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外伝9 少年兵たちの宴
外伝9 少年兵たちの宴
しおりを挟むプレハブの兵舎には、白い息が漏れそうなほどの冷え込みが忍び寄っていた。窓の隙間から吹き込む風が、薄い壁を震わせ、外の戦場の静けさがただ重くのしかかる。だが、部屋の中央に置かれた大鍋は、そんな冷え切った空気をじんわりと温め、鈍い火の光が鍋底で揺らめいていた。
大鍋には、いつもの材料が放り込まれていた。雑穀粉を練って作った団子のような塊が浮かび、ところどころで油の膜が光を弾いている。ツナ缶から流れた油が汁に溶け込み、旨味を求めて小さな気泡がぷつぷつと弾けた。鍋の中には不揃いに切られた野菜――炊事係の少年兵はいつもこう切る――が煮崩れ、汁を吸ってくたくたになっている。その上には、ソーセージ缶詰の塩気の強い肉片が、少しだけ誇らしげに浮いていた。
少年兵たちが大鍋から中身を掬い上げると、汁が湯気となって立ち昇り、鍋の匂いが部屋中に広がった。ツナの油と野菜の甘み、スパムの塩気が混じり合い、そこに少年兵たちの手に持つ化学調味料が降りかけられる。白い粉は鍋の表面に溶けると、一気に「旨さ」を引き出す魔法の粉であった。
「お前ら、大宮のデパートで食ったこと、あるか?」
班長の低い声が静けさを切り裂く。班長という男は、少年兵たちの中では少し異質な存在だった。年は彼らとそう変わらないが、体つきはがっしりとしていて、風雪にさらされたような肌の色、そして時折鋭く光る目つきが、彼をただの「少年」とは思わせなかった。
「大宮……?」
少年兵たちは、手元の器を見つめていた視線をゆっくりと上げる。大宮。それはグンマーの庶民にとって、海の向こうと同義の、夢のように輝く場所だった。実際、紙の一回限りのパスポートがいるので、大宮に行くというのは、グンマーにあっては一大旅行である。
「ああ、戦争が始まる前だ。俺はあそこで、ハンバーグ ってやつを食ったんだよ。」
班長の言葉に、少年兵たちの目が輝いた。「ハンバーグ?」
「肉が……なんだ、甘い味付けなんだ。でも、それがうまいんだよ。」
班長は言いながら目を閉じる。鉄板の上でジュウジュウと音を立てるハンバーグ、その上から垂れる濃いソースの光景が脳裏に浮かんだ。
「肉を甘くするなんて、どうかしてるぜ。」
「でも、それがうまいんだろ?」
少年兵たちは、まだ見ぬハンバーグを想像する。鉄板の上で立ち上る湯気、滴る肉汁――彼らの中で、肉の塊は夢の料理へと変わっていく。
「俺はナポリタンを食べたことあるぞ!」
誰かが口を開いた。その声は少しだけ誇らしげだった。
「赤いんだ、麺が。ケチャップっていう甘酸っぱいソースで絡めるんだ。」
「ケチャップ? それはトマトを煮詰めたやつか?」
「そうだ。でもな、あれがうまいんだよ。口に入れると、トマトの酸味が広がって、甘くて……何度も食べたくなるんだ。」
少年兵たちは笑い合う。
「帝国人って、変わってるな。麺は醤油か味噌で食うもんだろ。」
「でも、ナポリタンって、なんだか贅沢だな。」
一人の少年が遠くを見つめるように言う。
「……オムライスって知ってるか?」
「オムライス?」
「そうだ。ご飯を卵で包んで、その上にケチャップをかけるんだ。」
「卵で、ご飯を包むだと? もったいねえ!」
「そう思うだろ? でもな、あれを切ると、中から赤いご飯が出てくるんだ。ケチャップで味付けされた、甘いご飯だよ。」
少年兵たちはごくりと唾を飲んだ。
「なんだよ、それ。お菓子みたいだな。」
「でも、温かくて、優しい味がするんだよ。」
班長は鍋の火を弱めると、少年兵の一人に目配せをした。
「おい、雑穀酒を持ってこい。」少年兵は驚きながらも、隅に隠してあった古びた瓶を取り出す。中には、グンマー特有の雑穀を発酵させた濁り酒が入っている。
「班長、いいんですか? 酒なんて……。」
「たまにはいいだろう。命がけで戦ってんだ、ちょっとくらい楽しんでも罰は当たらん。」班長はアルマイトの器に少しずつ雑穀酒を注ぎ、少年兵たちに配った。器から立ち上るのは、微かに甘酸っぱい香りと、重たい雑穀の匂いだ。
薄暗いプレハブの宿舎には、雑穀酒の素朴な香りが漂い、班長と少年兵たちは小さな灯りを囲んで座り込んでいた。手にしたアルマイトのコップに、濃い雑穀酒が注がれる。熱気と笑い声が、狭い空間を満たし始めた。
「なあ、あの時のこと、覚えてるか?」
班長が笑いをこらえながら、少年兵たちに声をかける。皆が顔を上げると、班長の目はすでに遠くの中之条に向いている。
「あの銅像だよ。オブツィとかいう悪い部族指導者! 縄をつけて、みんなで引き倒したんだっけな。」
少年兵の一人が、両手を広げて声を上げる。
「そうだ! 俺ら数十人がかりでな。最初、銅像がちっとも動かねえから、班長が怒鳴ったんだよ。『足元を撃て! オブツィの足は痛風だ!』ってな。」
「そうそう、あのぶっとい足な! 今思えば笑えるぜ!」
酒の勢いも手伝って、別の少年兵が笑い転げる。
班長も酒をひとすすりして、満足げに頷く。
「でも足には鉄筋が入っててな。縄をぐるぐる巻きにして、皆で引っ張ったら土台ごと倒れて――『ドスン!』だ。あのオブツィの偉そうなメガネ面が、泥に突っ込んだ時の気持ち良さったらなかったな。」
「街のやつらが拍手して喜んだんだぜ!」
「そうだ、引き倒した後、オブツィの銅像にまたがって記念撮影までしちまった。」
一同が笑い声を上げる中、酒が次々と注がれる。少年兵の一人が、ふと真顔で言う。
「でも、大尉殿にあの時言われたんだよな。機関車を撃ったら釜に投げ込むぞ、って。」
場の空気が一瞬静まり、すぐに爆笑へと変わった。
「あれは冗談じゃねえ顔だったな。」
「機関車に銃を向けたやつがいたんだよ。そしたら、大尉がゆっくり近づいて、真顔で言うんだ。『機関車を撃つな。撃つやつは生きたまま釜に放り込む』ってな。」
班長は膝を叩いて笑う。
「大尉はマジだぞ。機関車は、サンバー千台以上のものを運べる。あれの確保は、最優先だったんだ。」
だが、少年兵の一人が目を輝かせながら言う。
「でも、あの夜は楽しかったよな。中之条が落ちた日! 皆で空に向けて撃ったんだ。」
「バババッ! バババッ!」
少年兵たちは手ぶりで銃を撃つ真似をする。
「空に向けて撃って、街の人が『解放軍万歳!』って叫んで、豚まで引っ張り出してお祝いしたっけな。」
「俺、あの時、初めてまともな肉を食ったよ。」
酒の杯が何度も回る。中之条での「解放」の記憶は、少年兵たちにとって誇らしく、そして甘い青春の一ページとなっていた。班長は手元の酒をぐいっと飲み干し、しみじみと語る。
言葉が静かに落ちると、少年兵たちはしばし黙り込んだ。それでも、耳の奥には、引き倒される銅像の「ドスン」という音や、夜空を裂く銃声が残っていた。
雑穀酒が回るほどに、宿舎の中は笑い声とともに熱気を帯びていた。班長と少年兵たちは、しばらく遠い中之条の思い出を語り合っていたが、やがて話はつい先日の六合の陥落に移った。
「村中の物資を引っ張り出して、みんなに分けた時のこと、覚えてるか?」
少年兵の一人が膝を叩いて言った。
「覚えてますよ! 部族指導者の蔵から出てきた雑穀やら缶詰やらを、村のやつらが大喜びで運んでいったっけ。」
「袋を担いだおばあちゃんが、何度も振り返って『解放軍様、ありがとう』って頭を下げてたっけな。」
「ああ、それを見て班長が、『解放軍は物資も解放するんだ!』って偉そうに言ったんだよな。」
「当たり前だろ!」
班長が腕を組んでふんぞり返ると、少年兵たちは笑い転げた。宿舎の薄暗い光が、雑穀酒の入ったコップを照らし、少年兵たちの若い顔に影を作っていた。
だが、ふと一人の少年兵がつぶやく。
「……そういやさ、あの部族指導者の娘、見たか?」
その言葉に、一瞬だけ場が静まった。少年兵たちが顔を見合わせ、なんとなく小声になる。
「ああ、見たよ。きれいなもんだ。香水の、いい匂いがした。」
「香水かよ。俺たちなんか、煙の匂いと泥の匂いしかしねえってのにな。」
「あの娘、確か名前は――秋代とか言ったか?」
「そうそう、秋代だ。」
言葉が続くと、班長が興味深げに頷き、酒を一口すすった。
「秋代――なかなかのもんだ。」
「どういうことですか?」と少年兵の一人が尋ねる。
班長はコップを置き、真剣な表情で話し始めた。
「お前ら、あの家じゃハンバーグなんかじゃ済まねえぞ。帝国の本物の洋食が出るんだ。」
「洋食?」少年兵たちの目が一斉に輝く。
「おうよ。ハンバーグだのオムライスだの、そんな大宮の洋食じゃねえ。本物ってのはな、肉をふんわり焼いて、草の匂いのする汁――なんつったか、ベア……なんとかソースだ。あと、魚を甘く焼いたもんに、泡だのなんだのを乗っけたりする。」
少年兵たちは、一瞬ぽかんとした顔をしてから、口々に騒ぎ始める。
「肉に草の匂い? そんなんうまいのか?」
「魚に泡ってなんだよ。焼き魚に醤油だけで十分だろ!」
班長は苦笑しながら続けた。
「お前らにゃまだ分からんかもしれねえがな――帝国ってのは、そんなもんを食うんだ。あの娘が香水の匂いをさせてるのも、そういう帝国の文化に染まってるからだろうな。」
「班長、どういうもの食べたのか教えてくれよ」
炊事係の少年兵が、班長にせがむ。俺も聞きたいと、数人が同意した。
「……あれは、少し前のことだ。」
班長の低い声に、少年兵たちは口を閉じ、静かに耳を傾けた。
「帝国資本の連中が草津に来て、部族長の家で食事会が開かれたんだ。部族資本の温泉旅館が威信をかけて料理人を寄越したが、作れるもんは“ニジマスのバター焼き”だけだった。あれじゃあ帝国人の腹は満たせねえってことで、大尉殿と秋代様が代わりに料理を作ったんだ。俺はそのとき、物資を運び込む役割でな、台所で、余った料理を女中が食わせてくれたんだ。」
その言葉に、少年兵たちの目が輝く。
班長はしばらく黙って煙草をくゆらせ、記憶の底から異世界の料理を思い起こした。
「全部食ったわけじゃないぞ。魚。……あれはスズキのポワなんとかって言ってたな。」
班長の目が鋭くなる。
「焼き魚だっていうから期待したが、皮はふにゃふにゃだ。焼きが甘いのかと思ったが、ひと口食ったら違った。……その上に垂れてた汁が甘いんだ。」
「甘い? 魚にか?」
「そうだ。塩の代わりに甘い汁をかけてる。最初は混乱したが、食ってるうちに……うまいと思っちまうんだ。」
少年兵たちは目を丸くし、誰もが信じられない顔をする。
「その横にのってたのが、泡だ。」
班長は続けた。
「水かと思って舐めたら、梅干しみてえに酸っぱかった。果物の味だな、あれは。……まるで夢の中の飯だ。」
少年兵たちはざわつく。
「泡だって? 食えるのか、そんなもん。」
「次は肉だ。焼かれたでもなく、煮られたでもねえ。不気味なほど柔らかい、薄い赤い肉だ。」
班長は指先をすり合わせる仕草をして、話しを続けた。
「ひと口食ったら驚いたぜ。噛まなくても、すっと溶ける。まるで豆腐だ。」
少年兵たちはざわついた。
「肉が、豆腐だって?」
「そうだ。噛むたびに味が出る、肉の味とは違う。……うまいには違いねえが、なんだか不気味だったな。」
「その豆腐みてえな肉の上に、黄土色の汁がかけられてた。田楽味噌みたいな見た目だが、ひと口舐めると草の匂いがする。」
班長は眉をひそめ、言葉を探す。
「酢っぱくて草の香りが鼻に抜けるんだ。わけが分からねえ味だが、肉には不思議と合うんだよ。」
少年兵の一人が首を傾げる。
「田楽味噌に草の酢っぱさ? なんだそれ。」
班長は呆れたように肩をすくめた。
「結構、あの料理はうまかった。だがよ、帝国の洋食ってのは、料理一つにこんな手間をかける。……俺たちには理解できねえ世界だ。」
少年兵たちは黙り込んだ。異国の夢のような料理、それは彼らの日常とはかけ離れたものだった。
「……秋代様も帝国に留学して、ああいうことを学んだんだろうな。」
「秋代様が?」
場が再び静まり返った。誰もが、秋代のことを思い浮かべていた。部族指導者の娘、秋代――千木良大尉と共にいる彼女は、彼ら少年兵にとっては遠い存在であり、どこか異質でもあった。
やがて、班長がぽつりと呟く。
「大尉殿は、秋代様を戦利品にしねえんだよ。ただ従わせるだけじゃなく、大切にしてる。だから、秋代様だって大尉に従ってんだ。」
班長の声には、どこか理解できないものへの敬意が滲んでいた。少年兵たちは、何とも言えない顔で頷いた。彼らにはまだ理解しきれない価値観――それでも、部族社会の力学の中で育った彼らには、その「大切にする」ということは、理解が難しい。
少年兵たちは、遠い世界を夢見るように目を閉じた。湯気の向こう、豆腐のような肉、甘い魚、酸っぱい泡――それは戦場の鍋とはあまりにも違う、贅沢な幻の食卓だった。
「……やっぱり、部族長のお嬢様はただの人じゃないんだな。」
少年兵の一人がぽつりと呟いた。その言葉に他の者たちも頷く。
「ああ。俺たちには、そんな料理、考えつきもしねえ。」
もう一人が、唐突に口を開いた。
「……柴崎少尉もそうだろ? 女中と一緒に住んでるって話だが、あれもただの女中じゃねえんだ。」
「女中?」
「そうだよ。聞いたんだが、あの女中も帝国で学んだんじゃないのか? 帝国風の料理ができるというぞ。」
少年兵たちは顔を見合わせ、驚きの声を上げた。
「そりゃすげえな……。」
「それなら、少尉が女中と住んでても身分の差なんて気にならねえわけだ。」
班長も腕を組んで、ゆっくりと頷いた。
「そういうことだな。帝国の教養がある女ってのは、ただの女じゃねえんだよ。――だが、そんな女は俺たちには手に余る。」
少年兵たちは、現実に引き戻されたようにため息をつく。帝国の料理、帝国の教養、それは自分たちには遠すぎるものだった。だが、それでも――。
「……俺は、やっぱりグンマーの女でいいな。」
「だよな。帝国の女なんて扱いきれねえ。料理一つにあれこれうるさそうだ。」
誰かが笑いながら言うと、別の少年兵が続けた。
「グンマーの女を手に入れて、毎日オムライスを作らせるんだ。」
「オムライスか。卵をかぶせてケチャップで味付けだろ? それなら俺にも分かる。」
「それだよ、それ! 帝国の教養なんてなくたっていいんだ。旨い飯を作ってくれりゃ、それでいい。」
宿舎の中に笑い声が広がった。少年兵たちは、未来の自分たちを想像している。粗末な家でもいい。グンマーの女と一緒に、卵を焼いて、ケチャップをかけたオムライスを食べる――それは彼らにとって、夢見がちな「帝国の料理」とは違う、現実的で温かな幸せの形 だった。
班長はそんな彼らを見渡し、笑みを浮かべながら煙草に火をつけた。
「ま、お前らにはオムライスがお似合いだな。」
「班長だって、毎日オムライス作ってくれる女が欲しいんだろ?」
「馬鹿野郎、俺は唐揚げがあればそれでいい。」
笑い声がさらに大きくなった。少年兵たちは、帝国の複雑な料理や教養を遠くに見ながら、粗末でも現実に手に入れられそうな夢に向かって、ひと時の安堵を味わっていた。
外では風が強くなり、薄い壁がかすかに揺れる音がした。彼らの語る夢は、戦場の夜に小さな灯火のように光っていた。
「戦争のおかげで、チャンスが巡ってきた。うまくやれば手の届かねえもんはねえ。――かつては、部族長の娘なんざ、ただの夢だったがな。」
少年兵の一人が、呆れたように笑う。
「班長、そんなこと本当にできるのかよ。」
「できるさ。」
班長の声は力強かった。
「いいか、見てみろよ。千木良大尉だってそうだ。戦争に勝ち残って、部族長の娘と……まあ、どういう形か知らねえが、娘を従えているじゃねえか。」
少年兵たちは黙り込み、どこか遠くを見つめた。大尉のように――その言葉は重く、けれど彼らの胸に奇妙な希望をもたらした。
「つまりだ、俺たちも戦争で勝ち残りさえすれば、何でも手に入るんだ。外車だって、部族長の娘だってな。」
班長は豪快に笑い、手を広げて見せる。その姿は、まるで村の王様にでもなったかのようだ。
「でも、班長。」
一人の少年兵が口を挟んだ。
「部族長の娘は、毎日唐揚げなんて作ってくれないんじゃねえか?」
部屋にどっと笑いが起こる。班長もつられて笑いながら、拳で少年兵の頭を軽く小突いた。
「馬鹿野郎、そんなもんは俺が教えりゃいいんだよ! ハイゼットに乗って、部族長の娘に俺の隣で鶏を潰させ、唐揚げにさせる――それが俺の夢だ。」
少年兵たちは笑い続け、次第にその笑いは、現実から逃げるためのものではなく、未来への小さな希望に変わっていった。
戦争が終われば、グンマーの社会は変わる。階層が上がり、手の届かなかったものに手が届く――それは班長にとって、戦利品の外車であり、村の部族長の娘だった。
「お前らも覚えておけ。戦場で生き延びりゃ、どんな夢だって叶うんだ。」
班長の言葉に、少年兵たちは黙って頷いた。それは虚勢かもしれない。けれど、その夜、彼らは確かに夢を語り合った。
外では風が止み、夜の静けさが宿舎を包んでいた。彼らの語る夢は、薄暗い戦場の中に浮かぶ、一筋の光のように輝いていた。
宿舎の闇を静かに抜け出し、班長は深く息を吐いた。冷たい夜気が顔にまとわりつく。遠くから犬の吠え声と、風に乗った木々のざわめきが聞こえるだけだ。月明かりに照らされた道を足早に進むと、目の前には小さな薬師如来堂が佇んでいた。湯煙の影に隠れて、まるで時間が止まったような静けさだ。隣には温泉旅館の従業員寮が見える。その明かりが漏れた窓を一瞥して、班長はそっと堂の扉を開けた。
中には、薄暗い灯りの下で娘が一人、静かに座っていた。年頃は自分とそう変わらない。顔の輪郭は柔らかだが、目だけがどこか遠くを見つめている。彼女の手元には、使い込まれた小さな湯呑みが置かれていた。
班長は黙って背嚢からツナ缶とスパム缶を取り出し、娘の前に差し出した。
「ほら、持ってきたぞ。」
娘は一瞬、驚いたように目を瞬かせるが、すぐに小さな笑顔を浮かべた。彼女の手が、冷えた缶詰に触れる。
「ありがとう。」
声は小さく、だがその一言には、感謝よりも疲れが滲んでいた。
班長は湯呑みの隣に腰を下ろすと、懐から小さな瓶を取り出した。雑穀酒だ。中身は濁っていて、匂いは強い。彼が瓶を差し出すと、娘は一瞬ためらいながらも受け取り、慣れた手つきで一口含んだ。
すぐに、娘は少しむせた。
「……強いね、これ。」
班長は声を上げて笑った。堂内にその笑い声がこだまする。
「お前、飲み慣れてるかと思ったが、まだまだだな。」
娘は照れくさそうに笑い、袖で口元を拭った。そして、ぽつりと呟いた。
「あたし、沼田だよ。生まれたところ。」
班長の表情が少し緩む。
「沼田か。山の方だな。」
娘は小さく頷いた。目が再び遠くを見つめる。山深い土地、川の水音、冬の雪景色――彼女が思い描いているのは、そんな故郷だろう。
班長は瓶を受け取り、自分も雑穀酒を口に運んだ。荒々しい匂いが鼻をつき、喉を焼くような熱さが体を巡る。
「俺は太田だ。工場ばかりの町だよ。」
娘が興味を引かれたように顔を上げる。
「工場?」
「ああ、煙突ばかりだ。鉄の匂いと機械の音しかしねえ。……それでも、ガキの頃は平和だったんだ。」
班長は湯呑みを置き、背を壁にもたれた。視線は天井の闇を見つめている。
「けどな――戦争が始まってからはずっと、戦い続けてる。俺たちがこうして生き残るのも、簡単じゃねえ。」
娘は黙って彼の言葉を聞いていた。ツナ缶とスパム缶が目の前にあるのに、彼女はまだ手を伸ばさない。
「……ずっと、戦ってるんだね。」
その言葉は、慰めでも同情でもなかった。ただ、彼女自身がずっと耐え続けていることを暗に示すようだった。
班長は目を細め、瓶を軽く揺らす。中の酒がかすかに揺れて、月明かりを反射した。
「そうだ。でもな、こうして雑穀酒を飲んでるときくらい、戦争を忘れてもいいだろ。」
娘は小さな声で笑った。今度は、むせずにもう一口、雑穀酒を口に運ぶ。
静かな時間が流れた。堂内の木々が軋む音と、遠くの風の音だけが、二人を包み込んでいる。
「村の若い男は、みんな戦争にいった。」
娘の言葉に、班長は何も言わず頷いた。そして、缶詰を指で軽く叩きながら言う。
「……これ、取っとけよ。」
娘はその言葉に驚いたように顔を上げた。
「ありがとう。」
再び小さく笑う娘。その笑顔は、短い夜に灯った小さな温もりのようだった。
外では風が強まり、堂の扉がわずかに軋む音がする。班長は立ち上がり、背中を伸ばした。
「……じゃあな。温泉旅館の寮に帰るんだぞ。」
娘は黙って頷き、缶詰をそっと胸元に抱きかかえた。
班長が扉を開けて外に出ると、夜風が一層冷たく感じられた。見上げれば、月が村の上空にひっそりと浮かび、遠くの山並みがその輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
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