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つづれ しういち

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第一章 南の国

9 女官見習い

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「さあ、急ぐのですよ。皆様、今は非常に大切なお役目のため、昼夜を分かたずお働きなのです。あなたも早く仕事を覚えて、一日も早く王宮のお役に立てる者とならねばなりません」

 きびきびとした女官長の厳しい声が、フロイタール宮の廊下の隅で聞こえている。襟の詰まった灰色のワンピースに白い前掛け。亜麻色の髪をひっつめにし、白い頭巾をつけている。これがこの王宮にお仕えする女官らの基本的な姿なのだ。
 女官長は見るからに「この道で真面目一筋にやってきた」といった風貌の、痩せた体をした中年女性だった。彼女は両手をその腰にあて、目の前にいる新米の女官見習いの少女らにあれこれと指示をしている。

「はい、女官長さま」

 その前で水の入った木製の桶をげ、少女の一人がおとなしく答える。彼女は女官長よりも頭ひとつぶんも背が低かった。しかし、桃色の髪を結い上げた小さな頭をきりっと上げたその態度は、なかなかに堂々としたものだった。
 その隣に立っている少女のほうは、それよりも少し年上らしい。隣の少女と比べると少しぼんやりとした顔立ちだ。それでも先輩らしくはたきと箒をきちんと持って、真面目な顔で女官長の話を聞いている。少女らは二人とも、女官長とほぼ同じ格好だ。

「では、お始めなさい。手早く、正しく、きっちりと。いいですね。拭き掃除が終わったら、次の仕事はサラに聞くこと」
「はい、女官長さま」

 少女らの返事を聞くと、女官長はひとつ頷き、せかせかとした足取りで行ってしまった。女官見習いの少女と、サラと呼ばれた先輩女官の少女は、さっそく廊下の掃き掃除と拭き掃除にとりかかる。
 なにしろ、広い王宮だ。たとえ廊下だけだって、こんな人数では一日中かかっても終わるはずがない。もちろん、普段から何人かで手分けをしておこなって、大体七日ぐらいで一巡できるようには考えてあるらしかったが。
 新米女官の少女は雑巾を持った手を忙しく動かしながらも、急ぎ足に廊下をゆく武官や文官の男たちにちらちらと視線を走らせていた。

 少女がこの王宮にやってきて、五日あまりになる。
 フロイタール宮では、十日ばかり前の「冬至の日」にあったという大事件以来、何かの重大な事案が持ち上がっているらしい。具体的なことは何もわかるはずがないが、日々あわただしく様々な準備や計画が行われている様子だった。
 声高になにかを言い合いながら足早に歩き去ってゆく男たちの表情は一様に緊張したものだ。彼らの様子を見ているだけでも、そんな大事はあずかり知らないこんな下っ端女官でさえ、なにか心の内にざわめくものが抑えられなかった。

 と、廊下の向こうから明らかに身分の高いかたがやってくるお姿が見えて、少女たちは大いに慌てた。急いで廊下の隅へしりぞいてひざまずき、頭を下げる。
 先日からこの国の王になったばかりの少年王、ヨシュアである。
 ごく最近、大変に敬慕されていたという兄王を亡くされたばかりのその少年は、それ以来ずっと顔色がよくなかった。が、それでも感情を抑えるようにして、懸命に公務に励んでおられる様子だった。
 今日は文官らしき長身の青年が、何か分厚い資料のようなものを手に、その少し後ろを歩いている。さらに護衛らしき兵士が三名、付いてきていた。
 少女たちの前を歩きすぎながら、ヨシュア王が文官の青年に話しかける声がする。

「では、ヨルムスがそのあたりには詳しいと?」
「そのようです。是非、今回の調査に同行して頂けないかと」
 
(……!)

 新米女官の少女はハッとした。

(この、声……!)

 思わず顔をぱっと上げる。求められてもいないのに、下々の者が陛下の前で勝手に顔を上げるなど、不敬の極みである。下働きの者として、あってはならないことだった。
 隣のサラが頭を下げたままぎょっとして、慌てて少女の服の裾を引っ張った。

「ちょ、ちょっと……!」

 ごく小さな声だったが、文官の青年は即座にこちらを向いた。
 そして絶句したように黙り込み、ぴたりとその場に立ち止まった。
 新米女官の少女は呆気にとられたその顔を見て、思いきりにっこり笑ってやった。

「マール……!?」
 
 それは間違いなく、佐竹だった。前に王宮で会ったときよりも昇進したらしく、長衣トーガが黒いものに変わっている。縁の金糸の刺繍も少し凝ったものになっていた。前の姿も似合っていたが、黒は彼の髪色ともあっていて、さらにその男ぶりを上げているように見えた。

「どうした? その者がどうかしたのか?」

 驚いた顔のままの黒髪の青年を、ヨシュア王が不審げな顔で見返った。
 マールは慌てて、もとの通りに顔を伏せた。

「あ、いえ──」
 佐竹は少し上体を屈めて、ヨシュアの耳元に何事かを囁いた。
「ああ、なるほど」
 ヨシュアはすぐに頷くと、改めてマールに声を掛けた。
「遠慮はいらない。そこの者、顔を上げてよいぞ」

 マールとサラは、そう言われてやっと恐るおそる顔を上げた。優しそうな少年王の茶色い瞳と目が合って、マールの心臓が緊張のあまり、ばくばくと音を立てた。
 ヨシュア王はマールの顔を見て一瞬驚いた様子だったが、すぐに笑顔に戻られた。それは至って優しげな笑顔に見えた。

「では、私は先に行っているぞ、サタケ。なるべく早く来てくれよ」
「恐れ入ります、陛下」

 佐竹が一礼すると、ヨシュアはまたにこやかに笑って踵を返し、兵士らと共に足早に歩み去った。
 ヨシュアの姿が見えなくなって、マールはやれやれとばかりに立ち上がった。少しばかり、スカートの膝あたりの埃を払う。と、頭の上から低い声がした。

「マール。こんな所で何をやってる」

 明らかに機嫌の良くない声のようだった。見上げてみれば、やっぱり佐竹の目は少し剣吞な色を含んでこちらを見下ろしていた。マールは思わずむっとして、その目をまっすぐ見返した。精いっぱい、胸をらして見せる。

「見ればわかるでしょ? お掃除よ。真面目に仕事してて、何が悪いの?」
「…………」

 いぶかしげな顔はそのままに、佐竹は隣のサラに目をやった。サラのほうでは完全に、「強面で長身の上級文官からぎろりと睨まれた」と思ったらしい。こちこちになって物も言えない様子である。
 が、佐竹はこの場で話をするのはあっさりと諦めたようだった。

「手がいた時でいい。書庫に来てくれ」

 それだけ言うと、佐竹もまた踵を返し、ヨシュアの歩いていった方向へと大股に去っていった。





 王宮じゅうが悲嘆に暮れたあの冬至の日から、すでに十日あまりが過ぎ去っていた。それでも、フロイタール王国にはまだ太陽の光が差すことはない。空は一日中、夜と同じ姿のままである。
 この時期だけのことではないが、どうしても時刻が分かりづらくなるため、王宮では一刻ごとに中央の尖塔から大鐘を打ち鳴らすことで時を告げ知らせるようになっている。ちなみに時間そのものは、石版に彫り付けた細長い溝に入れた、線香の粉末のようなものを少しずつ燃やすことで計るらしかった。

 夕餉ゆうげの時刻を知らせる鐘が鳴ったころ、マールはようやく一日の仕事から解放された。そうして女官長の許可を貰い、急ぎ足で書庫へと向かった。
 佐竹は書庫管理の文官長であるヨルムスはじめ、他の文官たちと共に様々な資料を広げ、難しい顔をしてなにかの話し合いをしているところだった。が、マールの姿を見るとすぐにこちらにやってきた。

「すまん。少し待っていて貰えるか」

 そう言って、佐竹はマールを書庫の奥に連れていった。そのままあの物語の棚の前で立ち止まると、高いところの書物を数冊おろしてマールに手渡してくれ、再び文官たちの方へ戻っていった。
 書架からは、埃っぽくて少しかび臭いような、独特の書物の香りがしていた。

 マールはそばにあった脚立に座り、佐竹から渡された物を読んでみたり、ほかの手近な書物をいろいろに手にとって眺めてみたりしながら、ゆっくりと佐竹を待った。時々、話し込んでいる彼の横顔をちらりと見やる。
 またもや昇進したらしい佐竹は、もはやこの書庫のあるじのような感じで、他の文官たちを指揮する立場になっているようだった。それでも言葉遣いも態度もごく丁寧だ。偉そうなそぶりは微塵も無かった。文官たちの方でも、いかにも自然に彼に敬意を払っている様子が見えた。

(すっごく、偉くなっちゃったみたいだなあ……サタケ)

 ぼやぼやしていると、本当にどんどん置いていかれてしまうばかりだ。
 もともと、近い人だなんて思ってもいない。けれども、田舎の村で何もしないでいるだけでは余計にそうだ。彼は本当にあっという間に、絶対に手の届かないところまで行ってしまうに違いなかった。
 そう思って、ルツ婆と祖母に必死にお願いして、マールはこうやってここへ来ることにしたのである。

 幸いにも、というか驚いたことには、実はマールの祖母は、かつてこの王宮で働いたことのある人だった。しかも一時は女官長にまでなったらしい。その後、運悪く病を、ひどい熱病のために視力を失い、やむなく職を辞したという経緯らしかった。
 ルツと祖母を説得するのは、もちろん並大抵のことではなかった。けれども、それでも最後には、祖母は王宮で働いていた時の知り合いを紹介し、ここへ出仕する道をつけてくれたのだ。
 実は先ほどの女官長も、祖母のずっと下の後輩に当たる人なのだった。彼女は祖母のことをよく覚えていて、若いころには随分と世話になったのだと話してくれた。

「では、おばばさまは元々こちらの──」

 書庫の奥で別々の脚立に座り、マールからその話を聞いたとき、佐竹はもちろん驚いた様子だった。が、一方で何かを納得した風にも見えた。

「そうか。だからあれほど──」

 田舎暮らしの年老いた女性にしては、洗練された礼儀作法や言葉遣いをはじめとする様々の深い教養をお持ちだったと、佐竹は祖母を褒めてくれた。マールは素直に嬉しかった。

「おばあちゃんのことは、ルツ婆さまやみんなによくよくお願いしてきたわ。みんなに迷惑を掛けちゃってるのは分かってるけど、でも……」

 それでもここに来たかったのだと、そんなことまでは言えなかった。ましてや、その本当の理由が何であるかも。

「こっ、ここにいた方が、サタケのしなくちゃならないこと、何か手伝えるかもしれないしっ……!」
 そしてこんな、決して噓ではないけれども、核心だとも言えないような理由を伝えてしまう。
 だが、それを聞いた黒髪の青年は、考え込むように顎に手を当てただけだった。
「…………」
 随分と、長い間があいた。
 その沈黙に耐えられず、マールはおずおずと佐竹の顔を覗き込んだ。
「あ、あの……サタケ?」

 青年の表情は、至って厳しいものだった。
 とくとくと自分の心臓の音が聞こえるような気がして、頬のあたりの毛がさあっと逆立つような感じがした。

 ……やっぱり、迷惑なだけだったのだろうか。
 サタケにとっては、この大変な時に、邪魔なものが増えただけのことなのかも……?
 自分みたいな何の取りえもない女の子が、このサタケの役に立つなんて。
 そんなこと、やっぱりあるはずなかったんだわ──。

 そんな不安が、水の中にどす黒いインクを垂らしたように、あっという間にマールの胸に広がってゆく。その途端に、鼻の奥がツンとしだした。マールは慌ててぎゅっと拳を握り、お腹のあたりに力を入れた。

 ──が。
「いや。願ってもないかも知れん」
「え?」

 佐竹の口から出てきたのは、まったく予想外の言葉だった。
 マールは耳を疑った。思わず変な声で訊き返してしまって、かっと頬が熱くなる。

「ミード村の皆様には、今後、色々とご協力を仰がねばならんだろうと思っていた。あの村の奥に<召喚の間>があるとなると──」

 佐竹はそこで言葉を切って、様々に考える風である。
 マールは何のことやらさっぱり分からず、やっぱり変な顔で佐竹を見つめるばかりだ。きっと今の自分は、随分と頭の悪そうな顔をしているに違いない。

「マール。今後近いうちに、この国を挙げてとある物の大捜索を行う予定になっている。それはミード村の近くにあるものなんだ。ついては、マールにも協力を願いたい。構わないだろうか」
「え……えっと……?」

 マールは目を白黒させた。

(一体、なに言ってるのよ……? サタケ……)

 が、佐竹はマールが戸惑うことなど予想の範囲内だとばかりに言葉を続けた。

「マールはもちろん、ミード村の皆様には、本当に大変なお世話になった。俺にとっては恩人といってもいい方々だと思っている」
「う、うん……」
 ちょっと気恥ずかしいような気持ちになって、マールは俯いた。
 佐竹はそんなマールの目を真っ直ぐに見て言った。

「マールには、ミード村と王宮をつなぐを頼みたい」
「えっ……!?」

 信じられないような言葉が来て、マールは心底びっくりする。

(橋渡し役……? この、あたしが……??)

 何かの聞き間違いではないか。
 そう思って、マールはまじまじと佐竹の顔を見つめてしまった。だが佐竹の顔は至って大真面目である。もちろん、彼がそんな冗談を口にする男でないことは百も承知だったのだが。

「陛下や俺が行って頼むだけでは、いかにも上からの命令のようになって申し訳ないと思っていたところだった。マールがいてくれれば、大いに助かる」
「え、えっと……」
 マールはまごまごした。話について行けないのだ。
「もちろん、本格的な調査が始まることになれば、村には相当な長期間、兵や文官たちが滞在することになる。当然、多大なご迷惑を掛けることにもなると思う。陛下は、近隣の村々へは十分な報酬をと考えてはおられるが、村の皆様には、事前にそのあたりのこともご説明せねばならん」
「…………」

 呆然としているマールに向かい、佐竹は居住まいを正して、改めて頭を下げた。

「どうか、頼む」
「え、……ええっ! サタケ、ちょっと……!」
 マールはびっくりして飛び上がった。慌てて脚立から飛びおりる。
「や、やめてよサタケ! ちょっとったら……!」
 が、佐竹は頭を上げなかった。

(こんな、いきなり……。どうしろって言うのよ……?)

 両手でスカートを握り締めて立ち尽くす。そうやって、マールは頭を下げたままの佐竹をしばらく見下ろしていたが。

「役に、立てるの……?」

 佐竹が少し、不思議そうな面持ちで顔を上げた。マールはもう一度、ゆっくりと言葉を区切りながら言った。

「あたし、サタケの役に、立てるの……?」
「もちろんだ」

 即答だった。佐竹はまっすぐにマールの目を見返していた。その瞳には、いつものことだが嘘はなかった。
 マールはすうっと息を吸い込むと、一旦止めて、一気に答えた。

「……わかった」
「有難い。恩に着る、マール──」
 そう答えて再び頭を下げかかった佐竹を、マールは即座に手で止めた。
「でも、サタケ。代わりに、ひとつだけ約束してくれる?」

 佐竹の顔を、マールもまっすぐに見返した。翠の瞳が自分でも、そばに置いた灯火の光を受けてきらきら光っているのが分かった。
 佐竹が少し怪訝な顔になる。

「なんだ?」
 マールは、ちょっと間をおいた。そして、とても大切なことを言う時のように、丁寧にその言葉を紡いだ。
「サタケの『大事な人』のこと、ちゃんと教えて欲しいの。……あたしに」
「…………」

 佐竹は、明らかに驚いたようだった。
 目を見開き、じっとマールの瞳を見つめ返している。が、その目はなんとも言えない色を湛えて、明らかにかげりを帯びたようだった。

「サタケ……?」

 不思議に思って覗き込むようにすると、佐竹はほんの少し、視線を逸らすような素振りを見せた。
 しばしの沈黙が下りた。

(サタケ……?)

 どうしたのだろう。いつもの佐竹らしくない。
 やっぱり、自分がここへ来る前、冬至の日に、ここで彼にとっても重大な何かがあったのだろうか。

(それってもしかして、サタケの『大事な人』にも、なの……?) 

 様々に思い巡らしながら、それでもマールは黙って佐竹の言葉を待った。

 ……やがて。
 佐竹がゆっくりと頷いた。

「……わかった」

 二人の隣にある小さな灯火の火が、ひとつ、ゆらりと揺らめいた。


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