、ちょっと小首をかしげている。
佐竹は沈黙し、そんな秀麗な将軍の微笑をほんの少し見返していた。が、こちらもすぐに核心に入った。あれこれ策を弄するのはやめにしたのだ。
「マールのことなのですが」
「うん。そうだろうね」
やっぱりディフリードはにこにこしている。まったく、何を考えているのかさっぱりわからない。
「先日の、彼女を貴方様の妻にというお話。あれはまこと、ご本心からでいらっしゃるのでしょうか」
ディフリードは何も答えず、ただ微笑を浮かべたまま佐竹を見つめている。
「陛下から、内々に閣下のご本心を窺ってきて貰いたいとのお達しで」
それでもやはり、美貌の竜将は言葉を発さなかった。
(この男──)
佐竹の眉間に皺が寄った。
「……閣下」
声が一段、低くなる。
その表情を見て、ディフリードは僅かに苦笑した。ちょっと肩を竦めて見せる。
「困ったね。そんな話になってるんだ?」
「は?」
「私が、あの少女と結婚したがっていると? だれがそんな、ありもしない話をでっち上げてくれたものやら──」
窓の外など見やりながら、ディフリードはしれっとした涼しい顔だ。
佐竹は我が耳を疑った。
(……どういう意味だ)
この男は一体、何を言っているのだろう。
先日、他ならぬこの将軍が突然そんなことを言い出したがために、これら一連の面倒ごとが起こっているというのに。この言い草ではまるで、まったく身に覚えがないかのようではないか。
剣呑な目つきになった佐竹をちらりと見やって、ディフリードが苦笑した。
「やれやれ、困ったね。それでは、こちらへご本人もお呼びしてからご説明申し上げるとしようかな? 二度手間も面倒なことだし」
指先で軽く頬を叩くようにしてから、ディフリードは徐に立ち上がった。そのまま扉の外で待機していた補佐の武官を呼び、当の相手を呼びにやらせる。
「…………」
佐竹はその場に立ち尽くしたまま、怪訝な顔で一連のことを見つめている。美貌の将軍が振りかえり、またにっこりと微笑んだ。
「心配いらない。……まあ、まだうまくいくかどうかは分からないけどね?」
それから待つこと、五分あまり。
呼ばれてやってきた女官見習いの少女は、まず部屋の主たるディフリードを凄まじい目で睨みつけた。が、次に部屋の中に佐竹がいることに気付くと、ひどくびっくりしたようだった。
「サタケ……? な、なんで──」
そう言ったきり、扉のすぐ内側で絶句している。ディフリードが、非の打ち所のない仕草で彼女をソファへと誘った。呆然として、マールが言われるままにそこへ座ると、間髪いれずに「まあひとまず、お茶でもいかが?」などとにこやかに勧めてみたりしている。
とうとう、佐竹の声が地を這った。
「……閣下」
「ああ、はいはい。分かったよ」
ディフリードがまた、「降参」とばかりに両手を上げる。
「まったく、君も相当、あの無粋な竜騎長殿に似てきたよねえ? あまり染まって欲しくはないものだよ。本当に」
そして、ディフリードは美々しい笑顔を崩さぬままに、その話を始めたのだった。
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