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第三部 四季姫革命の巻
第二十一章 平安彷徨 1
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一
みぞおちを一撃されて、気を失った榎は、夢か現実か、よく分からない光景を脳裏で見ていた。
倒れた榎を、夏姫が背に担いで、どこかに運んでいく。「女子にしては大きいな」と呟く夏姫の声が、すぐ耳元で聞こえた。
榎は遠ざかっていく小さな集落の景色を、ぼんやりと眺めていた。
ふと、さっきまでいた広場に、誰かが立っている。
十二単を身に纏った、少女だった。歳は榎と同じくらいだろうか。小柄で、可愛らしいお雛様みたいな女の子だ。
何か言いたそうな表情で、じっと夏姫の背を見つめている。
――紬姫?
一瞬、そう思ったが、次第に違うと気付く。背丈は小柄でよく似ているが、髪は真っ黒だし、何より雰囲気が異なる。
あの少女は、誰だろう。何を、訴えかけようとしているのだろう。
榎は手を伸ばそうと試みるが、双方の距離はどんどん広がり、やがて少女の姿は、消えて見えなくなった。
まるで幻みたいに、煙となって消えた気もしたが、はっきり確認する余裕もなく、榎の意識は深い闇に落ちていった。
次に目を覚ました時、榎は畳の上に寝かされていた。御簾で囲まれた、狭い部屋だ。体の上には、着物がかけられている。
「ここは……」
体を起こして、呆然とする。腹を殴られた痛みはもうないが、触れると何となく違和感がある。
「目が覚めたか? 手荒な真似をして、済まなかったな」
御簾を捲って、中に人が入ってきた。
その姿を見ると共に、榎の目も一気に醒める。
榎によく似た風貌の女性。
夢じゃなかった。
榎の前世の姿――夏姫。
「ここは、琵琶湖の側にある、私の知人の屋敷だ。人は払ってあるから、誰もいない。陰陽師の屋敷故、少々怪しい道具も転がっているが、我慢してくれ」
御簾の外に這い出ると、広い和室になっていた。部屋のあちこちに巻物が散乱し、地球儀みたいな丸い物体や、石や棒、梵字の呪文が書き記された板など、様々なもので溢れかえっていた。
以前、椿に借りた漫画で読んで、何となく知っている。陰陽師が術を研究したり、天体の様子を調べる時に使う道具だ。
陰陽師の屋敷に出入りする、夏姫の術を使う、榎そっくりの人物――。
間違いないと確信はしていたが、本人の口からちゃんと聞きたい。
榎は再度、問い質した。
「あなたは、やっぱり夏姫なんですよね!?」
夏姫は困ったっ表情で、眉を顰めた。
「やはり、私を知っているのか。聞き間違いでは、なかったようだな。妖気は感じぬし、ただの村娘にしか見えぬのだが……。前に、屋敷に出入りしておった者か?」
素性を尋ねられると、今度は榎が困る。
「いや、あたしは、何て言ったらいいか……。説明が、難しいんですけれど」
まさか、時を渡って未来から来た、なんて説明しても、理解してもらえるかどうか。
夏姫も陰陽師だし、時渡りの術については知っているかもしれない。だが、何の証拠もない以上、榎の話だけで信じてもらえる自信はなかった。
せめて、夏姫に変身できればよかったのに。どうして急に、力が使えなくなったのだろう。
無理な力を使って、時間の流れを捻じ曲げた反動だろうか。
「まあ、誰でも構わぬよ。其方から、敵意は感じない」
悩んで黙り込んでいると、夏姫は軽く息を吐き、鼻で笑った。
榎が何者なのか、怪しんではいるが、警戒はしていない様子だ。敵意を向けられているわけではないので、その辺りは安心できた。
「私は、京中のあらゆる者共から追われる身でね。役人、陰陽師、妖怪――。連中ときたら、私と関わった者は見境なく皆殺しだ。其方がどこかで私と会った、などと話でもすれば、首を切り落とされかねんよ」
夏姫の話を聞き、榎はふと、違和感に気付いた。
命を狙われて逃げ回っているのは、夏姫のはずなのに。当の夏姫は遠回しに、榎の身を案じてくれている。
「もしかして、あたしの命が危ないから、助けてくださったんですか?」
「放っておくわけにも、いかないだろう。私のせいで死なれては、後味が悪い」
ばつが悪そうに、夏姫は苦笑いした。
榎は、胸の奥から込み上げてくる、温かな感情に涙が滲んだ。
偶然遭遇した、どこの誰とも分からない榎を、妖怪たちだけでなく、あらゆる敵から助けてくれている。
榎から見ても、夏姫に悪意は感じ取れない。直感的に、とても優しい人なのだと思えた。
「本当に、ありがとうございます」
素直にお礼を伝えると、夏姫は照れ臭そうに、微笑んで見せた。
「この屋敷にいれば、誰にも襲われずに済む。しばらく、身を隠していなさい」
お言葉に甘えたいところではあるが、榎には時間がない。
相手が夏姫なら、榎が平安時代にやってきた目的を果たすために、何か力になってくれるかもしれないし、有益な情報が得られるかもしれない。
榎は夏姫に詰め寄り、一番気懸りな内容を尋ねた。
「あの! 紬姫は、無事ですか?」
夏姫はまた、少し表情を強張らせたが、もう榎が何を知っていても驚かん、と言わんばかりに、いちいち問い質してはこなかった。
「さあ。もう、随分と会っていない」
「他の、四季姫たちは? あなたと同じで、伝師の人たちに追われているんじゃ」
「ああ。だが、別々に逃げたからな。そう易々と死ぬ連中ではないだろうが、息災かと訊かれると、何ともいえないね」
どこで誰がどんな状態であるのか、何も分からない。
だったら尚更、椿たちが心配だ。この時代の四季姫たちと間違えられたり、榎と同じく四季姫について詳しく知っている人間として、殺されてしまうかもしれない。
紬姫だって、もたもたしているうちに、語に――。
「どうしよう。早く、助けに行かなくちゃいけないのに……」
榎は焦る。だが、どこに行けばいいのかも、分からない。夏姫の力が使えなくなっているせいか、みんなの気配すら、感じ取れなくなっていた。
「紬姫に関して言えば、別に誰かから命を狙われる、といった危惧はなかろう。あれは、我らの命を狙う側の人間なのだから」
夏姫は目を細め、少し苛立った様子で語った。
「四季姫は伝師を謀った。そのため、伝師の怒りを買って反逆者とされた。挙句の果てには、帝の身をも脅かそうとした賊として濡れ衣を着せられ、京の全ての者から追われる身となった。――我々を亡き者としようとしている首謀者こそが、紬姫なのだ」
「その話は、聞いて知っています。あなたたちは、本当は平安京を、この世界の平和を、紬姫の命を守るために、鬼閻を封印したんでしょう?」
自嘲する夏姫に、榎は四季姫たちの行動の正しさを説いた。榎としては、夏姫たちの行いを肯定して、理解しているのだと分かって貰いたかっただけなのだが、その考えは通じなかった。
突然、夏姫の纏う空気が豹変した。榎が驚いて竦んでいる間に剣を抜き、榎の首筋に切っ先を触れさせてきた。
「お前は、本当に何者だ? ただの村娘にしては、多くを知り過ぎてはおらぬか?」
冷たい刃の感触。榎の心臓が跳ね上がる。全身から汗が吹き出し、瞬きもできなかった。
すぐ眼前に迫る夏姫の顔は怒りに歪み、殺意に満ちていた。邪気さえも纏っているのではないかと思えるほどの、恐ろしさだった。
情報を表に出し過ぎた。四季姫や伝師について詳しすぎる榎は、夏姫の中で得体の知れない危険な人物として映ったのだろう。榎の持つ知識は、夏姫が笑って聞いていられる許容範囲を、超えてしまったらしい。
「答えろ。返答次第では、生かして帰すわけにいかぬ」
ここまで警戒されては、適当にはぐらかしたり、嘘を言っても、通用しない。
一か八か、本気で真実を話してみよう。
榎は、夏姫の本来の親切心と誠実さに賭けた。
「言っても、信じてもらえるか分からないけれど、あたしは、あなたの生まれ変わりです」
榎は必死で、喉の奥から声を絞り出す。夏姫の表情から、少し殺気が消えた。
「あなたは、この時代で命を落とし、千年後に再び、夏姫として蘇った。その姿が、あたしです。あたしは、未来の夏姫なんです!」
何とか、最後まで言いきれた。息を切らせて反応を待っていると、夏姫は突然、吹き出した。
「何を言い出すかと思えば! もっと、ましな命乞いの言葉くらい、いくらでもあるだろうに」
夏姫は大声で笑う。剣を榎から引き下げ、腹を抱えて爆笑していた。
よほど、榎の話が滑稽だったのだろう。だが、榎にとってみれば、そんな態度で済まされては困る。
「笑い話じゃなくて、本当なんです。麿……月麿を知っていますか! あの人が時を渡って、千年後にやって来たんです。そして、あたしと出会って、夏姫の力を覚醒させて……」
「あの肉団子の名まで出してくるか。法螺話にしては、よくできているな」
更に話を広げるが、ますます笑い話としか取り合ってもらえない。今、この場所に月麿がいてくれれば、もっと早くケリがついただろうか。
いや、夏姫の物言いから考えると、月麿でさえ、何を言っても信じなさそうにも思えた。
ひとしきり笑った後、真面目な顔を崩さずにいた榎を見て、夏姫も表情を引き締め直した。
「――ならば、力で示せ。其方が夏姫だと申すなら、夏の季節の力を以て、あらゆる神通力を使いこなせるはず」
痛いところを突かれた。それができるなら、初めから苦労はしていない。
「それが、この時代に来てから、急に力が使えなくなって」
小さな声で返すと、夏姫は退屈そうな息を吐いた。
「法螺話も尽きたか。もう少し、楽しませてくれるかと思ったが」
もう、法螺話でも構わない。夏姫が信じてくれないなら、それでもいい。
とにかく聞けるだけの情報を得ようと、榎は再度、夏姫に詰め寄った。
「お願いです、紬姫がどこにいるのか、教えてください。あたしはどうしても、紬姫に会って、伝えたい話があるんです」
「奴は既に、悪鬼の化身だ。会ったところで、誰の言葉にも耳を貸さぬ」
「違う! 紬姫は人間だ、ちゃんと血の通った、人を思いやれる人だ!」
榎は声を荒げた。
確かに、紬姫の数々の行いは非道であり、残酷で自己中心的だ。榎だって、下手をすれば紬姫の行動によって殺されていたかもしれない。
だが、榎は実際に未来の紬姫に会っている。この目で実際に見て会話を交わして、榎自身が感じた印象は、決して悪ではなかった。
ただ、我が子を助けたいと必死に運命と戦う、弱くも強い、立派な母親だった。
「急いで助けないと、紬姫が死んでしまうんです!」
「奴が死ぬなら、どうだと言うのだ? 我々にとっては、命を狙う敵がいなくなるのだから、喜ばしい話だ」
「紬姫が、四季姫の命を狙う厄介な存在だということは、知っています。あなたたちにとっては迷惑な話かもしれないけれど、あたしは絶対に、紬姫を助けなくちゃいけない。そうしなくちゃ、この時代にやってきた意味がないんです!」
「なぜ、其方はそこまで必死に、紬姫を守ろうとする?」
「――大切な人たちを、助けるため。未来を、あたしたちの暮らす時代を、守るため」
脳裏に、たくさんの人たちの姿が浮かぶ。名古屋の両親、兄弟。京都に来てからお世話になった人たち。四季姫のみんな、了封寺の人々。朝や宵、深く関わった妖怪、悪鬼たち。奏。そして――綴。
榎が生きてきた環境を形成する、全てを守りたい。今まで築き上げてきたものを、流れてきた時間の続きを、失いたくない。
気付けば、榎の頬を涙が伝っていた。
震える榎の肩を、夏姫は優しく撫でた。涙を指で拭い、榎の顔を覗き込んできた。
「守る者のある人間の瞳は、かように美しいものであったのだな。久しく忘れていた、笑って済まなかったな」
夏姫は、優しく穏やかな笑みを浮かべていた。
榎の必死の思いが通じた。もう、敵意も嘲りも、夏姫の態度からは見られなかった。
夏姫に見つめられると、不思議と顔が熱くなり、心臓の鼓動が早くなる。
相手は女の人なのに、妙に緊張してしまう。
綴と出会ったばかりの頃の感じに、よく似ている。不思議な類似だ。
夏姫の瞳も、強い闘志に満ちて輝いていた。
榎と同じ。まだ、誰かを助けたいと、守りたいと思っている輝きではないのだろうか。
そう思ったが、そんな眼光とは裏腹に、夏姫の表情は疲れが濃く、諦めの雰囲気を漂わせていた。
「其方の力になってやりたいところだが、紬姫に会うことは叶わぬのだよ。さっきも言ったが、ここは近江。平安の京の外だ。私は紬姫の手を逃れるために、命からがら、京から抜け出してきたばかりなのだ」
この屋敷のある場所は、琵琶湖のほとりだと言っていた。近江というと、滋賀県だ。京都中心部には、山を越えるか、海沿いの街道を迂回して南下しなければ辿り着けない。かなり不便な場所に飛ばされてきたらしい。
当然ながら電車が走っている訳もなし、道だって整備されていないから、相当の日数をかけなければ辿り着けないだろう。いや、途中で力尽き、辿り着けない可能性だってある。
「仮に京に戻ったとて、関所の門は既に閉ざされ、お尋ね者である私には、京に戻る術がない。其方とて、容易には入れぬよ。皆、殺気立っているから、外から来る者への警戒も強い」
「平安京に行けない。中に、入れない……」
榎の体から、力が抜けた。
呟くと、夏姫は控えめに頷いた。
「其方も、己の命を無駄にはするな。守りたいものがいる気持ちは分かるが、まずは一人でも生き残れたことを、幸いと思うしかないよ」
力なく告げて、夏姫は部屋を出て行った。
残された榎は途方に暮れた。
「どうしよう。せっかく平安時代に来れても、変身できないし、京にも入れないんじゃ……!」
こんな場所で暇を持て余していても、時間の無駄だ。
最悪の事態に榎は苛立ち、畳を拳で殴りつけた。
その反動で巻物の山が崩れる。下敷きになった榎は、中から抜け出して後片付けをするために、更に無駄な時間を費やす羽目になった。
みぞおちを一撃されて、気を失った榎は、夢か現実か、よく分からない光景を脳裏で見ていた。
倒れた榎を、夏姫が背に担いで、どこかに運んでいく。「女子にしては大きいな」と呟く夏姫の声が、すぐ耳元で聞こえた。
榎は遠ざかっていく小さな集落の景色を、ぼんやりと眺めていた。
ふと、さっきまでいた広場に、誰かが立っている。
十二単を身に纏った、少女だった。歳は榎と同じくらいだろうか。小柄で、可愛らしいお雛様みたいな女の子だ。
何か言いたそうな表情で、じっと夏姫の背を見つめている。
――紬姫?
一瞬、そう思ったが、次第に違うと気付く。背丈は小柄でよく似ているが、髪は真っ黒だし、何より雰囲気が異なる。
あの少女は、誰だろう。何を、訴えかけようとしているのだろう。
榎は手を伸ばそうと試みるが、双方の距離はどんどん広がり、やがて少女の姿は、消えて見えなくなった。
まるで幻みたいに、煙となって消えた気もしたが、はっきり確認する余裕もなく、榎の意識は深い闇に落ちていった。
次に目を覚ました時、榎は畳の上に寝かされていた。御簾で囲まれた、狭い部屋だ。体の上には、着物がかけられている。
「ここは……」
体を起こして、呆然とする。腹を殴られた痛みはもうないが、触れると何となく違和感がある。
「目が覚めたか? 手荒な真似をして、済まなかったな」
御簾を捲って、中に人が入ってきた。
その姿を見ると共に、榎の目も一気に醒める。
榎によく似た風貌の女性。
夢じゃなかった。
榎の前世の姿――夏姫。
「ここは、琵琶湖の側にある、私の知人の屋敷だ。人は払ってあるから、誰もいない。陰陽師の屋敷故、少々怪しい道具も転がっているが、我慢してくれ」
御簾の外に這い出ると、広い和室になっていた。部屋のあちこちに巻物が散乱し、地球儀みたいな丸い物体や、石や棒、梵字の呪文が書き記された板など、様々なもので溢れかえっていた。
以前、椿に借りた漫画で読んで、何となく知っている。陰陽師が術を研究したり、天体の様子を調べる時に使う道具だ。
陰陽師の屋敷に出入りする、夏姫の術を使う、榎そっくりの人物――。
間違いないと確信はしていたが、本人の口からちゃんと聞きたい。
榎は再度、問い質した。
「あなたは、やっぱり夏姫なんですよね!?」
夏姫は困ったっ表情で、眉を顰めた。
「やはり、私を知っているのか。聞き間違いでは、なかったようだな。妖気は感じぬし、ただの村娘にしか見えぬのだが……。前に、屋敷に出入りしておった者か?」
素性を尋ねられると、今度は榎が困る。
「いや、あたしは、何て言ったらいいか……。説明が、難しいんですけれど」
まさか、時を渡って未来から来た、なんて説明しても、理解してもらえるかどうか。
夏姫も陰陽師だし、時渡りの術については知っているかもしれない。だが、何の証拠もない以上、榎の話だけで信じてもらえる自信はなかった。
せめて、夏姫に変身できればよかったのに。どうして急に、力が使えなくなったのだろう。
無理な力を使って、時間の流れを捻じ曲げた反動だろうか。
「まあ、誰でも構わぬよ。其方から、敵意は感じない」
悩んで黙り込んでいると、夏姫は軽く息を吐き、鼻で笑った。
榎が何者なのか、怪しんではいるが、警戒はしていない様子だ。敵意を向けられているわけではないので、その辺りは安心できた。
「私は、京中のあらゆる者共から追われる身でね。役人、陰陽師、妖怪――。連中ときたら、私と関わった者は見境なく皆殺しだ。其方がどこかで私と会った、などと話でもすれば、首を切り落とされかねんよ」
夏姫の話を聞き、榎はふと、違和感に気付いた。
命を狙われて逃げ回っているのは、夏姫のはずなのに。当の夏姫は遠回しに、榎の身を案じてくれている。
「もしかして、あたしの命が危ないから、助けてくださったんですか?」
「放っておくわけにも、いかないだろう。私のせいで死なれては、後味が悪い」
ばつが悪そうに、夏姫は苦笑いした。
榎は、胸の奥から込み上げてくる、温かな感情に涙が滲んだ。
偶然遭遇した、どこの誰とも分からない榎を、妖怪たちだけでなく、あらゆる敵から助けてくれている。
榎から見ても、夏姫に悪意は感じ取れない。直感的に、とても優しい人なのだと思えた。
「本当に、ありがとうございます」
素直にお礼を伝えると、夏姫は照れ臭そうに、微笑んで見せた。
「この屋敷にいれば、誰にも襲われずに済む。しばらく、身を隠していなさい」
お言葉に甘えたいところではあるが、榎には時間がない。
相手が夏姫なら、榎が平安時代にやってきた目的を果たすために、何か力になってくれるかもしれないし、有益な情報が得られるかもしれない。
榎は夏姫に詰め寄り、一番気懸りな内容を尋ねた。
「あの! 紬姫は、無事ですか?」
夏姫はまた、少し表情を強張らせたが、もう榎が何を知っていても驚かん、と言わんばかりに、いちいち問い質してはこなかった。
「さあ。もう、随分と会っていない」
「他の、四季姫たちは? あなたと同じで、伝師の人たちに追われているんじゃ」
「ああ。だが、別々に逃げたからな。そう易々と死ぬ連中ではないだろうが、息災かと訊かれると、何ともいえないね」
どこで誰がどんな状態であるのか、何も分からない。
だったら尚更、椿たちが心配だ。この時代の四季姫たちと間違えられたり、榎と同じく四季姫について詳しく知っている人間として、殺されてしまうかもしれない。
紬姫だって、もたもたしているうちに、語に――。
「どうしよう。早く、助けに行かなくちゃいけないのに……」
榎は焦る。だが、どこに行けばいいのかも、分からない。夏姫の力が使えなくなっているせいか、みんなの気配すら、感じ取れなくなっていた。
「紬姫に関して言えば、別に誰かから命を狙われる、といった危惧はなかろう。あれは、我らの命を狙う側の人間なのだから」
夏姫は目を細め、少し苛立った様子で語った。
「四季姫は伝師を謀った。そのため、伝師の怒りを買って反逆者とされた。挙句の果てには、帝の身をも脅かそうとした賊として濡れ衣を着せられ、京の全ての者から追われる身となった。――我々を亡き者としようとしている首謀者こそが、紬姫なのだ」
「その話は、聞いて知っています。あなたたちは、本当は平安京を、この世界の平和を、紬姫の命を守るために、鬼閻を封印したんでしょう?」
自嘲する夏姫に、榎は四季姫たちの行動の正しさを説いた。榎としては、夏姫たちの行いを肯定して、理解しているのだと分かって貰いたかっただけなのだが、その考えは通じなかった。
突然、夏姫の纏う空気が豹変した。榎が驚いて竦んでいる間に剣を抜き、榎の首筋に切っ先を触れさせてきた。
「お前は、本当に何者だ? ただの村娘にしては、多くを知り過ぎてはおらぬか?」
冷たい刃の感触。榎の心臓が跳ね上がる。全身から汗が吹き出し、瞬きもできなかった。
すぐ眼前に迫る夏姫の顔は怒りに歪み、殺意に満ちていた。邪気さえも纏っているのではないかと思えるほどの、恐ろしさだった。
情報を表に出し過ぎた。四季姫や伝師について詳しすぎる榎は、夏姫の中で得体の知れない危険な人物として映ったのだろう。榎の持つ知識は、夏姫が笑って聞いていられる許容範囲を、超えてしまったらしい。
「答えろ。返答次第では、生かして帰すわけにいかぬ」
ここまで警戒されては、適当にはぐらかしたり、嘘を言っても、通用しない。
一か八か、本気で真実を話してみよう。
榎は、夏姫の本来の親切心と誠実さに賭けた。
「言っても、信じてもらえるか分からないけれど、あたしは、あなたの生まれ変わりです」
榎は必死で、喉の奥から声を絞り出す。夏姫の表情から、少し殺気が消えた。
「あなたは、この時代で命を落とし、千年後に再び、夏姫として蘇った。その姿が、あたしです。あたしは、未来の夏姫なんです!」
何とか、最後まで言いきれた。息を切らせて反応を待っていると、夏姫は突然、吹き出した。
「何を言い出すかと思えば! もっと、ましな命乞いの言葉くらい、いくらでもあるだろうに」
夏姫は大声で笑う。剣を榎から引き下げ、腹を抱えて爆笑していた。
よほど、榎の話が滑稽だったのだろう。だが、榎にとってみれば、そんな態度で済まされては困る。
「笑い話じゃなくて、本当なんです。麿……月麿を知っていますか! あの人が時を渡って、千年後にやって来たんです。そして、あたしと出会って、夏姫の力を覚醒させて……」
「あの肉団子の名まで出してくるか。法螺話にしては、よくできているな」
更に話を広げるが、ますます笑い話としか取り合ってもらえない。今、この場所に月麿がいてくれれば、もっと早くケリがついただろうか。
いや、夏姫の物言いから考えると、月麿でさえ、何を言っても信じなさそうにも思えた。
ひとしきり笑った後、真面目な顔を崩さずにいた榎を見て、夏姫も表情を引き締め直した。
「――ならば、力で示せ。其方が夏姫だと申すなら、夏の季節の力を以て、あらゆる神通力を使いこなせるはず」
痛いところを突かれた。それができるなら、初めから苦労はしていない。
「それが、この時代に来てから、急に力が使えなくなって」
小さな声で返すと、夏姫は退屈そうな息を吐いた。
「法螺話も尽きたか。もう少し、楽しませてくれるかと思ったが」
もう、法螺話でも構わない。夏姫が信じてくれないなら、それでもいい。
とにかく聞けるだけの情報を得ようと、榎は再度、夏姫に詰め寄った。
「お願いです、紬姫がどこにいるのか、教えてください。あたしはどうしても、紬姫に会って、伝えたい話があるんです」
「奴は既に、悪鬼の化身だ。会ったところで、誰の言葉にも耳を貸さぬ」
「違う! 紬姫は人間だ、ちゃんと血の通った、人を思いやれる人だ!」
榎は声を荒げた。
確かに、紬姫の数々の行いは非道であり、残酷で自己中心的だ。榎だって、下手をすれば紬姫の行動によって殺されていたかもしれない。
だが、榎は実際に未来の紬姫に会っている。この目で実際に見て会話を交わして、榎自身が感じた印象は、決して悪ではなかった。
ただ、我が子を助けたいと必死に運命と戦う、弱くも強い、立派な母親だった。
「急いで助けないと、紬姫が死んでしまうんです!」
「奴が死ぬなら、どうだと言うのだ? 我々にとっては、命を狙う敵がいなくなるのだから、喜ばしい話だ」
「紬姫が、四季姫の命を狙う厄介な存在だということは、知っています。あなたたちにとっては迷惑な話かもしれないけれど、あたしは絶対に、紬姫を助けなくちゃいけない。そうしなくちゃ、この時代にやってきた意味がないんです!」
「なぜ、其方はそこまで必死に、紬姫を守ろうとする?」
「――大切な人たちを、助けるため。未来を、あたしたちの暮らす時代を、守るため」
脳裏に、たくさんの人たちの姿が浮かぶ。名古屋の両親、兄弟。京都に来てからお世話になった人たち。四季姫のみんな、了封寺の人々。朝や宵、深く関わった妖怪、悪鬼たち。奏。そして――綴。
榎が生きてきた環境を形成する、全てを守りたい。今まで築き上げてきたものを、流れてきた時間の続きを、失いたくない。
気付けば、榎の頬を涙が伝っていた。
震える榎の肩を、夏姫は優しく撫でた。涙を指で拭い、榎の顔を覗き込んできた。
「守る者のある人間の瞳は、かように美しいものであったのだな。久しく忘れていた、笑って済まなかったな」
夏姫は、優しく穏やかな笑みを浮かべていた。
榎の必死の思いが通じた。もう、敵意も嘲りも、夏姫の態度からは見られなかった。
夏姫に見つめられると、不思議と顔が熱くなり、心臓の鼓動が早くなる。
相手は女の人なのに、妙に緊張してしまう。
綴と出会ったばかりの頃の感じに、よく似ている。不思議な類似だ。
夏姫の瞳も、強い闘志に満ちて輝いていた。
榎と同じ。まだ、誰かを助けたいと、守りたいと思っている輝きではないのだろうか。
そう思ったが、そんな眼光とは裏腹に、夏姫の表情は疲れが濃く、諦めの雰囲気を漂わせていた。
「其方の力になってやりたいところだが、紬姫に会うことは叶わぬのだよ。さっきも言ったが、ここは近江。平安の京の外だ。私は紬姫の手を逃れるために、命からがら、京から抜け出してきたばかりなのだ」
この屋敷のある場所は、琵琶湖のほとりだと言っていた。近江というと、滋賀県だ。京都中心部には、山を越えるか、海沿いの街道を迂回して南下しなければ辿り着けない。かなり不便な場所に飛ばされてきたらしい。
当然ながら電車が走っている訳もなし、道だって整備されていないから、相当の日数をかけなければ辿り着けないだろう。いや、途中で力尽き、辿り着けない可能性だってある。
「仮に京に戻ったとて、関所の門は既に閉ざされ、お尋ね者である私には、京に戻る術がない。其方とて、容易には入れぬよ。皆、殺気立っているから、外から来る者への警戒も強い」
「平安京に行けない。中に、入れない……」
榎の体から、力が抜けた。
呟くと、夏姫は控えめに頷いた。
「其方も、己の命を無駄にはするな。守りたいものがいる気持ちは分かるが、まずは一人でも生き残れたことを、幸いと思うしかないよ」
力なく告げて、夏姫は部屋を出て行った。
残された榎は途方に暮れた。
「どうしよう。せっかく平安時代に来れても、変身できないし、京にも入れないんじゃ……!」
こんな場所で暇を持て余していても、時間の無駄だ。
最悪の事態に榎は苛立ち、畳を拳で殴りつけた。
その反動で巻物の山が崩れる。下敷きになった榎は、中から抜け出して後片付けをするために、更に無駄な時間を費やす羽目になった。
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【1章】飯テロ/スイーツテロ・局地戦争・飢饉回避
【2章】王国発展・vs.ヒロイン
【予定】全面戦争回避、婚約破棄、陰謀?、養い子の子育て、恋愛、ざまぁ、などなど。
※〈私〉=〈わたし〉と読んで頂きたいと存じます。
※恋愛相手とはまだ出会っていません(年の差)
ブログ https://tenseioujo.blogspot.com/
Pinterest https://www.pinterest.jp/chankoroom/
※作中のイラストは画像生成AIで作成したものです。
嫌われ者の僕
みるきぃ
BL
学園イチの嫌われ者で、イジメにあっている佐藤あおい。気が弱くてネガティブな性格な上、容姿は瓶底眼鏡で地味。しかし本当の素顔は、幼なじみで人気者の新條ゆうが知っていて誰にも見せつけないようにしていた。学園生活で、あおいの健気な優しさに皆、惹かれていき…⁈
学園イチの嫌われ者が総愛される話。
嫌われからの愛されです。ヤンデレ注意。
※他サイトで書いていたものを修正してこちらで書いてます。
とある文官のひとりごと
きりか
BL
貧乏な弱小子爵家出身のノア・マキシム。
アシュリー王国の花形騎士団の文官として、日々頑張っているが、学生の頃からやたらと絡んでくるイケメン部隊長であるアベル・エメを大の苦手というか、天敵認定をしていた。しかし、ある日、父の借金が判明して…。
基本コメディで、少しだけシリアス?
エチシーンところか、チュッどまりで申し訳ございません(土下座)
ムーンライト様でも公開しております。
やり直せるなら、貴方達とは関わらない。
いろまにもめと
BL
俺はレオベルト・エンフィア。
エンフィア侯爵家の長男であり、前世持ちだ。
俺は幼馴染のアラン・メロヴィングに惚れ込み、恋人でもないのにアランは俺の嫁だと言ってまわるというはずかしい事をし、最終的にアランと恋に落ちた王太子によって、アランに付きまとっていた俺は処刑された。
処刑の直前、俺は前世を思い出した。日本という国の一般サラリーマンだった頃を。そして、ここは前世有名だったBLゲームの世界と一致する事を。
こんな時に思い出しても遅せぇわ!と思い、どうかもう一度やり直せたら、貴族なんだから可愛い嫁さんと裕福にのんびり暮らしたい…!
そう思った俺の願いは届いたのだ。
5歳の時の俺に戻ってきた…!
今度は絶対関わらない!
彼の理想に
いちみやりょう
BL
あの人が見つめる先はいつも、優しそうに、幸せそうに笑う人だった。
人は違ってもそれだけは変わらなかった。
だから俺は、幸せそうに笑う努力をした。
優しくする努力をした。
本当はそんな人間なんかじゃないのに。
俺はあの人の恋人になりたい。
だけど、そんなことノンケのあの人に頼めないから。
心は冗談の中に隠して、少しでもあの人に近づけるようにって笑った。ずっとずっと。そうしてきた。
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