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第二部 四季姫進化の巻
第十三章 秋姫進化 10
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十
皆と別れ、楸は気配を殺して、単独で化け狐の足取りを探った。
狐の妖気を読み取るためだけに神経を研ぎ澄まし、樹木の茂みや草叢まで、丹念に探していく。
ふと、池のほとりにある大きな銀杏の木の下で、蹲る宵の後姿を発見した。
様子がおかしい。楸は慌てて、駆け寄った。
「宵はん、具合が悪いんどすか?」
背後から、小声で話しかける。振り返った宵は、少し伏せがちに、楸から目を逸らした。
酷い落ち込みようだった。切なげな、苦しげな表情だ。
以前、宵月夜が大怪我を負い、暴走しかけた後の夜に見せた顔に、よく似ていた。
ただ事ではない。楸は心配になって、側に座り込んだ。
「――俺は、楸の気持ちなんて、何も分かってなかった」
不意に、宵が口を開き、語りだした。突然の発言に、楸は何の反応もできなかった。
「妖怪に恨みを持ちながら優しく接するなんて、辛かったろう? 俺だって逆の立場だったら、絶対に我慢できなかったはずだ。なのに、俺は楸に好意を持ってもらえていると勘違いして、勝手に浮かれていた」
楸の過去の話を聞いて、ショックを受けているのだと悟った。
宵はずっと、楸が単純に、秋姫としての使命を果たすために妖怪たちに接触していたのだと思っていた。その行動の裏に、思いがけない悲しみと憎悪を感じ取って、動揺していた。楸に対して、どう接していいのか、分からなくなっている様子だった。
「本当は、俺たちの存在も、楸にとっては憎いものだったんだ。全然、気付けなかった」
楸の心が、ちくりと痛んだ。
別に、話を聞いてくれた人たちを苦しめるために、語ったつもりではなかったのに。
宵が、そこまで衝撃を受けているとは、想像もしていなかった。
「初めてお会いした頃は、妖怪の善悪の区別なんて、私にはありまへんでした。妖怪は倒すべき敵であり、詳しく知るべき対象でしかありまへんでした。けど、親しく接していくうちに、皆さんは私が憎み続けてきた妖怪とは違うと、だんだん分かってきたんどす」
楸は少しずつ言葉を選び、心の中にある想いを、伝えていった。
「優柔不断かもしれまへん。秋姫として妖怪と戦う以上、妖怪に優劣なんて、つけるべきではなかった。でも、どうしても宵はんや八咫はん、一緒におられる妖怪はんたちを、憎めんかった。嫌いには、なれませんでした。私から全てを奪った敵は妖怪ですが、私の生活に安らぎを与えてくれた存在もまた、妖怪やったんどす」
しょげている宵に、必至で訴えかける。決して、宵や下等妖怪たちに、恨みや罪などない。その事実だけは、分かってもらいたい。
「皆さんが、私に穏やかな時間をくれたんどす。感謝しております」
頭を下げると、宵はようやく、楸に視線を戻してくれた。
「俺も、同じだ。人間は嫌いだけど、楸だけは、どうしても嫌えなかった。本気で、拒みきれなかった」
少し震える、詰まる声で、宵は呟いた。
「楸が好きだから、尚更、現状が苦しい。どうすればいいか、分からなくなる」
「似た者同士、どすな。私達は。私も、ほんの前まで、分からんかったんどす」
楸も、同じ境遇で思い悩んでいた時期があった。秋姫として戦いを決意すれば、きっと、妖怪たちと親しく接するなんて、できなくなる。どの程度の距離をあけるべきなのか、どう接すればいいのか、分からなかった。
今となっては、あまり大きな悩みではなくなっていた。榎たちも、普通に妖怪たちと接しているし、深く考えて、勝手に壁を作らなくてもいいのでは、と思えてきた。
でも、そんなに柔軟に気持ちを整理できる者ばかりが、この世にいるわけではない。
宵も、そんな不器用な一人だ。表向きは臨機応変で器用な性格に思えるが、本当に大事な出来事が絡むと、とんでもないほど優柔不断になる。
ずっと側で見てきたのだから、楸が一番、よく分かっている。
「無理強いはしません。全てを知った上で、私に近づき難い感情を持っておられるなら、もう身を引いてください。でも、私を見捨てずにおってくれるなら……、どうか、妖怪探しに力を貸してください」
楸はゆっくりと、宵の背を押した。考えに迷ってその場から動けないのなら、道を作って選ばせてあげればいい。
宵は、瞳を滲ませながら、顔を上げた。
「……まだ、俺を必要としてくれるんだな?」
楸が微笑むと、宵の表情が、嬉しそうに綻んだ。黒い瞳に、強い光が宿る。
安心した。
強気に言ってみたものの、少し怖かった。宵が本当に匙を投げて、楸の側から離れていくのではないかと、一瞬、嫌な想像が過ぎった。
でも、宵はいつもと変わらず、楸の側から離れずにいてくれた。心から、嬉しく思った。
宵は一息ついて、姿勢を正し、頭上を見た。
「八咫、隠れていないで、出てこい!」
楸も、驚いて上を見る。銀杏の木の天辺から、八咫がバサバサと羽ばたきながら降りてきた。
ものすごく躊躇した表情で、可哀相なくらい怯えていた。
きっと、楸を騙して呼び出した件を、宵にかなり叱られたのだろう。まだ、許しを貰っていないのか、半端なく縮こまっていた。
「八咫。今こそ、秋姫を騙した罪を償え。俺たち妖怪の力が、必要な時だ」
宵が勢いよく、指示を与える。翼で体を覆い、震えていた八咫が、驚いて嘴を開いた。
「許して、いただけまするのか……。御意! 八咫は、楸どののために、精一杯、働かせていただきまする!」
たった一言で、八咫はいつもの調子に戻った。単純な話だが、楸は安心して、元気になった八咫を見て笑った。
「俺の封印が解けて、妖怪たちに召集を掛けた時、呼びかけに一言も応じなかった奴の名を洗うんだ」
宵の指示に従って、八咫は懐からメモ帳とボールペンを取り出した。以前は書き物をするときに、ボロボロの巻物と筆を使っていたが、あまりにも使い勝手が悪そうだったため、新しい筆記具を楸がプレゼントした。
大事に、愛用してくれているらしい。嬉しかった。
メモ帳に、サラサラと妖怪の名を刻んでいく。あっという間に、一面がびっしりと、文字で埋まった。
「……中等、上等妖怪も含めますと、かなりの数がおりますな」
書き上げたメモを見ながら、八咫は唸る。宵も真剣な表情で、見入っていた。
「そいつらの中で、狐の眷属の者は? かなり絞れるはずだ」
楸はようやく、宵と八咫のやり取りの意味に気付いた。宵には、あの化け狐について、何か心当たりがあるのだろう。
「この時代に復活してから、一度でも接触をした妖怪の気配なら、今でもはっきりと覚えている。だが、さっきの狐妖怪は、全然知らない気配を放っていた。俺と一度も、顔を突き合わせていない奴だ」
楸の反応に気付いた宵が、説明してくれた。
宵月夜の復活の際に、何の反応も示さなかった妖怪の中に、標的がいる。それだけでも、かなり候補が絞れた。
「もっと早く、気付けていたら良かったんだけどな。俺の妖力を感じ取る力が、かなり弱っていたから」
「いいえ、充分どす。ありがとうございます」
心から、楸は感謝した。
「狐となると……一匹だけですな」
八咫は、候補から外れた妖怪の名を、線を引いて消していった。最終的に残った名前を見て、唸る鳴き声をあげた。
楸と宵も、メモを覗き込む。
「――こいつだ。上等妖怪、赤尾」
赤尾――。ずっと追い求めてきた、妖怪の名前が、ようやく分かった。
「どういった、妖怪なんどすか?」
「何百年も生き続けて妖気を帯びた、狐の親玉的な妖怪だ。妖狐は同眷属で群れを成して暮らす場合が多いが、赤尾は外れ者だ、普段は単独で行動している」
「普段は放ったらかしやけど、必要に応じて、部下の狐を動かすんどすな」
妙霊山で赤尾を追いかけたとき、たくさんの狐の妖怪に襲われた。あの時の指示の送り方からして、只者ではないと思っていた。
「妖狐は、人間の魂を好んで食らう。事故や災害など、人間が大勢死ぬ場所を事前に察知して姿を現し、死者の魂を奪っていく」
楸の鼓動が、激しく高鳴った。
「時には、生きた人間を事故に見せかけて狡猾に殺し、魂を抜き取る場合もありますな」
過去の記憶が、フラッシュバックする。
そう。その狡猾さで、両親を、弟を殺して、魂を――。
拳を握り、唇を噛み締めた。
「気持ちを鎮めろ。こんな奴のために、気持ちを昂ぶらせなくてもいい」
宵が、楸の怒りに震える体を、抱きしめてくれた。背中を擦られると、少しずつ、怒りは鎮まった。
「間違い、ないどす。みんなの魂が抜き取られた後、狐の嫁入りを見ました。あの時の男も、姪の結婚式の祝いやと話しておったどす」
震える声で、息苦しさを堪えながら、楸は確信を伝えた。宵と八咫も、大きく頷いた。
「間違いなさそうだな。こいつは姿を眩ませる天才だ。無作為に追い掛け回すより、引っ張り寄せたほうが手っ取り早い」
宵は少し考え、良い方法を閃いたらしく、八咫に指示を送った。
「狐を呼び出すには、〝狐招き〟が確実だ。準備を始めるぞ」
* * *
狐招き――。
初めて聞く方法だ。
宵によると、平安時代から一部の陰陽師の間で使用されていた、狐を特定の場所におびき寄せる術の一つらしい。
平らな場所に五芒星の陣を描き、その中央に狐の好むものを置いて念を送れば、自然と狐がやってくる。人間に取り憑いた狐を祓う時にも使われたそうだ。
理屈は、柊が榎を使ってやってみせた方法と同じだが、宵が行おうとしているやり方のほうが、より複雑で確実だった。五芒星の一番下部にあたる場所に、鳥居みたいな形のマークを書き、北側には、格子状になった「井」とよく似た文字を描き足した。
「狐はこの陣に入るとき、魚みたいに一方通行しかできない。必ず南から入って北に出ようとする習性がある。だから、南側の入り口で大々的に招き、北の出口で捕える」
「狐を捕まえる正統な方法があったなら、先に仰ってくれればよろしかったのに」
捕獲方法をきちんと把握していれば、榎を無駄な危険に晒さずに済んだ。少し、罪悪感が残る。
「聞かれなかったし。榎を囮にしてみるやり方も、面白そうだと思ったから」
宵も、柊に負けず劣らず、いい性格をしている。餌扱いされている榎を、不憫に思った。
「あとは、おびき寄せるための餌だな。昔から、霊力を持つ狐を捕らえるときには、鳥の魂と肉を使っていたんだが……」
宵はさりげなく、視線を八咫に向けた。八咫は怯えて、汗まみれになって体を強張らせていた。生贄にされると思ったのだろう。
「まあ、赤尾は現代まで生きてきて、いろんな食い物の味を知っているだろうからな。八咫、狐が好んで食いそうな食材を集めてきてくれ」
八咫は返事もせず、慌てて飛び去っていった。
「赤尾は、上等妖怪なんどすやろ? こないな罠で、簡単に捕まるんどすか?」
疑っているわけではないが、心配だった。罠を見破られ、逆に反撃を受ける危険もある。
「大丈夫だ。強い妖怪っていっても、所詮は狐だし。俺の足元にも及ばねえよ」
「妖怪やったら、の話どすな……」
相変わらず、妖怪だったときの感覚が抜けていない。封印を解こうと奮闘しているみたいだが、まだ解放される兆しは見えない。
不安は、拭いきれなかった。
だが、榎たちを呼びに行ったり、別の方法を考えている暇はなかった。
超特急で、息を切らした八咫が戻ってきた。
「宵月夜さま、油揚げ、調達してまいりました」
八咫は、懐から稲荷寿司を二つ取り出して、差し出した。よく見ると、楸がお弁当に、おにぎりと一緒に持ってきたものだ。
確かに、狐を信仰する稲荷神社と重ね合わせて、お稲荷さんは狐の好物とされている。
でも、本来の狐は肉食が強いから、普通は油揚げなんて食べないはずだが。
本当に、赤尾をおびき寄せられるのだろうか。
「最近の狐は、変わったもんを食うんだな。でも、好物なら確実に掛かるはずだ。榎なんかより、よっぽど役に立つ餌になる」
宵は自信満々に、稲荷寿司を陣の中央に置いた。
陣から少し離れて、様子を見る。
五芒星そのものから、何らかの力が放たれていた。
地球上には、地面のエネルギーが地中を川みたいに流れる「地脈」と呼ばれる場所がある。この公園内には、その地脈の支流があるらしく、力の作用で不思議な出来事が起こりやすい場所だとも言われていた。
宵は地脈に気付いて、その力を利用したのだろう。
しばらく、罠を観察していると、突然、事態が大きく動いた。
茂みから狐が飛び出してきて、陣の中に突っ込んだ。稲荷寿司に齧り付き、そのまま動かなくなった。
「狐が、嵌り込んだどす……」
楸は唖然とした。まさか、本当にこんな方法で、狐を捕まえられるなんて。
「ほら、言ったとおりだろう?」
宵は満悦した表情を浮かべていた。
「しまった、美味そうな匂いにつられて、つい……!」
狐は慌てるが、もう既に、檻の中だ。
囚われた化け狐は、間違いなく、赤尾だった。
皆と別れ、楸は気配を殺して、単独で化け狐の足取りを探った。
狐の妖気を読み取るためだけに神経を研ぎ澄まし、樹木の茂みや草叢まで、丹念に探していく。
ふと、池のほとりにある大きな銀杏の木の下で、蹲る宵の後姿を発見した。
様子がおかしい。楸は慌てて、駆け寄った。
「宵はん、具合が悪いんどすか?」
背後から、小声で話しかける。振り返った宵は、少し伏せがちに、楸から目を逸らした。
酷い落ち込みようだった。切なげな、苦しげな表情だ。
以前、宵月夜が大怪我を負い、暴走しかけた後の夜に見せた顔に、よく似ていた。
ただ事ではない。楸は心配になって、側に座り込んだ。
「――俺は、楸の気持ちなんて、何も分かってなかった」
不意に、宵が口を開き、語りだした。突然の発言に、楸は何の反応もできなかった。
「妖怪に恨みを持ちながら優しく接するなんて、辛かったろう? 俺だって逆の立場だったら、絶対に我慢できなかったはずだ。なのに、俺は楸に好意を持ってもらえていると勘違いして、勝手に浮かれていた」
楸の過去の話を聞いて、ショックを受けているのだと悟った。
宵はずっと、楸が単純に、秋姫としての使命を果たすために妖怪たちに接触していたのだと思っていた。その行動の裏に、思いがけない悲しみと憎悪を感じ取って、動揺していた。楸に対して、どう接していいのか、分からなくなっている様子だった。
「本当は、俺たちの存在も、楸にとっては憎いものだったんだ。全然、気付けなかった」
楸の心が、ちくりと痛んだ。
別に、話を聞いてくれた人たちを苦しめるために、語ったつもりではなかったのに。
宵が、そこまで衝撃を受けているとは、想像もしていなかった。
「初めてお会いした頃は、妖怪の善悪の区別なんて、私にはありまへんでした。妖怪は倒すべき敵であり、詳しく知るべき対象でしかありまへんでした。けど、親しく接していくうちに、皆さんは私が憎み続けてきた妖怪とは違うと、だんだん分かってきたんどす」
楸は少しずつ言葉を選び、心の中にある想いを、伝えていった。
「優柔不断かもしれまへん。秋姫として妖怪と戦う以上、妖怪に優劣なんて、つけるべきではなかった。でも、どうしても宵はんや八咫はん、一緒におられる妖怪はんたちを、憎めんかった。嫌いには、なれませんでした。私から全てを奪った敵は妖怪ですが、私の生活に安らぎを与えてくれた存在もまた、妖怪やったんどす」
しょげている宵に、必至で訴えかける。決して、宵や下等妖怪たちに、恨みや罪などない。その事実だけは、分かってもらいたい。
「皆さんが、私に穏やかな時間をくれたんどす。感謝しております」
頭を下げると、宵はようやく、楸に視線を戻してくれた。
「俺も、同じだ。人間は嫌いだけど、楸だけは、どうしても嫌えなかった。本気で、拒みきれなかった」
少し震える、詰まる声で、宵は呟いた。
「楸が好きだから、尚更、現状が苦しい。どうすればいいか、分からなくなる」
「似た者同士、どすな。私達は。私も、ほんの前まで、分からんかったんどす」
楸も、同じ境遇で思い悩んでいた時期があった。秋姫として戦いを決意すれば、きっと、妖怪たちと親しく接するなんて、できなくなる。どの程度の距離をあけるべきなのか、どう接すればいいのか、分からなかった。
今となっては、あまり大きな悩みではなくなっていた。榎たちも、普通に妖怪たちと接しているし、深く考えて、勝手に壁を作らなくてもいいのでは、と思えてきた。
でも、そんなに柔軟に気持ちを整理できる者ばかりが、この世にいるわけではない。
宵も、そんな不器用な一人だ。表向きは臨機応変で器用な性格に思えるが、本当に大事な出来事が絡むと、とんでもないほど優柔不断になる。
ずっと側で見てきたのだから、楸が一番、よく分かっている。
「無理強いはしません。全てを知った上で、私に近づき難い感情を持っておられるなら、もう身を引いてください。でも、私を見捨てずにおってくれるなら……、どうか、妖怪探しに力を貸してください」
楸はゆっくりと、宵の背を押した。考えに迷ってその場から動けないのなら、道を作って選ばせてあげればいい。
宵は、瞳を滲ませながら、顔を上げた。
「……まだ、俺を必要としてくれるんだな?」
楸が微笑むと、宵の表情が、嬉しそうに綻んだ。黒い瞳に、強い光が宿る。
安心した。
強気に言ってみたものの、少し怖かった。宵が本当に匙を投げて、楸の側から離れていくのではないかと、一瞬、嫌な想像が過ぎった。
でも、宵はいつもと変わらず、楸の側から離れずにいてくれた。心から、嬉しく思った。
宵は一息ついて、姿勢を正し、頭上を見た。
「八咫、隠れていないで、出てこい!」
楸も、驚いて上を見る。銀杏の木の天辺から、八咫がバサバサと羽ばたきながら降りてきた。
ものすごく躊躇した表情で、可哀相なくらい怯えていた。
きっと、楸を騙して呼び出した件を、宵にかなり叱られたのだろう。まだ、許しを貰っていないのか、半端なく縮こまっていた。
「八咫。今こそ、秋姫を騙した罪を償え。俺たち妖怪の力が、必要な時だ」
宵が勢いよく、指示を与える。翼で体を覆い、震えていた八咫が、驚いて嘴を開いた。
「許して、いただけまするのか……。御意! 八咫は、楸どののために、精一杯、働かせていただきまする!」
たった一言で、八咫はいつもの調子に戻った。単純な話だが、楸は安心して、元気になった八咫を見て笑った。
「俺の封印が解けて、妖怪たちに召集を掛けた時、呼びかけに一言も応じなかった奴の名を洗うんだ」
宵の指示に従って、八咫は懐からメモ帳とボールペンを取り出した。以前は書き物をするときに、ボロボロの巻物と筆を使っていたが、あまりにも使い勝手が悪そうだったため、新しい筆記具を楸がプレゼントした。
大事に、愛用してくれているらしい。嬉しかった。
メモ帳に、サラサラと妖怪の名を刻んでいく。あっという間に、一面がびっしりと、文字で埋まった。
「……中等、上等妖怪も含めますと、かなりの数がおりますな」
書き上げたメモを見ながら、八咫は唸る。宵も真剣な表情で、見入っていた。
「そいつらの中で、狐の眷属の者は? かなり絞れるはずだ」
楸はようやく、宵と八咫のやり取りの意味に気付いた。宵には、あの化け狐について、何か心当たりがあるのだろう。
「この時代に復活してから、一度でも接触をした妖怪の気配なら、今でもはっきりと覚えている。だが、さっきの狐妖怪は、全然知らない気配を放っていた。俺と一度も、顔を突き合わせていない奴だ」
楸の反応に気付いた宵が、説明してくれた。
宵月夜の復活の際に、何の反応も示さなかった妖怪の中に、標的がいる。それだけでも、かなり候補が絞れた。
「もっと早く、気付けていたら良かったんだけどな。俺の妖力を感じ取る力が、かなり弱っていたから」
「いいえ、充分どす。ありがとうございます」
心から、楸は感謝した。
「狐となると……一匹だけですな」
八咫は、候補から外れた妖怪の名を、線を引いて消していった。最終的に残った名前を見て、唸る鳴き声をあげた。
楸と宵も、メモを覗き込む。
「――こいつだ。上等妖怪、赤尾」
赤尾――。ずっと追い求めてきた、妖怪の名前が、ようやく分かった。
「どういった、妖怪なんどすか?」
「何百年も生き続けて妖気を帯びた、狐の親玉的な妖怪だ。妖狐は同眷属で群れを成して暮らす場合が多いが、赤尾は外れ者だ、普段は単独で行動している」
「普段は放ったらかしやけど、必要に応じて、部下の狐を動かすんどすな」
妙霊山で赤尾を追いかけたとき、たくさんの狐の妖怪に襲われた。あの時の指示の送り方からして、只者ではないと思っていた。
「妖狐は、人間の魂を好んで食らう。事故や災害など、人間が大勢死ぬ場所を事前に察知して姿を現し、死者の魂を奪っていく」
楸の鼓動が、激しく高鳴った。
「時には、生きた人間を事故に見せかけて狡猾に殺し、魂を抜き取る場合もありますな」
過去の記憶が、フラッシュバックする。
そう。その狡猾さで、両親を、弟を殺して、魂を――。
拳を握り、唇を噛み締めた。
「気持ちを鎮めろ。こんな奴のために、気持ちを昂ぶらせなくてもいい」
宵が、楸の怒りに震える体を、抱きしめてくれた。背中を擦られると、少しずつ、怒りは鎮まった。
「間違い、ないどす。みんなの魂が抜き取られた後、狐の嫁入りを見ました。あの時の男も、姪の結婚式の祝いやと話しておったどす」
震える声で、息苦しさを堪えながら、楸は確信を伝えた。宵と八咫も、大きく頷いた。
「間違いなさそうだな。こいつは姿を眩ませる天才だ。無作為に追い掛け回すより、引っ張り寄せたほうが手っ取り早い」
宵は少し考え、良い方法を閃いたらしく、八咫に指示を送った。
「狐を呼び出すには、〝狐招き〟が確実だ。準備を始めるぞ」
* * *
狐招き――。
初めて聞く方法だ。
宵によると、平安時代から一部の陰陽師の間で使用されていた、狐を特定の場所におびき寄せる術の一つらしい。
平らな場所に五芒星の陣を描き、その中央に狐の好むものを置いて念を送れば、自然と狐がやってくる。人間に取り憑いた狐を祓う時にも使われたそうだ。
理屈は、柊が榎を使ってやってみせた方法と同じだが、宵が行おうとしているやり方のほうが、より複雑で確実だった。五芒星の一番下部にあたる場所に、鳥居みたいな形のマークを書き、北側には、格子状になった「井」とよく似た文字を描き足した。
「狐はこの陣に入るとき、魚みたいに一方通行しかできない。必ず南から入って北に出ようとする習性がある。だから、南側の入り口で大々的に招き、北の出口で捕える」
「狐を捕まえる正統な方法があったなら、先に仰ってくれればよろしかったのに」
捕獲方法をきちんと把握していれば、榎を無駄な危険に晒さずに済んだ。少し、罪悪感が残る。
「聞かれなかったし。榎を囮にしてみるやり方も、面白そうだと思ったから」
宵も、柊に負けず劣らず、いい性格をしている。餌扱いされている榎を、不憫に思った。
「あとは、おびき寄せるための餌だな。昔から、霊力を持つ狐を捕らえるときには、鳥の魂と肉を使っていたんだが……」
宵はさりげなく、視線を八咫に向けた。八咫は怯えて、汗まみれになって体を強張らせていた。生贄にされると思ったのだろう。
「まあ、赤尾は現代まで生きてきて、いろんな食い物の味を知っているだろうからな。八咫、狐が好んで食いそうな食材を集めてきてくれ」
八咫は返事もせず、慌てて飛び去っていった。
「赤尾は、上等妖怪なんどすやろ? こないな罠で、簡単に捕まるんどすか?」
疑っているわけではないが、心配だった。罠を見破られ、逆に反撃を受ける危険もある。
「大丈夫だ。強い妖怪っていっても、所詮は狐だし。俺の足元にも及ばねえよ」
「妖怪やったら、の話どすな……」
相変わらず、妖怪だったときの感覚が抜けていない。封印を解こうと奮闘しているみたいだが、まだ解放される兆しは見えない。
不安は、拭いきれなかった。
だが、榎たちを呼びに行ったり、別の方法を考えている暇はなかった。
超特急で、息を切らした八咫が戻ってきた。
「宵月夜さま、油揚げ、調達してまいりました」
八咫は、懐から稲荷寿司を二つ取り出して、差し出した。よく見ると、楸がお弁当に、おにぎりと一緒に持ってきたものだ。
確かに、狐を信仰する稲荷神社と重ね合わせて、お稲荷さんは狐の好物とされている。
でも、本来の狐は肉食が強いから、普通は油揚げなんて食べないはずだが。
本当に、赤尾をおびき寄せられるのだろうか。
「最近の狐は、変わったもんを食うんだな。でも、好物なら確実に掛かるはずだ。榎なんかより、よっぽど役に立つ餌になる」
宵は自信満々に、稲荷寿司を陣の中央に置いた。
陣から少し離れて、様子を見る。
五芒星そのものから、何らかの力が放たれていた。
地球上には、地面のエネルギーが地中を川みたいに流れる「地脈」と呼ばれる場所がある。この公園内には、その地脈の支流があるらしく、力の作用で不思議な出来事が起こりやすい場所だとも言われていた。
宵は地脈に気付いて、その力を利用したのだろう。
しばらく、罠を観察していると、突然、事態が大きく動いた。
茂みから狐が飛び出してきて、陣の中に突っ込んだ。稲荷寿司に齧り付き、そのまま動かなくなった。
「狐が、嵌り込んだどす……」
楸は唖然とした。まさか、本当にこんな方法で、狐を捕まえられるなんて。
「ほら、言ったとおりだろう?」
宵は満悦した表情を浮かべていた。
「しまった、美味そうな匂いにつられて、つい……!」
狐は慌てるが、もう既に、檻の中だ。
囚われた化け狐は、間違いなく、赤尾だった。
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