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第六章 暗転
1 氷壺の剣
しおりを挟む翌朝、未明。
とは言え、太陽がほとんど地平線の上に顔を見せなくなってきた昨今のことだ。今が夜なのか朝なのかを見極めるのは、かなり難しくなっている。
ともあれ佐竹は城の起床時刻よりは相当早くに起きだして、練兵場でいつものように朝稽古をした。片隅に灯火をひとつ持ち込んだだけで、あとはこの独特の空そのものの明るさを頼りに、一連の型を組み合わせて木剣を振りぬいてゆく。
空気はそろそろ肌を刺すような厳しさを滲ませ始めているが、動いているうちに、それらはいつしか意識の外に締め出されてゆく。
ひと通りの稽古が終わって、佐竹は昨日ケヴィンが届けてくれたあの刀を鞘から抜き放った。誰もいない時間帯でなければ、さすがにこれを振るのは躊躇われたのだ。
今度は、その刀で再び型の稽古をする。
氷のような刃が幽き音とともに空を切り裂き、手許で極細の絹糸よりも薄い真空を作り出すのが分かった。
ひと振りごとに、そこに氷の霧が飛び散るかのような冷気を感じる剣である。
佐竹は一度剣を鞘に戻し、試し斬り用に縄で縛られた藁束を木の杭に括りつけて設置した。そして再び剣を抜いて向き直った。
腰を落とし、藁束に向かって正眼に構え、しばし呼吸を整える。
少しの間、そのままの姿で静まりかえる。
次の瞬間。
佐竹は徐にふっと腰を浮かし、袈裟に刃を一閃させた。
しばらくは、何事も起こらなかった。
……やがて。
藁束につつっと斜めの亀裂が入り、するりと上部が滑ったと見る間に、地面にぱたりと落ちていた。
(師匠……!)
佐竹は目を見張った。
「見事だ」と思った。
佐竹はぱちりと剣を鞘に戻すと、昨日同様、剣に向かって礼をした。
そのまま地面に片膝をつき、静かにその剣を見つめてみる。
あのロトという刀匠は、自分にこの剣の命名という類なき栄誉を与えてくれた。
自分は、これを一度振ってみてからそれを考えようと決めていたのだ。
佐竹は少し目を閉じた。
『氷壺の心』という言葉がある。
「氷壺」とは、字義どおりには氷を入れた玉製の壺のことだ。だがその「心」とは、すなわち清廉潔白、穢れなき心の意である。
あの時ゾディアスは自分をして、半ば以上皮肉をこめて「綺麗過ぎる」と評した。
「綺麗」であっても構わぬが、同時に相手の「穢れ」も呑みこめるようでなくては、とてものこと今後の戦いでは生き残れぬ。まさにこの練兵場で行なった「真剣勝負」において、彼は暗に自分にそう教えたのだ。
清廉であろうとするが故のこの余裕のなさを、彼が心配してくれているのも分かっている。面と向かって礼を言うことは、もうないだろうとは思うのだが。
王者には、清濁併呑の器量が必須であろう。自分が目指すものは決して「王者」ではないけれども、もし最終的に自分がその「王者」と闘わねばならぬのだとすれば――。
(だが……それでも)
佐竹は静かに目を開いた。
捧げ持ったひと振りの剣をじっと見つめる。
――『氷壺の剣』。
この志を忘れぬために、敢えて自分はこの剣をこう呼ぼう。
この先、内藤を救い出すため、どこかで身を堕とし、穢れねばならない局面が来るのだとしても。
佐竹はすっと立ち上がると、練兵場に向けて一礼し、静かにその場を後にした。
空には巨大な「兄星」がその身を晒し、弧を描いて夜空を切り取っていた。
◇
フロイタール王国の長い長い冬は、一日のうちに一度も太陽を見ることのできない、闇に閉ざされた憂鬱な季節である。人々は短い夏の間に収穫できた穀物や蓄えていた干し肉そのほかで細々と日々を暮らしながら、また巡ってくるあたたかな春を待つ。
古ぼけた安宿の一室で、マールはまんじりともせずに暗い朝を迎えていた。
昨夜はあのまま自分の部屋に飛び込んで、食事もしないで寝台に潜り込んでしまった。もちろん、眠るためではない。宿の寝台の敷布は、マールの涙でぐしょぐしょだった。
泣きすぎて頭ががんがんする。目の周りも、まだぼんわりと熱っぽかった。
マールはいま、自分がどんなに酷い顔をしているかを考えるのも嫌だった。
きっと、これまでの人生でも最大級の、いや最低級の「不細工なマール」が出現しているに違いなかった。
もうそろそろ出立の時間だろう。ケヴィンが起こしに来る頃合だ。マールのためにまるまるひと部屋を空けて、男三人は隣の狭い一部屋にぎゅうぎゅうの雑魚寝になっている。
マールは最低限の身づくろいをしようと、のろのろと寝台から起き上がった。
と、遠慮がちに薄い扉が叩かれる音がした。まるでそれを見計らったかのようだった。
「マール……? おはよう。起きてっか……?」
ケヴィンの声だった。マールの返事を少し待ったようだったが、ケヴィンは続けてこう言った。
「あ~……その。いやだったら断ってやるけどさ――」
(……?)
その奇妙な台詞に、マールはふと顔を上げた。
ケヴィンは、何を言っているのだろう?
「その……よ。来てるんだよね……」
ケヴィンの声は、ものすごく言いにくそうに聞こえた。きっと扉の前で申し訳なさそうに、また頭を掻いているに違いない。
「……え? なに?」
思わず聞き返した自分の声は、案の定、ひどい掠れようだった。
「なに言ってるのよ、ケヴィン?」
ケヴィンが答えるまで、またちょっと間があった。
「……だから、さ。あいつ。……来てるんだ。宿の前に」
(……!)
瞬間、マールは寝台の上で飛び上がった。
(まさか──)
そのままそこで棒立ちになり、顔を覆って、どこを見るでもなしにきょろきょろしてしまう。
(ま、まさかっ……!)
マールは恐る恐る、扉の方に目を向ける。
「サ……サタケ? サタケが、来てるの……?」
「う、うん……。どうする?」
ケヴィンの声はもうそのまま、「ほとほと困った」としか聞こえない。
「えっと……、えっと、ちょっと待って……!」
どうしたらいいのか、すぐに考えがまとまらない。マールは両手をばたつかせて、寝台の上でぐるぐる歩き回った。安物の寝台はマールの足の下でぎしぎしと不満を言い立てた。
こんな顔じゃ、会えない。
こんな、人生最大級に不細工な顔で、会えるわけない。
そんな女の子の都合も、なんにも分かってくれないんだから!
やっぱりサタケって、鈍すぎる……!
「ほんとに……ほんとにっ……」
(大っ嫌い――!!)
思わず、安物の枕を壁に投げつける。
少女の完全な八つ当たりをその身に受けた気の毒な枕は、壁に当たってあっけなくべしゃりと潰れ、ぼてっと床に落っこちた。
物音を聞いて、ケヴィンが扉の向こうで慌てたような声を出した。
「しーっ! あいつら、まだ寝てるんだからよ……!」
どうやら、オルクとガンツはまだ起きていないらしい。
(……でも)
今を逃したら、次に会えるのは一体いつになるのか。
会いたいか、会いたくないかで言ったら、答えなんて決まっているのに。
「ど、どうしよう……」
顔だけでなく、頭の中までぐちゃぐちゃになる。
思わず、髪の毛までさらにくしゃくしゃにしてしまう。
「えーっと……。マール?」
ケヴィンの声が、また恐る恐るといった風情で聞こえてきた。
「困ってんなら、協力するぜ?」
「……!」
くるっとマールは振り向いた。
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