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第三部 四季姫革命の巻

第二十四章 春姫革命 7

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 七
 朝は傷を治そうと、庭にある松の木の上に身を潜めて、気配を消していた。
 春姫の力が健在なら、すぐにでも治してあげられるのに、とてももどかしい。
 結界を張り直し、屋敷の荷造りの合間に小休止をとっていた立壺と板取に、春姫と朝について聞いた話を伝える。
 立壺は、やけに楽しそうに、微笑ましい表情で椿を見ていた。
「白烏を巡って、恋の鞘当てですか。お若いですねぇ」
「そんな、つまらぬことをしておる時ではないであろうに。己の身の程を分かっておらぬ」
 板取は情けない、と言わんばかりに、深い息を吐いた。
「そりゃ、恋なんて、小母さんには無縁でしょうしね」
「其方は、私を馬鹿にしておるのか?」
 椿が毒を吐くと、板取は恐ろしい形相で睨み付けてきた。
「だって、人に恋して、ときめくようなタイプには見えないもの。仕事に命を懸けてるっていうか」
 心の中で思っていた印象を全て吐き出すと、板取は顔を真っ赤にして怒り狂った。
 椿に飛びかかろうとしてくる板取を、立壺が足を払って止める。
「想いが成就するかどうかは別として、女子(おなご)は皆、少なからず殿方を想い想われながら、切なく辛い時を過ごしているのです。私も若い頃は、ちょっとしたものでしたよ」
 口を窄めて、立壺はホホホと笑った。
「ちょっとした立壺様……」
 床に転がって額を抑えていた板取は、表情を引き攣らせて立壺を見ていた。
「お婆ちゃんが言うと、説得力あるわね……」
 誰にだって、戦わなくてはならない時がある。大切な者を守るため、自分自身を守るために。
 椿だって今まで、平穏な暮らしや仲間を守るために、妖怪や悪鬼たちと戦ってきた。
 でも、そんな戦いの中で、椿はいくつも、強く思い知らされる出来事にも直面してきた。
 戦う相手にも、戦うだけの理由がある。それは絶対的な悪というわけではなく、逆に敵から見れば、椿たちが悪に取って代わる時だってある。
 要は価値観や考え方の違い。何が正しくて何が間違っているのかなんて、周囲の空気の変化で、あっという間にひっくり返る。
「みんな好き、仲良し……じゃ、駄目なのかなぁ。今まで仲良くしてきた人と争うなんて、悲しいわ」
 椿は呟く。何の解決にもならないかもしれないが、唯一椿が望む、理想の結末だ。
「そう思うのであれば、椿が身を引けばよいではないか」
 板取が、先ほどの仕返しと言わんばかりに、鼻を鳴らしてくる。
 椿は体を震わせて、飛び上がった。
「姫様に、かような器用な真似ができるわけもなし。聞き分けの良い其方が諦めて、姫様と白烏が結ばれれば、どこにも争いなど起こらぬ。それで万事、うまくいくではないか」
「そんなの、嫌よ! 椿だって、朝ちゃんが好きだもの……。でも、春ちゃんも好き。だから、どうすればいいのか分からないの!」
 ますます、頭がこんがらがる。椿は泣きそうになった。
「殿方の奪い合いは、いわば女の闘い。成就する者もいれば、夢破れたる者もいる。どんな世でも、誰の闘いであっても、必ず勝者と敗者は存在するものなのだろう。そう、割り切らねば、答は出ぬのではないか?」
 分かっている。だが、そんな簡単にけじめがつけられれば、誰も苦労はしていない。
 やっぱり、この人は恋愛なんてしたことがない、人を好きになる、揺れ動く気持ちや悩ましい感情を全く理解していない。
 椿は板取を恨めしく睨み付けた。
「まあ、この場で、つべこべ言うておっても、何も変わらぬからな。そもそも、はっきり一人を選ばぬ白烏が悪いのじゃ」
 板取は鼻を鳴らす。いい加減、新入りいびりも飽きたらしく、今度は朝に向けての悪態を吐き始めた。
「私は、椿のような考えも、嫌いではありませぬよ。誰も傷つかずに済めば、それに越したことはないのですからね」
 立壺が椿を宥めて、話を収束させた。
 結局、悩みを口に出してみたところで、納得のいく結論は導き出せなかった。
 夜も更けてきたし、いい加減眠ろうと、椿は女中たちの部屋の脇に寝床を用意してもらい、眠りについた。

 * * *

 夜明け前。
 寒いし、枕は固いし、満足に寝付けなかった椿は、縁側に出て寒空を眺めていた。
 東の山のほうが、少し明るくなってくる。空を厚い雲が覆っていて、雨か雪でも降りそうだ。
 白い息を吐き出しながら、ふと松の木の上を見上げると、朝の白い翼が蹲っている姿が見えた。一晩中、あの体勢でいたのか。外は寒かっただろうに。
「朝ちゃん。やっぱり、具合が悪いの? 中に入らないと、風邪ひいちゃうよ」
 椿は慌てて草履を履き、木の根元に駆け寄って声を掛けた。風邪なんてひかないだろうが、他に掛けられる適当な言葉が見つからなかった。
 声に気付いた朝が、翼を開いてゆっくりと地面に降り立った。
「平気ですよ。だた、この地は、僕の頭の中に眠る、多くの記憶を蘇らせようとする。良かったことも、悪かったことも。色々と思い出してしまって気分が悪くなったので、ちょっと記憶を整理していただけです」
「過去の辛い記憶が、朝ちゃんを苦しめているのね……。でも、悪いことばかりじゃないのよね。少しでも、良い思い出も、あったんでしょう?」
「はい。親を殺されたといっても、四季姫様たちは、僕たちを手厚く保護して、今まで育ててくださいました。皆、とても親切にしてくださった。少しでも人の持つ優しさや温かさに触れてこれたからこそ、僕たちは人間に近い存在として、今も椿さんたちの側にいられるのです」
 朝の辛い表情が、和らいだ。
 少なくとも、その穏やかな表情だけは、作り物ではないと思えた。
「なら、良かった。平安時代が、朝ちゃんたちにとって辛い思い出しかない場所なら、一緒に来てもらうべきじゃなかったのかもしれないって、思っていたから」
 でも、そんな心配は不要だった。
 今までの記憶にしがみついている必要はない。この先、この場所で何を得られるか。それが大切だ。
 椿も、朝の辛い思い出を少しでも払拭できるように、協力したいと思った。
「せっかく、生まれ故郷に戻って来たんだもん。いい思い出をたくさん作って、現代に帰ろうね」
 椿が笑いかけると、朝は泣きそうな顔をして、勢いよく、椿の体を抱き寄せた。
 強く抱きしめられ、椿の心臓が飛び出しそうになる。
「少しだけ、側にいてください。気持ちを、落ち着けたいのです」
 朝の手から、体中の些細な震えが、伝わって来た。
 椿も朝の腰に手を回し、優しく背中を撫でる。
 朝の真っ白な大きな翼が、椿と朝の体を包み込んだ。
 夜が明け、雲の隙間から太陽の光が降り注いだ。眩しい光で、白い羽が透けて美しく輝いていた。

 * * *

 時刻は、昼を回ったくらい。
 ちらほらと雪が降りはじめ、厳しい寒さが襲ってきそうな予感だ。
 荷造りを完全に終え、屋敷の女中たちは大きな火鉢を取り囲んで暖を取っていた。
 そういえば、みんなはどこに移動するのだろう。何も聞かされていなかった椿は、談話の合間に訊ねた。
「この屋敷以外に、身を隠せる場所はあるんですか?」
「私の知り合いがいる、尼寺へ行こうと思うております。しばしの間であれば、匿ってもらえるでしょう」
 立壺の説明に、椿は納得した。やっぱり逃げ込むべき場所は、駆け込み寺なのだろう。
 京都にはお寺がたくさんあるし、この時代は現代に比べて仏教の勢力も強いし、多くのお坊さんや尼さんが暮らしている。命を狙われて逃げまどっている人々を、きっと助けてくれるはずだ。
「屋敷を移る準備は整ったが、姫様が目を覚まさぬ」
 板取が途方に暮れた様子でやってきた。春姫は、昨晩から眠ったままだ。
 もう、半日以上。もう数時間経てば、丸一日眠っている計算になる。
「こんなこと、しょっちゅうあるの?」
「ごく稀にな。よほどお疲れになったのであろう。昨日は色々あったから」
 眠れないよりはしっかり眠ったほうが、疲れた体を癒すにはいいかもしれないが、寝すぎもあんまり体に良くないと思う。
 だが、春姫の状態を考えると、誰も叩き起こそうという気にはならないらしい。
「この調子では、今日中に屋敷を出るのは無理ですね」
「昼間の往来は目立ちますし、夜は危険じゃ。できれば朝早くに行いたい」
 大勢でゾロゾロと大移動するわけだから、人に見られれば、すぐに噂が広がってしまう。
 人目を避けて、迅速に移動しなければならない。追っ手から逃れるためとはいえ、色々と制限が厳しくて、調整が難しそうだ。
「まだ、この屋敷に居座っていても、大丈夫かしら」
 だからといって、あまり長居をしているわけにもいかないだろう。一晩、出発を伸ばして、敵に襲撃を掛けられないとも限らない。
「結界を強めておきましょう。たとえ伝師の陰陽師であっても、そう易々とは破れないはずです」
 朝が縁側から声を掛けてきた。力を掌に集中させ、屋敷を張り巡らせてある結界に送り込んでいた。
「でも、取り囲まれちゃったら……」
「その時は、僕が囮になって、皆様を逃がしましょう」
 朝は迷いのない表情で、強く言い放った。
 その真剣な表情に、立壺たちは深く頭を下げた。
「忝い。我らのために、力を貸していただいて」
「その代わり、どうか必ず、椿さんを守って下さい。僕も目を離すつもりはありませんが、万が一ということもあり得ます」
「約束いたそう。姫様と共に、椿にも指一本、触れさせはせぬ」
 板取の言葉に、朝は満足そうに頭を下げた。
 やがて、ほとんど何もしていないのに時間だけが過ぎ、気付けば空が薄暗くなってきた。
「もう、夜になっちゃうわ。一日が経つのって、早いわね」
 降り頻っていた雪は弱まったが、庭のあちこちに積もって、白い世界を作り上げていた。
 明日、朝日に照らされる景観は、とても美しい銀世界になっているだろう。
 冬の雪景色は見慣れているが、何度見ても飽きない。
 椿は小さな燭台を手に縁側に座り、暗い空から降り注ぐ雪を眺めていた。その側に、朝がやって来て腰を下ろす。
「傷は全部、綺麗に治ったね。良かった」
 痕も残らず、元に戻った朝の顔を見て、椿は安心した。
 朝は椿に微笑みかけた後、空を見上げて、少し緊張気味に呟いた。
「もうすぐ、月が消えます」
「新月になるって意味ね」
 とても細い三日月は、明日か明後日には完全に消え、真っ暗な夜がやって来る。月がどれだけ眩く美しく、地球を照らしてくれているのかが実感できる。
 街灯も何もない、平安時代ならばその有難さは尚更、強く感じ取れるだろう。
「新月の闇は、人であらざるものを盛らせる。平安の京において、最も気をつけなければならない時です。――この時代の四季姫様たちの、受け売りですがね」
 遠い目は、懐かしさを湛えていた。どこかいつもより、饒舌になっている朝を見ていると、椿も嬉しくなってくる。
 話している内容は、決して楽しめる内容ではないが。
「そうね。注意しなくちゃ。敵はもう、どれだけ近くに来ているか、分からないものね」
 夜の闇に紛れて襲撃でも受ければ、こちらも打つ手がない。その危機だけは避けたい。
「それに、――敵は外側だけとは、限らない」
 朝は頷きつつも、目を細めて背後に気を配り始めた。
 椿も一瞬、背筋が凍りそうなくらい冷たく感じた。
 単に体か冷えたせいではない。それ以上に何か、恐怖を感じる存在が、椿の第六感を襲った。
 背後の縁側の廊下を、何者かの気配が歩み寄って来る。
 足音は聞こえない。ただ、着物が床を擦る音だけが、シュルリシュルリと響いていた。
 反射的に振り返ると、すぐ後ろに春姫が立っていた。
 寝起きのせいか髪は乱れ、顔にかかる黒髪がいっそう、不気味さを掻き立てている。
「朝月夜。春の側を離れて、何をしておる……?」
 深く息を吐き出すような、重苦しい声。
 その姿を見るとすぐに分かった。
 また、春姫の中の悪鬼が、邪気を放っている。
「春を出し抜いて、別の女と逢瀬を重ねるのか? 汚らわしい白烏め」
 朝は椿を庇って、春姫の前に立ちはだかった。
「僕を何と罵ろうと構いません。ですが、椿さんには指一本触れさせません。相手があなたであろうと、容赦はしない」
「容赦せず、どうするというの? 春に手を掛けるのか?」
 春姫の言葉が、朝に圧力を掛ける。
 朝の体が強張り、顔が青褪めていく様子がはっきりと分かった。
「震えておるではないか、可哀想に。春が怖いか? 逆らわなければ、可愛がってやるのに」
 更に、春姫が放つ威圧感は増していく。朝は発作でも起こしたみたいに、苦しそうに息を荒げていた。春姫に対する恐怖、トラウマに支配された朝では、どれだけ戦う意志があっても、きっと春姫には手も出せない。
「待って、朝ちゃん。椿に話をさせて」
 椿は朝の肩を掴んで、後ろに引き下げた。代わって、春姫の前に身を乗り出す。
「いけません、近付いては……」
 慌てて制止して来ようとする朝を抑え込み、椿はまっすぐ、春姫と向かい合う。
「春ちゃん。春ちゃんが朝ちゃんを好きな気持ち、椿にもよく分かるわ。椿も、朝ちゃんが大好きだもの。だから、大切な人を脅しつけて、言うことを聞かせようなんて真似、しては駄目よ」
 春姫は、決して身も心も醜く歪んだ化け物ではない。
 誠実に接すれば誠実な態度が返って来るし、常識もわきまえている。
 人を気遣う優しい心だって、ちゃんと持っている。
 順序を踏んでしっかりと説得すれば、きっと本来の正常な感性を、人格を取り戻せるはずだ。
「黙れ、泥棒猫が。いきなり現れた田舎者の小娘が、春から朝月夜を奪るつもりか」
「朝ちゃんは、物じゃないのよ。誰の側にいたいかは、朝ちゃん自身が決めるべきことよ。椿や春ちゃんに、とやかく言う権利はないの」
「ならば、朝月夜の行きたい場所を消せば良いだけ。春の元にしか帰れぬようにしてやればよいだけじゃ」
 だが、椿の説得も虚しく、春姫には届かなかった。
 春姫の標的が、椿に変わる。白い細い腕が素早く伸び、椿の首を掴む。
「貴様が消えればよい。汚らわしい小娘が!」
「やめて、春ちゃん! 目を覚まして。本当のあなたは、こんな酷い真似しないわ。周りの人たちを思いやれる、優しい娘だもの!」
 椿は、春姫の手を引っ張って外そうとするが、びくともしなかった。恐ろしいほど強い力だ。
 握力も、弱りきった少女のものとは思えない。このままでは、確実に首を握り潰されてしまう。
 呼吸が、苦しくなってくる。息ができなくなるにつれて体の力が抜け、抵抗さえできなくなった。
 意識が遠退きかけた時。強烈な風が巻き起こり、勢いよく春姫の手が椿から離れた。春姫は風に圧されて吹き飛ばされ、廊下に倒れた。
 椿はせき込みながらも、冷たい外気を必死で取り込む。
 すぐ側で、朝が手に印を結んだ体勢で、立ち尽くしていた。朝が、椿を助けてくれたのだろう。
 その体は硬直し、手は震えていた。
 とんでもないことをしてしまった。そんな怯えの表情が浮かんでいる。
 それでも、勢いで勇気を振り絞り、春姫に殺気を飛ばす。
「それ以上、この人に触れるな。椿さんに何かあったなら、お前を許さない」
 朝の言葉が効いたのかどうかは、分からない。
 だが、起き上がった春姫の様子は、先ほどとは明らかに違っていた。
「……椿? 春は、春は……」
 まるで夢から覚めたかのような呆然とした表情で、春姫は椿を見上げてくる。
 正常に戻った、大きな黒い瞳が、椿の首元を見つめていた。
 驚いた顔をして起き上がり、椿に駆け寄ろうとする。
 その動きをすかさず、朝が制した。
「朝ちゃん、刺激しないで」
 椿は朝に注意を促し、動きを止めさせる。今の春姫からは、殺気も敵意も感じられない。
 椿が初めて出会った時と同じ、一緒に遊んだ時と同じ、幼さの残る無垢な少女だ。
「春は、お前を殺そうとしたのか。また、勝手に手が……」
 今で何をやってきたか記憶がないらしいが、ある程度憶測はつくみたいだ。
 椿を傷付けたものが己の手であると自覚すると共に、春姫は体を震わせ、大きな目に涙を溜め始めた。
「安心して、春ちゃんは何もしていないわ。椿は無事だもの」
 そう、まだ、何もしていない。何も起こっていない。
 このまま春姫の精神を宥められれば、何事もなく済む。
「今はよくても、きっといずれ、春の気付かぬ間に……。もう嫌じゃ。春は化け物なの。内側に潜む、どす黒い悪鬼の力が、春の体を食い破って外に出てこようとする!」
 椿の説得も効果なく、春姫は頭を抱えて蹲った。声を荒げ、嗚咽を漏らして泣きじゃくり始める。
 椿は春姫を抱きしめて、懸命に背中を擦って宥めた。
「春ちゃんならきっと、悪鬼の力になんて負けないわ。諦めないで、一緒に戦いましょう」
「鬼の血も引かぬ其方に、何が分かるというの。この苦しみも怖さも、誰も分かってはくれないわ!」
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 春姫は勘違いをしている。いや、きっと、気付いていない。
 春姫の周りには、いつも春姫を想って側にいてくれる人たちがたくさんいるのに。命を懸けて刺客から守ろうと頑張ってくれいているのに。
 春姫には、その人たちの姿が見えていないのだろうか。
「春は、ずっと独りぼっち。父上も母上も、こんな化け物として生まれてきた春を気味悪がって、近寄ってもくれなかった。寂しくて寂しくて、誰でもいいから春と一緒にいて欲しいと願ったら、春の中にいた、この化け物が声を掛けてくれたの。春のために何でもしてくれると、言うてくれたの」
 喉を引き攣らせながら、春姫はひたすらに言葉を紡ぐ。
 己の血の中に流れる悪鬼の血が、具現化して本体と接触を果たす。
 そんな現象について、椿は心当たりがあった。
 伝師一族の後継者――綴が、自身の中に流れる血の中から生み出した悪鬼が、神無月 萩だった。
 萩は主である綴のために、悪鬼としての力を駆使してありとあらゆる悪さを働いた。萩の場合は、綴のほうが一枚上手だったために逆に利用される羽目になったが、実際は春姫みたいに、宿主である人間が、悪鬼に利用されて体を食われ、乗っ取られるということが起こり得るのだろう。
 春姫は、自身の孤独を紛らわせるために、悪鬼の声に耳を傾けて体を差し出した。だから、二重人格みたいな体質になってしまったのだろう。
「春の体を使って化け物が悪さをすると、それを止めるために、たくさんの人が春に構ってくれたわ。どんなに傷つけても、殺そうとしても、春の側にいてくれた。でも、春が元に戻ると、安心して離れて行ってしまう。だからまた、化け物にお願いするの」
 春姫が悪鬼と化せば、その恥を漱ぐため、周囲に危険を及ぼさないため、きっと陰陽師たちが総出で力を封じにかかったのだろう。
 その行為に、春姫に対する愛情や同情があったかどうかは、正直怪しい。
 でも、春姫にとっては周囲に人が集まって、春姫を見てくれるだけで嬉しかった。だから悪鬼の力をさらに増幅させて、収まりがつかなくなってしまったに違いない。
「あいつらだってそうよ。立壺も板取も、ただ春の中の化け物が怖いから、側で見張っているだけ。また、暴れ出さないように。――でも、それでいいの。それで春の側にみんながいてくれるなら、春はいくらでも、化け物に身を売ってやるわ」
「春ちゃんは、誤解しているのよ。そんなやり方、間違っているわ。それに、悪鬼になって迷惑を掛けなくたって、ちゃんとあなたの側にいてくれる人はいるの。ちゃんとその人たちの姿を見てあげて。想いを感じ取ってあげて」
 何とか、間違いを正してあげたい。今ならまだ、春姫は元に戻れる。
 そう思って必死で声を掛け続けたが、椿の想いは届かなかった。
「もう、どうでもいい。疲れた。どんなに化け物として暴れても、大切な人を脅しても、結局みんな、春の側から離れていくのだから」
 失望に憑りつかれた春姫は、虚ろな瞳で朝を見つめた。
「朝月夜。春を殺して。春と死んで。お前を失うくらいなら、一緒に死んだほうがいい」
 つまり、心中か。
 突然の発言に、朝は表情を強張らせる。椿も言葉を失い、呆然とした。
 朝の瞳には、恐怖以上に迷いが生じていた。返答を言いあぐねていると、春姫は更に朝を押してくる。
「春とは嫌か? ならば、椿を共に連れて行こうか?」
 春姫は再び、椿の首に手を掛けようとした。朝の表情が変わり、強い決意が浮かんだ。
「分かりました。春姫様。二人きりで、共に死にましょう」
 朝がそう返答すると、春姫は狂ったように甲高い笑い声を上げはじめた。
「ついにやったぞ! 朝月夜は、春のものじゃ! 誰にも渡さぬぞ!」
 春姫は椿を突き飛ばし、朝に駆け寄って抱きしめる。
「もちろんです。僕は、あなただけのものです。――すぐに、楽にして差し上げますから」
 朝は春姫を抱きしめ返し、手の指に力を込めた。右手の中指の爪が長く鋭く伸びて変形し、鋭利な刃物みたいになった。
 朝はその爪の先端を、春姫の背中に向けた。
「駄目よ、朝ちゃん。絶対に許さないわ!」
 椿は我に返り、朝の動きを制した。
「一緒に死ぬつもりなんてないんでしょう!? そんな酷い嘘を吐いちゃ、絶対に駄目」
 朝の表情を見れば、椿にはすぐに分かった。
 朝は春姫と運命を共にする気なんて、最初からない。春姫を殺して、それで終わりにするつもりだ。
 そんなこと、絶対にさせられない。椿はひたすら喚いて、朝を止めにかかった。
 集中を欠かれた朝は、少し怒った表情で、春姫から手を離した。
 春姫は体の力が抜けたらしく、地面に座り込んだ。
 代わりに椿を掴まえ、抱き上げて空高く飛び上がった。
 松の上に降り立つと同時に、朝は椿の肩を掴んで声を荒げた。
「なぜ、止めるのです、邪魔をするのです! これで何もかも、うまく終わりにできるのに。この女さえ死ねば、何の弊害もなくなるのです」
「こんなやり方が、うまいなんて思えないわ! 誰も幸せになんかなれない!」
 朝は最大の好機を邪魔されたと思っているのだろうが、椿は絶対に間違っていると確信できる。
 それでも、椿の言い分に納得できない朝は、更に反論してきた。
「どのみち、あなたが春姫の力を取り戻すためには、あの女が死ななければならないのですよ。だったら、最も理想の形で最期を迎えたほうが、誰にとっても良いに決まっているじゃないですか!」
 もしそうなれば、春姫はきっと、朝から贈られる死を素直に受け入れるだろう。朝と共に死ねると思い込んで。満足しながら、孤独に死んでいくだけ。
 春姫が死ねば、朝は苦しい過去から解放される。椿も、春姫の力を取り戻せる。
 結果を考えれば、朝から見れば良いこと尽くしのように思える。
 だが、本当にそうだろうか?
「心に受けた傷は、魂にも刻まれるの。その傷は魂が在り続ける限り、消えはしない。延々と受け継がれて、いつまでも巡り続けるわ。一度受けた魂の傷は、春姫の力では癒せないの。だから、これ以上、広げないで」
 椿が声を潜めて呟くと、朝はショックを受けた表情を浮かべた。
「すみませんでした。春姫の魂を傷付ければ、生まれ変わって椿さんの魂にも、深い溝を残し続けるのですね」
 朝は謝ってくるが、やっぱり全然、理解していない。
 椿は声を荒げた。
「違うわ、朝ちゃんの魂よ! 心を押し殺して、冷酷を装っていても、魂は正直だから。誰よりも、傷付いている。一緒に死ぬと嘘を吐いて人を殺すなんて、朝ちゃんの良心が許すはずがないもの!」
 椿の大声に、朝は激しく表情を歪めた。必死で平常心を取り繕おうとしているが、全身の震えが治まっていない。
「僕は、そんな程度では……」
「嘘よ。きっと、後悔するわ。あなたは、春姫を憎んでいるのかもしれない。でも、それと同じくらい、大切に想っているのよ」
「僕が、この女を想っていると言うのですか?」
 意外そうに、朝は驚いた、かつ不快そうな表情を浮かべる。
 椿は自信たっぷりに、頷いた。
「朝ちゃんが封印石に封じられていた時、椿には朝ちゃんの助けを求める声が、誰よりも良く聞こえたわ。その声は、椿じゃなくて、椿の中の春姫の魂に向かって放たれたものでしょう? 心から憎んでいる人に、「助けて」なんて言える? あなたと春ちゃんとの間に、それだけの強い絆があったとしか考えられないわ」
 あの頃は、椿と朝との間に、何らかの力によって強い結びつきができたから、朝の声が聞こえてきたのだと思っていた。
 この時代に来て、実際に春姫に出会って、はっきり分かった。
 あの強い繋がりは、前世の春姫と朝との間に交わされたものなのだと。
「朝ちゃんは、春ちゃんに傷つけられながらも、春ちゃん自身が苦しんできた姿を見てきたのでしょう? そんな春ちゃんの姿を見て、きっと助けたいって、思っていたはずよ。だけど、春ちゃんのいろんな面を見過ぎて、憎むべきか救うべきか、分からなくなってしまったの。でも間違いなく、あなたは心の奥底で、春ちゃんが好きなのよ」
 だから、殺して救うなんて、歪んでねじ曲がった結論に達してしまった。春姫の歪んだ望みを、簡単に受け入れてしまった。
 純粋に春姫を想う気持ちを憎しみで包み込んでしまわなければ、朝は壊れてしまいそうだったのだろう。だから、朝自身の命を、心を守るために、正しい感情を捨て去った。
 でももう、逃げ続ける必要はない。
「自分に嘘を吐かないで。椿のことは、気にしなくていいから……」
 朝は好きだ。これからもずっと一緒にいたい。
 だけど、もし春姫を救うために朝の存在が必要で、そのために朝と別れなければならなくなるとしたら。
 椿は身を引こうと決心した。
 立壺の言った通りになってしまった。
 誰も傷付けずに平穏に事を済ませるのならば、椿が身を引くのが最も確実だ。
 椿さえ諦めれば、二人はうまくいく。そう思えた。
 椿は朝に、地上に降ろすように指示した。朝はまだ深く考え込んでいたが、大人しく従って、椿を地上に降ろした。
 縁側で座り込んでいる春姫に近付く。春姫はまた、泣いていた。
「春ちゃん、ごめんね、独りぼっちにして……」
 もう、二度と寂しい思いはしない。大丈夫だからと言い聞かせる。
 春姫は顔を上げた。その瞳には、今までとは違う決意のこもった光が宿っていた。
「……椿、朝月夜を連れて、早くこの屋敷を出よ」
 春姫は柱の隅に立てかけられた槍を手に取り、刃先を自身の喉元に突き付けた。
「何をするつもり? やめて!」
 椿は慌てて、勢いよく春姫から槍を取り上げる。槍の刃先は春姫の喉の皮を薄く切り裂いたが、他は何事もなく済んだ。
 武器を奪われた春姫は体力が尽きたらしく、床に座り込んで呼吸を荒げた。
「もう、抑えられない。今に春は、春でいられなくなる。どうせ終わる命であるならば、春は春のままで死んで逝きたい」
 春姫は必死で襟元を抑えつけ、強く握りしめる。春姫の体を、どす黒い邪気が覆っていく。その様子が、力を失った椿にも、はっきりと見えた。
「春が死ぬと同時に、中の悪鬼が暴れ出すかもしれないわ。だから、できるだけ遠くに逃げて。其方たちの手を汚させるつもりはない。全て、春が一人でけじめをつけるから」
「させないわ、そんなこと! 悪鬼にも暴れさせない、あなたも死なせない!」
 椿は春姫に飛びついて、強く抱きしめた。
 物理的に抑えつけたって、悪鬼の浸食を防げるとは思わない。それでも、少しでも抑えられるのなら、どんなことでもいい、力になりたい。
 椿は必死で、春姫を救いたいと念じ続けた。
 次第に、春姫の動機も治まり、椿の姿を見て、軽く笑った。
「我儘じゃな、其方は」
 その笑顔を受けて、椿にも笑う余裕が生まれた。
「そうよ、椿は我儘なの。どんなに周りの人を困らせたって、巻き込んだって、この考えを曲げる気はないんだから」
 春姫は、根負けした、といった様子で、体の力を抜いた。
 雰囲気で分かる。もう、春姫は自分自身を苦しめない、傷つけない。
 自ら死を選ぶ真似なんて、しないはずだ。
 ようやく、春姫の自我を取り戻せた気がした。
 安堵したのも束の間。
 暗闇に染まる屋敷を、不穏な空気が取り巻き始めた。
「何だ? この気配は……」
 真っ先に異変を感じた朝が、精神を研ぎ澄ませる。
 直後、上空に稲光みたいな光の線が走り、薄いガラスが割れるような、激しい音が響き渡った。
「結界が、破れた……」
「何事じゃ! 姫様は無事か!」
 その異変を察知し、板取を筆頭に、屋敷の女中たちが明かりを手に次々と外に飛び出してくる。
 その明かりに照らされた、見慣れない人影が、上空に漂っていた。
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