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第一章 南の国
5 遺言
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自室に戻って自分用の灯火を灯し、佐竹は机の前に座って、あらためてその「覚書」に目を通した。
と、数ページ読み進んだところで、何かがぱらりと床に落ちた。どうやら折った状態で挟まっていたらしい。拾い上げてみると、それは一葉の羊皮紙で、佐竹個人へ宛てた故・ズール宰相の手紙のようだった。
ざっと目を通し掛けたが、佐竹はすぐに、はっとして姿勢を正した。そして椅子に座りなおすと、改めて最初からそれを読み直した。
それは、ズールの遺書だった。
以下はその概要である。
『サタケ殿
貴方様に対し、斯様に突然に、かかる文書を送りつける非礼をどうか御容赦くださりませ。
此度のことでは、貴方様およびナイトウ殿には、誠に多大のご迷惑とご心痛をお掛けする仕儀となり申しました。
まことにお恥ずかしきことなれど、なんとお詫び申し上げればよいものか、卑賤愚昧なるこの身には言葉も見つからぬ有様にござりまする。
とは申せ、このような暗愚の老骨の幾重の詫びの言葉などに、もはやなんの意味がござりましょうや。
貴方様がこれをお読み下さっているということは、とりも直さず、わが身はすでにこの世のものではありますまい。
この身はもはや、それを毫も悔いることなどござりませぬ。
が、もし心に残る恨事があるとするならば、それはやはり、あの<白き鎧>の一事にござりまする。
サタケ殿。
この身が斯様なことを貴方様にお願い申し上ぐるに能わざること、重々承知いたしておりまする。しかし何卒、どうか何卒、この爺いの最期の願いと思うてお聞き届け頂きとう存じまする。
この『覚書』を貴方様にお託し申し上げたのも、ほかの事ではござりませぬ。
あの<白き鎧>の秘密を、解き明かして頂きたい。
そして、出来うることなれば、それを破壊せしめて頂きとう存じまする。
無論のこと、このことが貴方様がたが元の世界へとお戻りになるに障りとなるようであれば、この限りではござりませぬ。
何よりも、そちらを優先して頂くは当然のことにござりまする。
その場合は出来ますれば、残された者どもが<鎧>を破壊する算段をつけるべく、道筋を知らしめて頂くだけで構いませぬ。
かの武辺づれの黒の王ごときに揶揄されるまでもありませぬ。この国のあらゆることは、今に至るまであの<鎧>に支配され、翻弄されて参ったのでござりまする。
此度のこの様々の悲嘆と窮状のすべては、この身の愚かしさは無論のことなれど、やはりその大元に、あの<鎧>の呪いとでも言うべきものがあったからに他なりませぬ。
「憎うはないか」と、あの男は申しました。
あの時、愚かにもわたくしは、初めて目を開かされたのでござりまする。
いかにも、憎い。
あのような物さえなければ、陛下は<鎧の稀人>などという惨い桎梏に繋がるることもなく、われら歴代の宰相どもが退任を機にいちいち人柱に立つこともなく、国はより平和に治まったでありましょうものを。
否、陛下や我々だけではござりませぬ。この王国そのものが、その樹立の瞬間から数百年という年月を、ずっとあの<鎧>の呪いの元に存在し続けて参ったのに他なりませぬ。
このズール、斯様な老境にして初めてそれに思い至った愚かしさが、ただただ呪わしゅうてなりませぬ。
《<鎧>は、守られねばならぬべきもの》。
《<儀式>は、怠ってはならぬべきもの》。
《すべては、この世を終焉せしめぬために》──。
そう言い続け、我々を呪縛してきたものとは、一体何ぞや……?
サタケ殿。
どうか、伏してお願い申し上げまする。
<鎧>の秘密を。
そして、その破壊を──。
何卒、この老骨の最期の願いをお聞き届け願いたい。
伏して、伏してお願い申し上げまする──。
宰相ズール 』
ズールの遺書の最後のほうは、文字も乱れ、あちこちに染みが残って、もうよく読めなくなっていた。その染みがなんによるものであるか、それは考えてみるまでもないことのように思われた。
佐竹はその手紙を手にして、しばし目を伏せていた。
が、やがてそれを机におき、静かにそちらに礼をした。
そして元通りに折り畳むと、そっと長衣の懐に差し入れた。
◇
「あ、あのっ……。一体、どこへ――」
長髪、黒髪の男にぐいぐいと腕を引かれるようにして山道をおりて行く。そうしながら、内藤は男に向かってこれで何度目かになる質問を投げかけていた。
周囲は、鬱蒼とした針葉樹の森である。時々、楽しげに鳴き交わす何かの鳥の声らしいものが聞こえるほかは、至って静かな小道であった。
先ほど出てきた山中の建造物は、出口を出てすぐ振りかえって見てみたが、もうただの叢にしか見なかった。そこに何かの扉があるなどとは、まったく分からないようになっている。たとえもう一度ここへつれて来られたとしても、内藤には絶対にそれを見つけられない自信があるほどだった。
木々の梢をすかして太陽の欠片がちらちらと洩れ光り、頬を撫でている。内藤は、ナイトがもともと鎧の下に着ていた薄手の単衣と下穿きだけの姿だ。だがその姿でちょっと歩いただけでも、少し汗ばむような気温だった。
それらのことはまさにここが、この惑星の南半球であることを物語っていた。北の国ではこんな時期に、太陽光が拝めることはまずないからだ。
時間帯としては、どうやらまだ昼日中のようだった。
男は内藤の質問などまるで聞こえないかのようだった。そのまま大股にぐいぐいと坂をおりてゆき、やがて自分のものらしい、見事な藍色の馬のもとに辿りついた。
馬は、大きな岩と大木の陰に隠れるようにして繋がれていた。胸と尻の筋肉の盛り上がった精悍な馬である。馬は男と内藤の姿をみつけると、ぶるる、と首を振って少し前掻きをした。
さすがに王の持ち物らしく、鐙や轡は美しい飾り金具で設えられている。頭に掛けられた覊も、織りの凝った飾り紐になっていた。
「わ~……」
思わず自分の置かれている状況も忘れて、内藤はその馬に見惚れてしまった。
「すっげ~! かっけえ馬……!」
引っ張られていた腕を自然に離して、たたっと馬に駆け寄る。
「気をつけろ。『青嵐』は、少し気性が荒いぞ」
サーティークがちょっと苦笑して注意した。「青嵐」というのが、その馬の名前であるらしかった。
と、その途端、近づいてきた内藤を威嚇するようにして、青嵐が少しいななき、かつっと後肢を跳ね上げた。
「うわ!」
驚いて跳び退ると、ぎょろっと大きな碧い瞳に睨まれる。睫も藍色で、なにか夢見るような美しさを湛えた瞳だった。だが今それは、この奇妙な新顔に対する警戒心で一杯のように見えた。
「……言わぬことではない。ほら、どいていろ」
そう言って内藤の前に出ると、サーティークはさりげなく馬の首の辺りを静かに叩いて、何事かを囁いたようだった。途端に青嵐が静かになる。
そのまま男はひらりと馬上の人となり、内藤に手を差し出してきた。
「乗れ。ここからは少し急ぐぞ」
内藤も特に何も考えずに、黒い手甲をした手を握り返した。そのままぐいと鞍の上に引き上げられる。片足を向こう側へ下ろし、何とか鞍に跨ったところで、後ろから低い声が尋ねてきた。
「乗馬の経験は?」
内藤は申し訳なさそうに首を横に振った。
「ぜ、全然、です……」
「そうか。では、振り落とされんように鞍の前に掴まっておけ。背中を丸めるな。身体が傾きやすくなる。舌を噛まんように気をつけろ」
「へ……? え、えっと──」
聞き返す暇など、ありはしなかった。
次の瞬間にはもう馬体を蹴って、サーティークは一気に全速力で青嵐を駆けさせ始めたからだ。
(う……、うわ……!)
大の男二人の体重をものともせずに、青嵐は力強く地面を蹴っている。びゅんびゅんと耳元で風鳴りがして、周りの景色がどんどん後ろへと飛び去ってゆく。
初めのうち、慣れないことで怖さばかりが先に立っていた内藤も、慣れてくるに従って、ちょっとそれが楽しくなってきてしまった。
(ふわー……。気持ちいい……!)
駆歩をしている馬の背の上は爽快だった。まるで空でも飛んでいるかのように、ふわっと体重を感じなくなる瞬間がある。ナイトの意識下に閉じ込められてからこの方、こんなに気持ちのいい感覚を覚えたのは初めてかも知れなかった。
ふと気がつくと、背後の男の黒い腕が腰に回って、こちらの身体を支えてくれていた。どうやらまだ時々不安定に体が傾く内藤を気遣ってくれていたらしい。それはなんとも、さりげなかった。
(この人って──)
ちょっと不思議な気持ちになる。
南の国の、恐怖の魔王。
残酷無比の、武辺の王。
今まであの北の国では、彼に関してそんなことばかり聞かされてきた。
けれどこうして話をしてみると、本人からそんな感じはほとんど受けない。
むしろ冷静で理知的で、どちらかといえばかなり紳士的なのではないだろうか。
確かに、腹を立てたり警戒をしたり、ましてや命の遣り取りをしている場面などでは厳しい表情になるのは当然だろうし、それはあの佐竹だって同じのはずだ。
自分はまだ、本気で佐竹を怒らせたことなどない。ないけれど、もしそうなった時の佐竹を見たら、果たしてこのサーティークより怖くないのかどうかは、まったくもって自信がなかった。
(いや……やっぱり、これも本人には言えないけどさ)
今度はきっと、文庫本の角どころでは済まないだろう。
そっと窺うと、進行方向と周囲の状況に注意を向けているサーティークの横顔は、やっぱり佐竹によく似ていた。精悍で、しかし少しも野卑でなく、むしろ鋭い聡明さが溢れ、きりりとした品がある。
おおっぴらに振りまくような優しさではないけれど、こうして人をさりげなくサポートをする控えめな気遣いも、どこか佐竹に似ているようだ。
「…………」
(なんか……変なの)
もやもやと胸の奥に湧き上がった感情の正体がよく分からず、内藤はちょっと顔を顰めた。だが、諦めてまた前を向いた。
彼が自分をどうするつもりでいるのか。それはまだ分からない。
もしかすると、王宮に連れて行かれて拷問でもされて、必要なことを聞き出せばすぐにも殺されてしまうだけなのかも知れない。
ここで死なせると言われるのなら、もう、そうなるしかないとも思う。
(それに……)
自分が生きていることで、もうこれ以上、佐竹の迷惑になるのだけは嫌だった。
わざわざ自分を助けるために、向こうの世界からあんな大変な苦労をして、ここまで追いかけてきてくれた稀有な友達。自分がこの国で生きている以上、佐竹はまた、ここまで自分を助けに来てしまうかも知れないのだ。
(もう、俺……。そんなことは)
きゅっと、唇を噛み締める。
自分は、決して佐竹のようにはなれない。
あそこまですべてを見切って、向かい合って。あんな風に自分に厳しくなるなんて、きっと無理な話だと思う。
でも。
(だから……せめて)
今、こうなってしまった以上は、
最低限の覚悟だけでも決めておく必要はあるだろう。
そのときは、背後のこの男に頼むのだ。
『どうか、自分を殺してください』──と。
と、数ページ読み進んだところで、何かがぱらりと床に落ちた。どうやら折った状態で挟まっていたらしい。拾い上げてみると、それは一葉の羊皮紙で、佐竹個人へ宛てた故・ズール宰相の手紙のようだった。
ざっと目を通し掛けたが、佐竹はすぐに、はっとして姿勢を正した。そして椅子に座りなおすと、改めて最初からそれを読み直した。
それは、ズールの遺書だった。
以下はその概要である。
『サタケ殿
貴方様に対し、斯様に突然に、かかる文書を送りつける非礼をどうか御容赦くださりませ。
此度のことでは、貴方様およびナイトウ殿には、誠に多大のご迷惑とご心痛をお掛けする仕儀となり申しました。
まことにお恥ずかしきことなれど、なんとお詫び申し上げればよいものか、卑賤愚昧なるこの身には言葉も見つからぬ有様にござりまする。
とは申せ、このような暗愚の老骨の幾重の詫びの言葉などに、もはやなんの意味がござりましょうや。
貴方様がこれをお読み下さっているということは、とりも直さず、わが身はすでにこの世のものではありますまい。
この身はもはや、それを毫も悔いることなどござりませぬ。
が、もし心に残る恨事があるとするならば、それはやはり、あの<白き鎧>の一事にござりまする。
サタケ殿。
この身が斯様なことを貴方様にお願い申し上ぐるに能わざること、重々承知いたしておりまする。しかし何卒、どうか何卒、この爺いの最期の願いと思うてお聞き届け頂きとう存じまする。
この『覚書』を貴方様にお託し申し上げたのも、ほかの事ではござりませぬ。
あの<白き鎧>の秘密を、解き明かして頂きたい。
そして、出来うることなれば、それを破壊せしめて頂きとう存じまする。
無論のこと、このことが貴方様がたが元の世界へとお戻りになるに障りとなるようであれば、この限りではござりませぬ。
何よりも、そちらを優先して頂くは当然のことにござりまする。
その場合は出来ますれば、残された者どもが<鎧>を破壊する算段をつけるべく、道筋を知らしめて頂くだけで構いませぬ。
かの武辺づれの黒の王ごときに揶揄されるまでもありませぬ。この国のあらゆることは、今に至るまであの<鎧>に支配され、翻弄されて参ったのでござりまする。
此度のこの様々の悲嘆と窮状のすべては、この身の愚かしさは無論のことなれど、やはりその大元に、あの<鎧>の呪いとでも言うべきものがあったからに他なりませぬ。
「憎うはないか」と、あの男は申しました。
あの時、愚かにもわたくしは、初めて目を開かされたのでござりまする。
いかにも、憎い。
あのような物さえなければ、陛下は<鎧の稀人>などという惨い桎梏に繋がるることもなく、われら歴代の宰相どもが退任を機にいちいち人柱に立つこともなく、国はより平和に治まったでありましょうものを。
否、陛下や我々だけではござりませぬ。この王国そのものが、その樹立の瞬間から数百年という年月を、ずっとあの<鎧>の呪いの元に存在し続けて参ったのに他なりませぬ。
このズール、斯様な老境にして初めてそれに思い至った愚かしさが、ただただ呪わしゅうてなりませぬ。
《<鎧>は、守られねばならぬべきもの》。
《<儀式>は、怠ってはならぬべきもの》。
《すべては、この世を終焉せしめぬために》──。
そう言い続け、我々を呪縛してきたものとは、一体何ぞや……?
サタケ殿。
どうか、伏してお願い申し上げまする。
<鎧>の秘密を。
そして、その破壊を──。
何卒、この老骨の最期の願いをお聞き届け願いたい。
伏して、伏してお願い申し上げまする──。
宰相ズール 』
ズールの遺書の最後のほうは、文字も乱れ、あちこちに染みが残って、もうよく読めなくなっていた。その染みがなんによるものであるか、それは考えてみるまでもないことのように思われた。
佐竹はその手紙を手にして、しばし目を伏せていた。
が、やがてそれを机におき、静かにそちらに礼をした。
そして元通りに折り畳むと、そっと長衣の懐に差し入れた。
◇
「あ、あのっ……。一体、どこへ――」
長髪、黒髪の男にぐいぐいと腕を引かれるようにして山道をおりて行く。そうしながら、内藤は男に向かってこれで何度目かになる質問を投げかけていた。
周囲は、鬱蒼とした針葉樹の森である。時々、楽しげに鳴き交わす何かの鳥の声らしいものが聞こえるほかは、至って静かな小道であった。
先ほど出てきた山中の建造物は、出口を出てすぐ振りかえって見てみたが、もうただの叢にしか見なかった。そこに何かの扉があるなどとは、まったく分からないようになっている。たとえもう一度ここへつれて来られたとしても、内藤には絶対にそれを見つけられない自信があるほどだった。
木々の梢をすかして太陽の欠片がちらちらと洩れ光り、頬を撫でている。内藤は、ナイトがもともと鎧の下に着ていた薄手の単衣と下穿きだけの姿だ。だがその姿でちょっと歩いただけでも、少し汗ばむような気温だった。
それらのことはまさにここが、この惑星の南半球であることを物語っていた。北の国ではこんな時期に、太陽光が拝めることはまずないからだ。
時間帯としては、どうやらまだ昼日中のようだった。
男は内藤の質問などまるで聞こえないかのようだった。そのまま大股にぐいぐいと坂をおりてゆき、やがて自分のものらしい、見事な藍色の馬のもとに辿りついた。
馬は、大きな岩と大木の陰に隠れるようにして繋がれていた。胸と尻の筋肉の盛り上がった精悍な馬である。馬は男と内藤の姿をみつけると、ぶるる、と首を振って少し前掻きをした。
さすがに王の持ち物らしく、鐙や轡は美しい飾り金具で設えられている。頭に掛けられた覊も、織りの凝った飾り紐になっていた。
「わ~……」
思わず自分の置かれている状況も忘れて、内藤はその馬に見惚れてしまった。
「すっげ~! かっけえ馬……!」
引っ張られていた腕を自然に離して、たたっと馬に駆け寄る。
「気をつけろ。『青嵐』は、少し気性が荒いぞ」
サーティークがちょっと苦笑して注意した。「青嵐」というのが、その馬の名前であるらしかった。
と、その途端、近づいてきた内藤を威嚇するようにして、青嵐が少しいななき、かつっと後肢を跳ね上げた。
「うわ!」
驚いて跳び退ると、ぎょろっと大きな碧い瞳に睨まれる。睫も藍色で、なにか夢見るような美しさを湛えた瞳だった。だが今それは、この奇妙な新顔に対する警戒心で一杯のように見えた。
「……言わぬことではない。ほら、どいていろ」
そう言って内藤の前に出ると、サーティークはさりげなく馬の首の辺りを静かに叩いて、何事かを囁いたようだった。途端に青嵐が静かになる。
そのまま男はひらりと馬上の人となり、内藤に手を差し出してきた。
「乗れ。ここからは少し急ぐぞ」
内藤も特に何も考えずに、黒い手甲をした手を握り返した。そのままぐいと鞍の上に引き上げられる。片足を向こう側へ下ろし、何とか鞍に跨ったところで、後ろから低い声が尋ねてきた。
「乗馬の経験は?」
内藤は申し訳なさそうに首を横に振った。
「ぜ、全然、です……」
「そうか。では、振り落とされんように鞍の前に掴まっておけ。背中を丸めるな。身体が傾きやすくなる。舌を噛まんように気をつけろ」
「へ……? え、えっと──」
聞き返す暇など、ありはしなかった。
次の瞬間にはもう馬体を蹴って、サーティークは一気に全速力で青嵐を駆けさせ始めたからだ。
(う……、うわ……!)
大の男二人の体重をものともせずに、青嵐は力強く地面を蹴っている。びゅんびゅんと耳元で風鳴りがして、周りの景色がどんどん後ろへと飛び去ってゆく。
初めのうち、慣れないことで怖さばかりが先に立っていた内藤も、慣れてくるに従って、ちょっとそれが楽しくなってきてしまった。
(ふわー……。気持ちいい……!)
駆歩をしている馬の背の上は爽快だった。まるで空でも飛んでいるかのように、ふわっと体重を感じなくなる瞬間がある。ナイトの意識下に閉じ込められてからこの方、こんなに気持ちのいい感覚を覚えたのは初めてかも知れなかった。
ふと気がつくと、背後の男の黒い腕が腰に回って、こちらの身体を支えてくれていた。どうやらまだ時々不安定に体が傾く内藤を気遣ってくれていたらしい。それはなんとも、さりげなかった。
(この人って──)
ちょっと不思議な気持ちになる。
南の国の、恐怖の魔王。
残酷無比の、武辺の王。
今まであの北の国では、彼に関してそんなことばかり聞かされてきた。
けれどこうして話をしてみると、本人からそんな感じはほとんど受けない。
むしろ冷静で理知的で、どちらかといえばかなり紳士的なのではないだろうか。
確かに、腹を立てたり警戒をしたり、ましてや命の遣り取りをしている場面などでは厳しい表情になるのは当然だろうし、それはあの佐竹だって同じのはずだ。
自分はまだ、本気で佐竹を怒らせたことなどない。ないけれど、もしそうなった時の佐竹を見たら、果たしてこのサーティークより怖くないのかどうかは、まったくもって自信がなかった。
(いや……やっぱり、これも本人には言えないけどさ)
今度はきっと、文庫本の角どころでは済まないだろう。
そっと窺うと、進行方向と周囲の状況に注意を向けているサーティークの横顔は、やっぱり佐竹によく似ていた。精悍で、しかし少しも野卑でなく、むしろ鋭い聡明さが溢れ、きりりとした品がある。
おおっぴらに振りまくような優しさではないけれど、こうして人をさりげなくサポートをする控えめな気遣いも、どこか佐竹に似ているようだ。
「…………」
(なんか……変なの)
もやもやと胸の奥に湧き上がった感情の正体がよく分からず、内藤はちょっと顔を顰めた。だが、諦めてまた前を向いた。
彼が自分をどうするつもりでいるのか。それはまだ分からない。
もしかすると、王宮に連れて行かれて拷問でもされて、必要なことを聞き出せばすぐにも殺されてしまうだけなのかも知れない。
ここで死なせると言われるのなら、もう、そうなるしかないとも思う。
(それに……)
自分が生きていることで、もうこれ以上、佐竹の迷惑になるのだけは嫌だった。
わざわざ自分を助けるために、向こうの世界からあんな大変な苦労をして、ここまで追いかけてきてくれた稀有な友達。自分がこの国で生きている以上、佐竹はまた、ここまで自分を助けに来てしまうかも知れないのだ。
(もう、俺……。そんなことは)
きゅっと、唇を噛み締める。
自分は、決して佐竹のようにはなれない。
あそこまですべてを見切って、向かい合って。あんな風に自分に厳しくなるなんて、きっと無理な話だと思う。
でも。
(だから……せめて)
今、こうなってしまった以上は、
最低限の覚悟だけでも決めておく必要はあるだろう。
そのときは、背後のこの男に頼むのだ。
『どうか、自分を殺してください』──と。
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