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第四章 王都
8 心の襞(ひだ)
しおりを挟む「兄上、お願いがあるのですが!」
その日の朝、ナイトは弟から勢い込んで相談を持ちかけられ、困ったような笑顔を浮かべていた。朝食の席である。
王族だけが使う食事の間は、それでも豪奢な装飾などはほとんどない。どこも落ち着いた雰囲気の調度でまとめられている。広い長テーブルが部屋の中央に据えられて、季節の花が生けられた小ぶりな花瓶と燭台が、三台ずつ置かれていた。
周囲では配膳担当の召使いや侍従、女官などが、皿を上げ下げしたり水差しを運んだりして忙しげに立ち働いている。
「『書庫の間』に最近入ったというその若い武官に、ぜひ一度会ってみたいのです。なぜ武官がそんな所で働いているのかも興味がありますが、書庫管理部門のヨルムスがその者の能力を、それはもう絶賛しておりましたもので――」
「え、ええっと……。そうだなあ……」
ナイトはスープを掬いかけた匙を持つ手を止めたまま、相変わらず中途半端な笑みを浮かべていた。
年の離れたこの弟の期待の篭もったきらきらする茶色の瞳を見ていると、この王はどうしてもその希望を叶えてやりたくなってしまう。それほど、ナイトはこの弟を可愛がっていた。
家臣一同が言うには、この弟は王である自分と非常によく似た容姿をしているらしい。まだまだ公務を担当させるには若すぎるが、文武両道に優れた資質をもつ、なかなかに聡明な少年である。さらに、気質は至って穏やかで優しいものだ。頭痛もちで何かと言えばしょっちゅう倒れる自分を、この弟は常に気遣ってくれてもいた。
(しかし……)
あの不思議な青年サタケが書庫の文物の整理を始めて、今日で二週間ほどになる。
だが報告によれば、若い文官らの能力的な問題があまりに大きく、作業は思うようには捗っていないやに聞いていた。
あの毅然とした聡明な若者は、さぞかし苛立っているのではないかと思われる。彼の本来の仕事は書庫の整理などではないのだ。こんなことはさっさと終わらせて、彼は彼の勉強なり仕事なりに一日も早く戻りたいところであろうに。
それを今は、あのあまりにも混沌とした状況を一新するため、やむなく書庫へ籠って連日の作業に当たってくれている。……と、そういう経緯なのである。
そんなところへこの少年を連れて行って彼の作業の手を止めさせるのは、どうにもナイトは気が進まなかった。
ちなみに彼の職種については、そんなこんなでまだはっきりとしたことは決まっていない。彼のあの能力を持ってすれば、おそらくは文官としても武官としても、今すぐにでも結構な階級で召し抱えることは可能だと思われるのだが。
ただはっきり言えるのは、少なくともあの素晴らしい剣の腕を書庫に埋もれさせたままにするつもりは、ナイト自身にもまったくないということだった。まあこれも、「本人の希望がない限りは」という但し書きつきではあるが。
大体、そんな命令を出した途端、今度はあの巨漢ゾディアスが恐ろしい勢いでここへ「反対意見」をねじ込んでくることは間違いなかった。
あまり顔には出さないが、あの男も相当あの青年に入れ込んでいるように見受けられる。彼がサタケを自分の手元に置きたがっていることは、誰に言われなくとも明らかだった。
実のところ、当のゾディアスも、本来ならばとうの昔にもっと上の万騎長や、更には竜騎長になっていてもおかしくない働きをしてきた男である。が、彼はどうにもそういった「高い階級」と、それに伴う「堅苦しい儀礼や作法」にとことん興味がないらしかった。ともかく戦では常に前線にいたい性質で、ナイトが何度昇進の話を持ちかけても面倒くさそうに断るばかりなのだ。
実はナイトも、何度か強引に彼を昇進させようとしてみたこともあった。だがその都度、ゾディアスはなにがしかの中途半端な失態を犯すのだった。そしてそれが、もはや確信犯といえるほどに「昇進させるには問題があり」、それでいて「降格させるほどのものではない」失態なのだった。
あんな見てくれのわりに、ゾディアスはそのあたりの妙なバランス感覚だけは小憎らしいほどに長けているのだった。
そんな事が何度か続いて、遂にナイトは、彼を昇進させることを諦めたのである。
(……それを、あのサタケは)
そんな風にあまり階級だの部下だのに変な拘りを持たないゾディアスをして、あのサタケは、自分に本気で拘らせてしまっている。
いつも大して表情の変わらない、あの無口で強面の青年が、どうしてああも人の心を惹きつけてしまうのだろう。
(……だが)
彼のそうした魅力を認めてはいながらも、ナイト自身は彼に近づくことをどこかで恐れていた。
実のところ、ヨルムスからサタケを書庫管理部門へ引き抜きたいとの要望があって以来、自分もサタケには会っていない。
こちらも決して暇ではないが、「向こうもさぞかし多忙なことだろう」と敢えて遠慮をしていたというのは本当だ。そして、彼の顔を見たいという気持ちがなかったわけでもないのだが。
(だが……なにか……)
ナイトの胸のうちには、誰にもうまく説明の出来ない、謎めいた引っかかりが存在している。あのサタケに会いたい気持ちと会いたくない気持ちとが、常に相反してせめぎあっているような。そんな不思議な感覚が拭い去れないのだ。
このことはもちろん、誰にも話したことはない。
サタケと初めて会った、あの時。
あの武術会の、広場の脇で――
あの、なんとも知れない不快な気分が、どうしても忘れられない。
そして、あの瞬間に湧き起こった、心の襞を掻き毟られるような痛み。あれをいまだに説明することもできずにいる。
(あれは、一体なんだったのか――)
そしてまた、自分はあの謎の頭痛とともに意識を失った。
以来、自分は心の底で、あのサタケに会うことに説明のつかない抵抗を覚えている。
その正体がなんであるのか、まったく判断のつかないままに――。
「兄上……?」
弟の声が耳に届いて、ナイトは我に返った。
目を上げると、弟が心配そうにこちらを窺っていた。
「あの、またお加減でも……?」
「あ、ああ……いやいや」
自分を案じてくれている弟の不安げな顔を見て、ナイトはすぐに首を横に振って見せた。そして、先ほど来から弟に頼まれていた件に話を戻した。
「書庫の見学の件だったね。一度、向こうに訊ねてみよう。作業の邪魔にならない時間を選んだほうがいいだろうしね?」
とうとうそう言った兄を見て、弟は途端、ぱっと顔を輝かせた。
「はい! 有難うございます、兄上!」
書物を読むことが好きな弟は、書庫の管理長であるヨルムスとも何かと言葉を交わすことが多い。その流れで、サタケのことも早いうちから耳には入っていたようだった。
「しかし……ヨシュア?」
「はい?」
きょとんと目を上げた弟を見て、ナイトはまた静かに微笑んだ。
「あまり、無理を申してはならないぞ。向こうは飽くまでも、仕事としてそこにおられるのだからね」
「はい、もちろんです。兄上」
にっこり笑って素直に頷く弟を、兄王ナイトはまた、優しく微笑んで見返した。
◇
その日の午後。
書庫管理部門は畏れ多くもこの国の「王弟殿下」の訪問を受けた。文官一同はヨルムスはじめ、一様に緊張を隠せない様子だった。みな殿下の姿が見えるより随分前から入り口付近に整列し、殿下をお迎え申し上げる体勢を整えて待ち構えていた。
ただ一人、佐竹だけは「なんでこの忙しい中、貴重な時間を割いて王族なんぞの相手をしなくてはならないのか」と言わんばかりの剣吞な顔で、書庫の奥で作業をしていた。そして、いざその少年がやってきた時にも、遠くからその姿をちらりと眺めやっただけだった。
……しかし。
(……!?)
その少年の姿を見た途端、佐竹の視線は凍りついた。
(まさか……)
佐竹は絶句して、まじまじとその少年の姿を見つめた。
(……洋介――?)
そう見えたのも、無理はなかった。
そのヨシュアという名の王の弟君は、あの内藤の弟、洋介に瓜二つだったのだ。
もちろん明らかに年齢は違う。向こうの世界の洋介は七歳だったが、目の前にいるこの少年はどう見ても中学生ぐらいには見えた。見たところ十三、四歳といったところだろうか。丁度、あの洋介があそこから六、七年ほど成長すればこのぐらいになるだろうという、まさにそういう姿だった。
その「成長した洋介」が、王族の着る少し凝った刺繍つきの長衣に白いマントを羽織って、いかにも王族然とした優雅な物腰でにこやかに笑っていた。
見るからに聡明かつ優しそうなその瞳で、少年は書庫の皆にひと通り挨拶をすると、ぐるりと書庫の中を見渡した。
佐竹の姿を認めると、ぱっとその目が輝いた。そして、まさに「喜びいさんで」といった様子そのままに、まっすぐにこちらへやってきた。
「そなたがサタケか? 書庫の作業、まことに精が出るな。礼を言うぞ」
にこにこと話しかけられ、佐竹は少し戸惑ったが、脚立に腰を掛けて書類を手に持ったまま、仕方なくひとつ礼をした。
「……恐れ入ります」
ヨシュアの隣にいた彼付きの侍従の男が、それを見て「無礼な」とばかりに不快げにしわぶきをしたが、佐竹は例によってそんなものはまったく無視した。
ヨシュアの方でもそんなことは少しも気にならない様子で、ただもうきらきらした瞳で佐竹に話しかけてきた。
「そなた、書庫の管理に大変詳しいと聞いたが。どこでそのような知識を身につけてきたのだ? 初めは文字を読むこともできなかったというのは本当なのか? 珍しい髪色だが、どこの出身なのだい? ああ、あと、剣の腕も素晴らしいというのは本当なのかな――?」
聞きたいことがあまりにも沢山あって、質問が矢継ぎばやになりすぎている。佐竹がもはや、どれから答えればよいかの判断に迷うほどだった。
少年の瞳はまっすぐで、噓がなく、優しい光を湛えていた。
それはそのまま、向こうの世界の小さな少年を思い出させた。
佐竹はすぐに脚立から下り、改めて彼に向き直ると、丁寧に礼をし直した。
「申し訳ありませんが、殿下。ご質問が多すぎます。できましたら一つずつ、お訊ねいただきたいのですが」
すでに佐竹の声は、随分と穏やかなものに変わっている。顔を上げれば、洋介とそっくりの茶色の瞳が嬉しそうに揺れているのと目が合った。
ヨシュア殿下は佐竹の胸のあたりからこちらを見上げ、やっぱりひどく嬉しそうに、ただもうにこにこ笑っていた。
「…………」
その笑顔を見ながら、佐竹の胸に、言い知れない何かがこみ上げた。
あの洋介は、どうなのだろうか。
(今のこの殿下のように、笑って過ごしてくれていようか――?)
佐竹の瞳に、仄かな色がふと過った。
だがその場の誰も、それに気づくことは終になかった。
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