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 ――芥、明良先生?

 夕方前の本屋でそう筆名を呼ばれたとき、明良は目を見張った。小説家のほとんどは見た端から忘れるような平凡な顔だ。著者近影やインタビューで顔を出してはいたが、町中で気づかれたのははじめてだった。

 けれど、彼は呼んだ。

 若い、とまず思ったのを覚えている。明良よりわずかに長身だが、年齢は十近く下だろう。成長期の骨ばった体を確認せずとも、よく見かける制服でわかることだ。

 姿を見つけて、慌てて棚から取ってきたのかもしれない。その手には明良の小説が数冊抱えられていた。

 ――ファ、ファンです。毎晩読んでます。あっ、急にごめんなさい。仕事の邪魔になってますか。すごい好きで、いつも読んでて、あの、サインとかもらえますか。あの……。

 それだけだったら、明良は愛想笑いを浮かべ慣れないサインをして別れただろう。

 彼がボロボロと泣き出さなければ、そうしていた。

 ――ごめんなさい、ちょっといろいろあって、芥先生に会えてびっくりしただけで、気にしないでください。

 そう笑った瞳の奥にしずむ泥。機械的な笑みの奥の死んだ色に気づいたから、明良は彼を喫茶店に誘った。







「…………」

 明良は目覚めてまず四つん這いになった。うっかり身を起こせば机の天板に頭をぶつける。明良は本棚だらけの仕事部屋の、机の下でタオルケットを抱いて寝ていた。

 修羅場だとか、行き詰まっているわけじゃない。いつもこうだ。純也は使うたびシーツを取り替えてくれるけれど、明良はベッドをひとりで使ったことがない。

「ふあ……」

 夢を見ていた気がするけれど、気のせいだ。明良は物心ついてから熟睡したことも夢を見たこともない。

 ただ机の下から這い出すとき、正面にある本棚が見えた。純也を思い出したのはついこの間そこで新刊を読んでいた記憶のせいだろう。

 純也。

 あくび混じりに立ち上がり、明良は一番近くの棚の前に立つ。並んだ本から選ぶのは見飽きた自作だった。

『悪童』

 どうしてだろう。スツールのように手頃な高さの板に腰掛け、馴染んだ文面を追いながら思うのは純也のことだった。

 ――デビュー作が一番好きです。

 初対面のあの日、喫茶店でテーブルを挟んだとき、純也は全作品への感想を語った。それはファンというよりマニアの粋だったと思う。書いた本人でも怖気づくような熱量だったが、特にこのデビュー作についてが一番目の色を変えていた。

 どうにか文庫化してもらえたそれを、純也は単行本とあわせて四冊持っているらしい。出先で急に読みなくなって三度買ったのだと言っていた。いいお客様だ。

 だが明良はその言葉で、見た目は何不自由ない優等生である彼の地獄を知った。

 明良の作風は暗いものだ。薄暗い、という言葉では足りない。悪意や、絶望や、ドロドロとした怨念。

 編集という濾過のないデビュー作は最も暗い。ねちねちと続く虐待描写と死んでいく心の表現。いたずらに与えられる希望はひとつ残らず潰されて、最後は洗脳された虐待被害者が自分から助けを絶つという救いのないエンディングだ。

 一度読むくらいはいい。仕事が順調で、人間関係に恵まれていて、金銭の不安がないときに。

 何かひとつでも欠けているなら絶対に手が伸びない本だ。負の作風に飲まれてしまう。

 それを、毎晩。

 そんな人は飽きるほど幸福に慣れているか、飽きるほど絶望に慣れているかのどちらかだ。そして彼は、もちろん後者だ。

 だから明良は彼に抱かれている。

「…………」

 明良はため息を付き本を閉じた。とはいえまさかファンサービスであんなことを許しているわけではない。

 純也は郡を抜いているが、彼が唯一のマニアというわけではないのだ。芥明良には結構コアなファンがいる。実は珍しいファンレターというものも、明良は何通かもらったことがある。

 けれど――。

「せまく深くじゃあ、稼げないんだよなあ……」

 呟いてしまうのは仕事の愚痴だ。

 明良の作風は大衆受け――ひいては大手出版社受けしない。本を出してくれるのは光林出版という小さなところなのだが、最近は経営が厳しいらしく数冊前から初版がじわじわ削られている。

 筆は早いのでコラムや解説仕事などを受け暮らしているが、なにしろファンに「怨念がこもっている」と言わせる作風だ、よく拾ってくれたと出版社には恩がある。できるならベストセラーでも出して恩返しをしたいが、売れてくれと念じて売れるならこの世に倒産はないだろう。

「結局、できることをコツコツと、か」

 世知辛いことを呟きながら明良はパソコンデスクに向かった。執筆にしか使わないパソコンは電源を入れたらすぐに立ち上がる。

 目覚めてから純也が来る時間まで、休まず執筆するのが明良の仕事ペースだ。

 前回まで書いた部分を推敲しながら頭を切り替え、迷うことなくその続きを打ち込んでいく。手癖と言われてしまうかもしれないが、明良は執筆に行き詰まることはなかった。そのせいか逆に切り上げ時がわからない。

 純屋が仕事の邪魔になっていないか心配するのは、自分と出会ってペースが変わったのに気づいているからかもしれない。しかしどちらがまともな生活かと言えば彼と知り合ってからだ。まず温かいものを食べるようになった。

 なんとなく空腹を覚えたころ、片手でカロリーメイトを取って咥える。時計を見ることもない。ただ淡々と、読む人は地獄と表現する場面を紡いでいく。

 明良は集中しているという意識なく集中して、数十ページの修羅場を進める。登場人物は相変わらず身勝手だし、偶然はとにかく主人公を悪しき道にしか進ませない。何を考えて書いているのかとよく問われるが執筆中の頭は無だ。ドロドロの展開に辟易もしないし、変なハイにもならない。

「…………」

 主人公が過干渉の母親から逃げきれず捕まる段落を書いたところで、明良はハッと我に返った。モニタの右下を見れば純也との約束の三十分前になっている。

「まずい、集中しすぎた」

 毎日訪れる彼に特別なもてなしはしないけれど、慣れない夕飯作りには三十分以上かかった。

 これは今日こそスーパーの惣菜かもしれない。いや、何度か作ったものならいい加減手が覚えているはずだ。初心者向きと聞いて出会ったころから振舞っているカレーにするか、それとも潔く宅配のチラシを並べておくか。

 迷いながらパソコンを終了したところで、りんごん、とドアベルが鳴った。
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