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第六章 暗転
9 儀式の間
しおりを挟むその日は、しとしとと雨が降っていた。
<鎧>はフロイタール王国の北の果てにある。
聞くところによると、南のノエリオールのそれも南の果てにあるのだと言う。両者は丁度、対のようにして存在するのだ。
フロイタールの大地は、その北側を、果ても見えない大海に遮られて終わっている。人々はそこを「果ての海」と呼ぶ。辺境の各地には、そのわだつみの先に、人の魂が死後に飛んでゆく最果ての国があるのだという信仰も存在している。
<白き鎧>を収めた構造物は、その海を見下ろす、とある山の中腹にある。小雨が降り、足元の悪い中を、ズールとナイトはとぼとぼとその場所に向かって坂道を登っていった。
ある程度の場所までは馬車を使い、兵たちの護衛もつけるのだが、そこから先は本当に二人だけの道行きになる。比較的安全な道を使うとはいえ、それでも危険がないとは言い切れなかった。身分を隠して山中の村々を越え、ようやくその地に辿りついて少し休むと、ズールはナイトと共に<鎧>の隠し扉へ入っていった。
かの男が現れたのは、中に入って準備をし、ナイトが<鎧>の心臓部に入ろうとした、まさにその時だった。<鎧>の操作を行なうべくあれこれと動き回っていたズールは、密閉された空間であるはずのその部屋に、奇妙な空気の流れを感じて振り向いた。
ナイトの背後に、あの<門>が出現していた。
「陛下……!」
ズールは叫んだ。
ナイトが驚いて跳び退ったところへ、その真っ黒い穴の中から、ぬっとその男が現れた。
長い黒髪に、精悍な風貌。鍛え抜かれた体躯。黒を基調とした鎧とマント姿のその男は、真っ黒い小山のようにも見えた。
全身から、凄まじいまでの気魄が感じられる。
だが当人は何の気負いもない様子で、ナイトに向かって軽く一礼をした。
「お初にお目にかかる。ナイト王とお見受けしたが?」
多少、小馬鹿にしたような声音だった。
あまりの驚愕に声も出なくなっているナイト王のことなど意に介さぬ風で、男はずかずかと歩み寄った。腰にはあの禍々しい反りをうった剣を手挟んでいる。
「挨拶は後にしよう。あまり時間がない。ともに来て頂くぞ」
言って男は矢庭にナイトに向かって手を伸ばした。
ズールはその時になって、やっと正気を取り戻した。
「へ、陛下! お逃げを!」
はっとしてナイトがこちらを見やり、ズールが目で合図した方向に気付いてぱっと駆け出した。そちらは<鎧>本体への入り口だった。
それは部屋の中央部、床にぽかりと開いた四角く細長い穴であった。中には階段が作られており、下りてゆけるようになっている。そこは「儀式」のため、先刻からすでに開いていたのだ。
「ちっ……!」
それに気付いて、男もすぐにナイトを追いかけた。だが幸い、ナイトが一瞬早かった。王が<鎧>に飛び込むとすぐ、その扉は瞬時に閉じた。
扉の外に取り残され、怒りに目を燃え立たせた男は、くるりとズールに向き直り、すぐさま白刃を抜き放った。
「死にたくなければ呼び戻せ」
切っ先を喉元にぴたりと当てられて、しかし、ズールは返事をしなかった。
「貴様……」
男は明らかに少し苛立っていた。が、一瞬押し黙ったかと思うと、次にはもう口角を上げ、不敵な笑みを浮かべていた。
「なあ、ご老人。そなたもどうやら、この<鎧>にその半生を振り回されて来た御仁やに見受けるが。どうだ?」
ズールは、目の前の白刃と男の顔とを見つめて黙っている。男の空洞のような黒い瞳は、ひたと老人を見据えていた。
低い声でまた男が言った。
「……知りたくはないか? <鎧>の秘密を」
「…………」
「そのために、貴殿の主殿が必要なのだと言っても?」
なおも黙っているズールを冷ややかな視線で射抜きながら、男は更に言い募った。
「憎くはないか? この<鎧>が」
老人は戸惑って、男の顔を見返した。
考えてみたこともなかったのだ。老人の目にその感情を見て取ったのか、男はふんと鼻を鳴らした。眉間の皺が深くなった。
「俺は憎い。……だから、壊す」
ぎりぎりっと、その奥歯が鳴ったようだった。
「<鎧>も……この国も。……なにもかも、な」
それは、独白のように虚ろな声だった。
ズールはあまりの言葉に声もなく、呆然と男を見つめるばかりだった。
男の目に宿っていたのは、明らかな、そして暗い怨恨の炎に見えた。
ふと見れば、彼の背後のその<門>は、先ほどよりも随分と小さくなったようだった。男もそれをちらっと見やり、再びズールを氷のような目で睨みつけた。
「俺が、勝手に触っていいのか? 生憎と<白>の使い方まではよく知らん。王の玉体がどうなっても知らぬぞ?」
すうっと細められたその黒い瞳には、紛うかたなき殺意の焔が揺らめいていた。
だがそれでも、ズールは何も言わなかった。もちろん、死は覚悟していた。
「…………」
男は少し沈黙したのみで刀を引くと、素早くマントを翻した。そして<鎧>の操作をする<言霊の壁>に近寄り、いじり始めた。
「あ! そ、それは……!」
無茶な操作をしてしまえば、男の言ったとおり、何が起こるかは誰にも分からない。前任の宰相からも、伝えられた方法以外では決して操作するなと厳しく申し渡されていた。
ズールは慌てて、男を止めるべくその体に取りすがろうとした。しかし呆気なく腹にきつい蹴りを叩き込まれ、部屋の隅まで吹っ飛ばされただけだった。
あまりの痛みに息もできず、床で呻いて転げまわっているうちに、男は<言霊の壁>の一連の操作を終えてしまったようだった。
……しかし。
<白き鎧>の扉は、ぴくりとも動かなかった。
刻一刻と時間ばかりが過ぎてゆく。
男は振り向き、自分の出てきた<門>を見つめて歯軋りをした。
「ここまでか……!」
言うが早いか、来た時同様、男はまた風のようにその<門>へと身を躍らせた。あっというまに姿を消す。その後、数度の瞬きの間に、その黒い<門>さえもなにごともなかったかのように消えうせた。
ズールは痛む腹をおさえながら、ようようのことで起き上がり、這うようにして<言霊の壁>にたどりついて、その操作に取り掛かった。
「陛下! 陛下……! どうか、ご無事で――!」
だが、老人の祈りは届かなかった。
漸くその扉が開いたとき、王はもはや、この世の人ではなくなっていた。
「儀式」の終了後、扉が開く時、そこはそのまま石で出来た寝台の形でせり上がってくる仕組みになっている。王はその上に横たわり、静かなお顔で目を閉じておられた。
お体のどこにも傷らしいものは見当たらなかったが、その心の臓は拍動をやめ、呼吸もしてはおられなかった。
ズールの驚愕と、悲嘆と、絶望のほどは、いかばかりだったことか。
老人は痩せた薄い胸を打ち叩き、しばし後悔の涙に暮れた。
しかし、いつまでもそうしてはいられなかった。「儀式」は、必ず行なわれねばならぬ。王が崩御されてしまった以上、このままでは「儀式」は完遂されない。
今から王の後継者たる王弟殿下をお迎えに上がるとしても、あまりにも日数が掛かりすぎる。いやそれ以前に、まだ先日、やっとものをおっしゃり始められたばかりの幼いヨシュア殿下には、体力的にも精神的にもとてものこと、この「儀式」は耐えられまい。
(どう、するのじゃ……!)
髪を掻き毟って、ズールは考えた。
……そして。
あの禍々しい決定を下してしまったのだ。
先代の宰相から伝えられた、秘中の秘。
もしも「儀式」の最中に思わぬ事態が発生した時、その時のみに使えと言われた、<鎧>の機能を使うこと。
そのためには王の体のごく一部、たとえば髪とか、爪とかいったものがほんの少しだけあればいい。それを使えば、どこか見知らぬ世界から「王とほぼ同じ者」を呼び寄せることができるのだ。
そして、どういう仕組みでかは分からぬが、その者の心の中に、元の王としての人格すら、移しこむことができるというのだ……!
それはまさに、この地の民としては「魔道」とでも呼ぶほかはない、想像の域を遥かに越えた、恐るべき機能であった。
……そうして。
ズールは遂に、もう息をなさることもなくなった王のお髪を、少しばかり頂いたのだった──。
◇
「そこから先のことは、お主もある程度は存じていよう。儂は陛下のお髪を用いて<白き鎧>の機能を使い、かの<産道>を開いて、いまの『陛下』を呼び寄せた……」
肩を落として項垂れたまま、ズールはそう言って言葉を切った。
佐竹はずっと険しい顔をしたまま、老人の話を聞いていた。
「まさか、思いもよらなんだがのう。こうしてそなたまでが、こちらへやって来ようなどとは……」
老人は一息ついて、また水を一口すすった。
少し間をおいて、佐竹が再び口を開いた。
「いくつか、疑問点があります。お答え願えますでしょうか」
「なんなりと聞け。もはや一毫たりとも、秘するには及ばぬわ……」
全てを諦めたような口調だった。佐竹は居住まいを正して、改めて老人に訊ねた。
「<鎧>の機能としては、今のところその<産道>を開くことと、人の記憶を植え替えること、それに伴う『薬湯』の製造、それに、向こうの人間を捕獲する機能や、向こうの世界を観察するための機能があるようですが。その他に思い当たることはありませんでしょうか」
<産道>というのは要するに、異空間移動装置に類するものと考えられる。また人の記憶を操作することは、脳科学の分野の技術であろうか。「薬湯」についてはまだ謎が多いが、恐らくはそこに付随する技術なのだろう。
さらに言えば、あの<黒い腕>は標的を捕獲するための機能であろうし、<巨大な眼>は向こうの様子を観察するための、つまりはカメラのような機能だといえるだろう。
いずれにしても、どれもこの国の今の技術レベルからは程遠い。格段に高い科学技術がなくては実現しえないものなのは明白だった。
(しかし……)
それらは、一体なんのための機能なのだろうか。
あの<鎧>を作り出し、そこにこれらの機能を付与した何者かは、一体なんの目的があってこうした技術を使えるようにしたものか。
そこがどうにも、佐竹の腑に落ちないところである。
ズールが考え考え、ゆっくりと言った。
「そうじゃのう……。おお、例えば、何故かは知らぬが、<鎧>は人の心の声を聴くことができるわの」
「…………」
佐竹は目を上げて老人の顔を見た。
(……そうか)
そういえば、そうだった。内藤は以前、このズールに心の声を聞かれたと言っていたはずだ。また、あちらとこちらの言語が違うことを考えると、ある程度、その両者を中継するために、自動的な言語翻訳機能とでもいうべきものが付随しているとも考えられる。
「なぜ、かの<鎧>にそのような機能があるのか。それは分からぬ。あれはこの国が始まって以来、いや、恐らくはその前から、ずっとそうであり続けてきた。もしもあれを作った『神なる者』とでも呼ぶべき者らがいるのだとしても、今の我らがそれを知りうるはずもない……」
そう言って肩を落とすと、老人は項垂れて、もはやひと言もものを言わなくなってしまった。
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