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蔵の中、橋の下、芥川
しおりを挟む蔵の中、橋の下、芥川
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György Ligeti - Ten pieces for wind quintet (1968)
銭にもならないのによくそんなに砥石で研ぐね、だと。
知りたいか?よかろう。話してやろう。
冗談だろうと笑わば笑え。
そのまま嘲りながら、下品に腹を押さえて笑い転げるがいい。
だが本当のことなんだ。
いまじゃこんな山中の田舎の橋の下で寝起きする身だが昔はこれでも
やんごとなき御方の警護をする武官だった_。
まだまだ笑うところじゃない。
今だって来るべき時のために武芸の腕前を磨いておる。
見たことないだと?当然だ、鍛錬は人知れずやるものだ。
拙者は・・いや・・昔は自分のことをそう呼んでいたんだ。
都からこの山の裏の御料地に御静養に来られる公家の方々を警護するのが拙者の仕事。
昼となく夜となく御料地の巡回を繰り返していた。
拙者が目を合わす相手と云えば、御料地内で働く者共、田畑で働く農民共。
夜な夜な山から現れる狐だの狸だのといった獣ども。
身分の上の公家の方々など滅多に目にするものじゃない。
だがな。
夏の日の蒸し暑い或る夜のことだった。
御屋敷の外れの水屋の辺りから音がしたので不審に思い足を忍ばせて向かった。
そこにいたのは射干玉の夜に浮かぶ月光に照らされたこの世のものとは思えぬほどの
白い柔肌、そして漆黒の黒髪。
行水している一糸まとわぬ女人が生垣の外から見えたのだ。
これほどの美しい女を見たのは生まれて初めてのことだった。
その美しさのあまり身動きできぬまま、拙者は生垣の外で佇んでいた。
そんなことが二度ほどあって。
拙者の頭の中はその美しきの女人のことでいっぱいだった。
寝ても覚めても。
狂おしいまでに。
あの女人を我がものにしたい。
しかしあのお方は身分の高いお方。
拙者ごときの下級武官では身分が相応しくない
それなら我が身分を上げるような手立てを考えるか_。
しかし如何に武芸の修練を積もうと、如何に武勲をあげようと追いつけるはずもなく。
武勇を重ねること即ち血肉に塗れること、女人が忌み嫌うのではないか。
昼となく夜となくそんな戯けた妄想に浸っていたが、己の欲望は夢うつつの世界に
とどまりおくことが出来なくなっていった。
怒張を自ら慰めることだけでは我慢が出来ない。
あの美しき女人の肌を思いながら、他の女人とまぐわいても駄目だった。
そして思い悩んだうえ、ひとつの結論に達した。
あの女人をこの御料地より拐かしてしまおう、と。
拙者は昼間より武器庫の弓矢やら刀剣の整理をはじめ幾つかの武器を用意した。
夜とて女人を連れて当然、追手がやってこよう。
いずれも手慣れた使い手。そして我が仲間たち。
だが裏切り者として拙者は追われるのであるから、これ以上ない最悪な追手たち。
そこで武器が使えなくなるように、古井戸に投げ込んだ。
逃げるには馬が要る。
いや女人は恐らく馬に乗ったことなどなく恐れるに違いない。
暴れる馬に振り落とされ、怪我でもされたら大事。
となれば、おぶって逃げるしかない。
ならばこの川沿いの芦原を逃げるのだ。
そこから峠の下を通れば山間の村に出る。
さすればその北側には地方豪族北斗一族の荘園が広がる。
そこに逃げ込めれば公家とて手出しはできまい。
夕方からしとしと・・と雨が降ってきた。
夜半、床についている女人の口を塞ぎ、おぶって逃げた。
女人も騒ぐことなくおとなしくおぶさってくれた。
さては女人も堅苦しい公家の暮らしに嫌気がさしていたのか。
それとも拙者を好いていたか。
霧雨の中、拙者は芦原を、そして足跡を消すために水辺を走った。
そしてまた芦原を走ってゆく。
雲の合間から覗いた月の光に芦の滴が光ったのを見て
女人は感嘆の言葉を吐いた。
「なんとうつくしい・・あれはなんじゃ」
おそらくはこのようなものを見たことのなかったのだろう。
拙者は追手のことで頭がいっぱいで、女人に返事もせずに只管に走った。
峠の手前まで登ってくると雲が厚くなり月明かりなど見えなくなった。
そして雨が本降りとなった。
そして雷鳴が遠くに聞こえた。
拙者は峠を谷に抜ける道を降りて行った。
この先には沖合の島から逃げてきた流民の村がある。
なんでも鬼の棲む島から命からがら逃げてきた人々だと聞いたことがある。
言葉も習慣も著しく違うためこの地に追われた人々だとも聞く。
だから・・なんだ。我らが行く手を阻むものではなかろう。
流民の村に入ると拙者は白塗りの土蔵を見つけた。
確かにこのあたりでは見たことの無いような八重雲を模した装飾を施したような蔵だ。
拙者は女人を肩から降ろし、蔵の中に入れた。
蔵の扉を閉め、その前に腰を下ろし武器を広げた。
弓矢に遣、刀。追手が来ることは解りきったこと。
この村を離れ北斗一族の荘園まで、あと少し。
夜が明ければ。雨があがれば。
あと少し。
だが油断は禁物_。
雨脚は強まり雷鳴が轟いた。
あぁれぇぇ・・
蔵の中から女人の声がする。
さては雷に驚いたか。
確かに地響きのするような大きな音を立てている。
その雷鳴の間に甲高い女人の悲鳴が聞こえる。
なにか不穏な気配を感じ取った拙者は蔵の扉を開いて暗闇の中に女人を探した。
雷鳴が轟き、稲光が蔵の中を一瞬照らした。
そのあまりの光景に拙者は息を飲んだ。
そして飲んだ息の生臭さに吐き気を催した。
拙者の足元に転がっているのは白いひとの腕_。
床や壁に広がっているのはどろりとした血_。
拙者の頭上から音を立てて落ちてきたのは肢_。
女人の露わとなった乳房が梁から吊り下げられているように逆さまに胴体が見えた_。
あまりの衝撃に瞼を閉じるのを忘れたほどだ。
ぱちん、ぱちんと動物の骨を折るような音が蔵に響いた。
そして滴る液体を垂らした生臭い息遣いを感じた。
ひとでないなにものかが、すぐ近くにいる。
息をひそめてこちらの動きを見ている。
けだものの類ではなく、あやかしの類でなく
もっと凶暴で、実態のあるもの。
狐のように狡猾で、熊のように強大な。
いやちがう。
もっと、もっと。ずっとずっと。
危険な、醜い、憎悪に満ちた・・この世ならざる・・存在。
この暗闇の奥には見てはいけないものがいる。
あぁすぐそばにいる。息遣いがすぐそばに感じる。
見てはいけないものであるから、見てはいけないのだ。
見てはいけないものであるならば、消え去ってくれ・・と思わず唾を飲み込んだ。
雨音が激しくなり、雷鳴の轟音と共に稲光が走った。
暗闇の奥まで突き刺すように・・。
麗しい女人の首がゴロリと床に転がり落ち
胴体に喰らいつく者の姿が目に入った。
大きな角が頭から突き出した巨大な白い鬼_。
その口元といい首回りと云い女人の血で塗れ、その肉をあさるさまはまさにけだもの。
眼光が暗闇の中で黄金の如く鈍く光りじっとこちらを見据えている。
拙者はことあろうか、その光景を見て腰を抜かしてしまった。
後づさりしながら蔵の表に出ると扉を閉めて閂をした。
刀をもって、扉に対峙して・・。
すると中から雷鳴を模したのか、太く低い雄叫びが響いた。
恐れ慄き刀を振り回すが、女人のあまりに無残な姿を思い出すと涙が出てきた。
涙がとめどなく溢れ出た。
気がつくと蔵の周りは囲まれていた。追手ではなかった。
この村の・・流民の村のものたちだった。
異国の言葉で語りかけられたが理解できなかった。
拙者は事の次第を話したが伝わる気配もなかった。
だが彼らはこの中になにがいるのか・・知っているようだった。
いやむしろアレを飼っているような節を感じ取り・・。
なんということだ!
それでは拙者は蔵ではなくあの極悪なアレの飼育小屋に女人を匿ったというのか!
まるで牛や馬に餌をやるが如く!
女人の命を奪われた後悔で抜かした腰はさらに重くなった。
そして取り囲むこの村人たちの眼差しから次にアレの餌にされるのは・・間違いない・・拙者だ。
ということを感じ取った。その場で白い肌の村人たちに後ろ手に縛られた。
なにやら呪文でも唱えるが如く皆一斉におどろおどろしい文句を調べに載せて詠唱しはじめた。
そして蔵の閂が開けられ・・。
巨大な白い鬼が表に出てくる・・。
村人たちは畏怖と敬虔な表情を浮かべて詠唱を続けている。
島から鬼に襲われて避難してきた・・などとは酔狂な話だ。
こやつらは鬼を飼っている!
我が神のように鬼を称え養っている!
血生臭い臭いがひろがり巨大な鬼が咆哮をあげた。
絶望の熱っぽさ、気まずい疲労が膝を折らせ、死が目の前にちらついた。
次の瞬間、雷鳴が轟き、目の前が真っ白になりそして物凄い力で体ごと放り出された。
山の斜面を転がり落ちそのまま崖から落ち川に転落した。
いまおもえば落雷に救われたのだろう。
そのまま川に流され、気がつくと北斗一族の荘園の中だった。
拙者は豪族一味に捕らえられ、いち早く公家より伝えられていた狼藉者として
引き渡されることとなった。幾ら鬼のことを云っても取り合ってくれることはなかった。
結局北斗氏にしても彼らの存在を知っていて攻めあぐねていたのだろう。
公家に引き渡されれば斬首は間違いない。
だから逃げた。
逃げてもしかたない。
だが逃げるしかない。
それから十年幾年放浪したが、行く場所などどこでもよかった。
だが女人への思いがいちばん近寄っただろうこの芦原の橋の下で。
思い出と後悔の中で生きてゆくことを決めたのだ。
そもそも拙者の思いが強すぎたばかりに。
あの麗しの女人の命を結局のところ奪ってしまった。
雨の滴さえ知らぬおなごになぜあれは天からの真珠と云ってやれなかったのか。
なにを後悔しても、仕方がないとはいわんでくれ。
勿論、罪滅ぼしを考えているさ。
だから毎日刃を研いでおるのだ。
せめてあの鬼を、この手で退治してくれようと。
了。
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