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第四章 王都
5 書庫
しおりを挟むその後、ひと通り身の回りの整理をし、佐竹は身支度を整えた。
寝台の上に支給されていた下級兵士用の制服である。上着と下穿き、革ベルト。さらにやや短めの革製の長靴という姿である。
着替えが済むとナイトの命令どおり、そのまま早速、王の執務室に向かった。
フロイタール王宮は全体が頑丈な石造りとなっており、中央の尖塔はそばで見ると恐ろしいような高さだった。今はさほど寒冷な気候ではないようだったが、それぞれの窓には鎧戸が作りつけてあるのが見える。
王宮入り口に向かうと、佐竹はそこに立っている警備兵ら二人から槍を突きつけられ、厳しく誰何された。金属鎧を着たものものしい出で立ちの男たちである。佐竹は兵士の礼をしてから簡潔に答えた。
「従士のサタケと申します。陛下から、執務室に来るようにとのご命令で参りました」
警備兵たちは例によってじろりとまた佐竹の珍しい髪色を眺めやったが、一人が「そこで待て」と言い、一旦王宮の中へ入っていった。やがてすぐにまた戻って来ると、そのまま「ついて来い」と促した。
男について王宮内の廊下を歩きながら、佐竹は目立たぬ程度に周囲を観察していた。
廊下の床は、磨き上げられた石板が敷き詰めてあるらしい。長靴で歩くと、軽やかにかつかつと音が響いた。通路のあちこちと扉の前には、入り口同様に鎧姿の警備兵が体の脇に槍を携えた姿勢で立っている。
全体的に、建物内部の装飾もさほど美々しく凝ったものではなく、むしろごく簡素だった。
手入れは行き届いて清潔ではあるものの、壁も床も飽くまで「みすぼらしく見えさえしなければいい」という程度の手の入れ方である。それはなんとなく、この国の王の飾らない気質を彷彿とさせるようだった。
廊下を行くうち、様々の階級であるらしい文官や武官たちがそれぞれ忙しげに歩いてゆくのと何度もすれ違った。武官は階級が上がるにつれて鎧や制服の上にマントを羽織るらしい。一方の文官たちは、着ている長衣の色によって身分が区別されるようだった。
彼らも一様に、佐竹に気付くとその容姿をじろじろと眺めやる風だった。だがさすがに「そやつは何者ぞ」というような咎めだてまではされなかった。
数知れない扉と曲がり角を過ぎたところで、案内役の警備兵が交代した。そのまま次の男について、佐竹は王宮の奥へと進んだ。結局、そんな事が三度、繰り返された。
そして漸く、他より少し装飾の多い大き目の扉の前に到着し、案内役の警備兵が扉の前にいた衛兵に伝達して、佐竹は中へ通された。
大き目の執務机の前に座って、ナイト王は山ほどの書類に埋もれるようにして仕事中だった。部屋にはほかに秘書官や補佐官とおぼしき文官らが三人いて、なにやら書類に書き込んだり、それを移動したりしているようだった。
書類といっても、例のパピルスあるいは羊皮紙のようなこの世界の記録媒体のことである。嵩張る上に形状も不揃いで、紐で綴じ付けられているものや巻紙の形をしているものなど各種様々だった。
そのためそれらは机の上に積み重なり、層をなして、今にも雪崩を起こしそうに見えた。
佐竹の目には、それはいかにも非効率的に見えた。
「ああ、ちょっと待ってくれ」
言ってナイトは手にしていた羊皮紙に王の印章らしきものをぽんと捺すと、それを傍らに居た文官の男に渡した。それでやっとのこと、立ち上がってこちらへやってきた。今日はどうやらあのサイラスは不在のようだった。
ナイト王は長旅から帰ってきたばかりだというのに、さほど休む間もなくこうして公務をこなしているらしい。彼の顔は少し青白く、疲れているように見えた。
佐竹は密かに腹の底で湧き起こってくる苛立ちを自覚した。が、敢えてそのことを考えないようにした。いま自分がそれを不快に思ったところで、何をどうできるわけでもないのだ。
「座ってくれ」
「いえ、自分はここで」
執務机の手前にある来客用のソファらしき長椅子を勧められたが、佐竹は即座に固辞した。
「……そうかい?」
王が、ちょっと困ったような顔で立ち尽くす。
佐竹は一礼して言った。
「陛下はどうぞ、お掛け下さい。お顔の色が優れません」
「え……。そ、そうかな……?」
意外そうな顔で見つめ返されて、佐竹はまた少し自分が苛立つのを自覚した。
(いいからさっさと座れ、この馬鹿が)
腹の底ではそれぐらいの気持ちになっている。
ナイトは困ったような顔のままちょっと逡巡したようだったが、やがて素直にそこに座った。そうして、すぐに話を切り出した。
「話というのは、他でもないんだ。……今後の、そなたの希望を聞きたい」
「と、おっしゃいますと」
佐竹はまた、即座に訊き返した。あまりこうして、体調の良くないナイトの手を長々と煩わせたくはなかった。
ナイトは少し微笑んだ。やはり優しい笑顔である。
「要は、今後の仕事の種類とか、そのためにこれから学びたい分野とか、そういったことだよ。何か希望があるなら、先に聞いておこうかと思ってね」
(これは、また――)
佐竹は感心するを通り越して、もはや呆れた。
一介の兵卒ごときのそんな希望を、この多忙な一国の王がわざわざ聞いてくれようというのだ。しかも、こんな体調であるときに。
佐竹のそんな心中にはまったく気付かぬ風で、王は言葉を続けている。
「何か、得意な分野があるかな? 一応、武術会から来てもらったので武官の扱いにはしているが、そなたの希望と能力次第では、文官の道でも構わぬぞ?」
要するに、彼としては飽くまでも、本人の能力に最も添う形で召し抱えたいということらしい。
佐竹は少し考えていたが、やがて静かに切り出した。
「では、お言葉に甘えさせて頂いてもよろしいでしょうか」
ナイトはまた、ふわりと笑った。
「ああ、私にできることならね」
「では――」
佐竹は少し言葉を切ったが、あとは一気にこう言った。
「まずは、文字の読み書きの指南者をご紹介いただきたいのですが。その上で、この国とノエリオールの地理、歴史、地誌、文化、そして暦法、天文そのほか自然科学一般を、とりあえずは体系的に、全般的に学びたいと思います。更に可能でしたら、戦史、用兵、法律、財務、政務等々の個別の分野についても、学ぶ機会があればなお助かります」
立て板に水とはこのことだった。
ナイトは明らかにしばらく絶句していた。その顔は、目が点になった人そのものだった。彼が次の言葉を発するまでに、相当な時間を要した。
と、あることに気がついたのか、愕然としたようにナイトが言った。
「い……いや、ちょっと待ってくれ……?」
「はい」
「そなた、今……『読み書きの指南者を』と言わなかったか? まさかそなた、読み書きができないと……??」
「とても信じられぬ」という目だ。佐竹はあっさりと首肯した。
「はい。なにしろ辺境の田舎育ちなもので」
一礼し、しれっとした顔でそう答える。
「まことに、お恥ずかしき限りです」
この際「力技」だろうがなんだろうが、全てそれで押し通すつもりだった。
「えーと、その……。失礼ながら、とてもそうは見えないのだが……?」
もはや開いた口が塞がらぬといった体で、呆然とナイトがそう言った。
いつまでもその国王の驚愕に付き合っているのも時間の無駄に思われたので、佐竹は話題を次に移した。
「もし陛下にご承諾いただけるのでしたら、この王宮の書庫を使わせていただきたく存じます。基本的な読み書きさえ習得できましたら、あとは他の方のお手を煩わせるまでもありません。自分でどうとでも致しますので」
「あ、ああ……。それは、勿論構わぬが――」
そう言った後もしばらく、ナイトは呆けたようになり、目をぱちくりさせていた。
「いや、しかし……。驚いたな」
そして、まだ驚き冷めやらぬ風に、ぽりぽりと頭を掻いた。
◇
そこからは、佐竹の猛勉強が始まった。
まずは予定通り、文字の読み書きを指南する文官から指導を受けた。しかし、ものの半日、基本的な部分を聞いただけで、あとは辞書を引きつつ一人でひたすらに書庫に籠って日々を過ごした。
朝、兵舎から出て真っ直ぐ書庫に向かい、そのまま深夜に至るまでそこにいる。食事をするのも完全に忘れていることがあるので、彼の面倒を見るようにいいつかっている召使いの男は相当に閉口していた。
書庫の管理を預る文官たちは、佐竹の髪色のこともあって最初はかなり怪訝な顔をして遠巻きに眺めていた。だが、やがて数日を経ぬうちに、その凄まじいまでの学習能力に舌を巻き始めた。
なにしろ始まって三日後には、彼が自分たちにする質問の意味すらよく分からなくなってしまったからだ。
「陛下! あの者はいったい何者ですか――!?」
執務室に駆け込んできた書庫管理の文官長は、驚嘆した様子を隠そうともせずにナイトにそう訊ねた。もうほとんど白髪になりかけた薄青い髪をうしろで三つ編みにして束ねた品のよい男で、名をヨルムスという。
「いや、『何者』と言われても……」
まさかここで「田舎者」と答えるわけにもいかず、ナイトも執務机の向こうでただ苦笑するしかなかった。
「何か、不都合でもあったか? ヨルムス」
そう訊ねられて、男は少し戸惑いながらも、陛下に事の顛末を報告し始めた。
「あの者が、なにやら書庫の『分類がなってない』と申し始めまして、その……。勝手に書庫の中を整理し始めてしまったのですが――」
「……は?」
再び、ナイトの開いた口が塞がらなくなる。
(何をやってるんだ? あの男――)
そもそも「書庫の整理」など、彼の学習の範疇に入るのだろうか。
「なんでも、『ジッシンブンルイホウ』がどうとか、『書誌』と『目録』がどうだとかとぶつぶつ言いながら、書庫の書物をあれこれ移動し、書物と書棚の両方に、なにやら記号を書いた小さな羊皮紙を貼り付けるなどし始めまして――」
「…………」
「我々、書庫管理担当の文官一同、『その書物はそこへ置け』『その書物はあの書物群の近くに移動させよ』と……いまや、あやつにその仕事でこき使われているような有様でございまして――」
「…………」
ナイトはもう何を言うこともできずに、ただ呆然とヨルムスの顔を眺めていたが。
「くっ……、あっははは……」
やがて、遂にこみ上げる笑いを堪えきれなくなってしまった。
そのまま涙を流し、腹を抱えて、ナイトはしばし椅子の上で身を捩って笑い続けた。そして、やっと涙を拭いながらこう言った。
「そ、それは……済まなかったな、ヨルムス。書庫の皆には迷惑を――」
「いえ!」
男は即座に否定した。
「とんでもないことでございます、陛下! そ、そんなことよりも――!!」
そしてそのまま、勢い込んでナイトに詰め寄った。
「どうかあの者、我が書庫管理部門にくださりませぬか――!!」
初老の男の絶叫が、王の執務室に谺した。
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