海の底のマリア

奥猫かえる

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 閉めきれてないドアの隙間から、僅かに声が漏れている。はあまりにも淫猥でーーー、ぞわりと背筋が粟立つ。

 知らない、こんな声。

 でも、これは。これは、知っている声だ。

 見るな、見てはいけない、と警鐘が頭の奥で鳴り響くが、止められなかった。音を立てないようにそうっと僅かに開いたドアの隙間を覗き込む。

 そこには思った通り、親友の姿があった。思ったのと違うのは彼が裸になって男ともつれあっているというとこだろうか。
 背中しか見えないが親友ともつれる男は明らかにおじさんだった。ぶよぶよとした腹の肉がブルブルと揺れている。シャツしか着ておらず晒された足は太ももまで濃い体毛に覆われていて肥えていて、見ていて不快でしかなかった。その体を、親友はおいしそうに脚で、腕で、食いついてだらしなく嬌声をあげている。普段真っ白な肌が淡い桜色に色づいていた。おじさんの肌はどこか汚く黒ずんでいるように見えるほど親友の肌は透き通っていた。どことなく光っているようにすら見える。

 俺は気づけば親友の魅入られていて、その場を動くことができなかった。行為は気持ち悪いとしか思えなくて
逃げたくて、仕方なかったんだが。

 親友の体は、たしかに快楽に溺れていた。男に触れられ気持ちいいと全身で哭いていた。

 ーーーなのに。

 ぐずぐずになり、空を見つめ快感を貪っているはずの彼の目は、らんらんと輝いていた。快楽を伴っていなかった。どこまでも強い光を放つそれが不意に、こちらに向かった。たしかに、真っ直ぐに、俺を捕らえーーーまぶたがぶるりと震えた。しかしそれはすぐにふにゃりと蕩けて歪む。声が、より一層甲高くなるのが遠くに感じた。
 ぞく、と心臓が大きく鼓動する。同時に動かなかった足が一歩下がった。金縛りが解けたような気分だった。それが合図になって踵を返した。



 彼の艶やかな声が、柔らかい肢体が、脳裏にこびりついて離れない。振り払おうとしてもあの野生動物のような眼が俺を逃がさない。

 どうやって帰ったのかすら覚えていなかった。耳の奥では慌ただしい自分の足音が響いていて。家の鍵を震える手で開けて勢いよく入ると扉が大きな音を立てた。背中に当たる金属の冷たい感覚にほんの少し安心感を覚える。あれは夢なのではないか。しかし下腹部に籠った熱は夢ではないと教えてくる。そのことに俺は微かな嫌悪を覚えた。思わず頭を抱えた俺は考えるのを放棄する。そうだ、やめよう。

「······忘れよう」

 忘れるんだ、と弱く首を振り俺は夕飯を食べる気にもなれず布団に潜り込んだ。



 カーテンの隙間から光が俺の顔面を容赦なく刺してくるのがつらすぎてがばりと身を起こした。閉まりきっていないカーテンに悪態をつきながらベッドに乱雑に放り出されたスマホを手に取る。時刻を確認しようと画面を開くとメッセージが届いていた。欠伸をしようと口を間抜けに開けたまま、びしり、と俺は固まった。
 親友からだった。

『今日ちょっと話したいことあるんだけど時間空いてる?』

 どことなくそっけないその文にぶるりと背筋を震わせた。慌てて何も考えずに指を動かす。
『えっどうしたん急に?なんかあった?』
 そのまま送信する。
 あれ、ちょっとこれは言い方まずかったかな……送ってから後悔する。取り消そうと思ったがそれはすぐに既読とついてしまった。返信はすぐに来た。
『昨日のことだよ……見られちゃったし、一応話しときたいと思って。ダメ?』

 夢じゃなかったーーーーーーー!!!

 現実を突きつけられ、軽くパニックを起こした。返信を少し考えさせて頂きたいが既読をつけてしまったからそういう訳にもいかない。内容が内容だけにまずい気がする……。
 いやしかし。正直聞きたくない……。
 闇しか感じないんだよな。
 悩みに悩んで俺はこう返した。

『夢だと思ってたわ!HAHAHA!無理して話すことないぞ、そのまま夢ってことにしてもいいし!俺にはお前が後暗いことしてたって誰にも言わないぞ!ただお前がそれで悩んでるなら相談には乗るぞ!!!』

 送ってから俺最低じゃね?と思った。たっぷり時間をかけたのにこの程度か、と自分で呆れる。と、いきなり電話がかかってきた。親友からだった。慌てすぎてワンコールも鳴らないうちに通話を始めてしまった。そもそも親友かどうかすら確認しないままだった。
「あのさぁ」
 電話の向こうで親友が凄んでいる。こころなしいつもより低めな声だ。思わずごめん、と謝りそうになるがそれを遮るように違うから!と言われた。
「なんでそう僕に都合悪いことかもって思ったらすぐ逃げようとするの?悪いことしてないんだから話くらい聞いてよ」
 黙って聞けばいいのに悪いことしてない、という言葉に思わずのってしまった。


「どう見たっておっさん相手にしてるお前は危ないヤツだよぉ……」

 いや違うってば!と電話口で叫ぶ彼の声はどこか遠い。俺は夢ではなかった現実に悲しみを覚えながら「でも、俺とお前はズッ友だぞ……☆」なんてアホみたいなことを言って電話を切り、そのまま電源も落とした。
 よろよろと固定電話へと向かう。




「あ、すいません1年C組の瑞穂なんですけど、担任の黒口先生居ます?あ、いない?いや、今朝からちょっと体調が優れなくておやすみ頂きたいんです。え、親?うち両親いないんでそういうのはちょっと……明日は行くんで……はい、はい、すみませんご迷惑をおかけしてしまって。診断書?いや多分寝たらなおるんで、え?それなら学校来い?いや明日から行くんで。え、無断欠席になる?いや今伝えてるじゃないですか。体調悪いんです。あれ、せんせ?どうしたんですか……あ、黒口先生おはようございます。あのおやすみ頂きたいんですけど、というか休みたいんですけど。症状?頭痛と腹痛です。あ、OKですか?すみません先生、ありがとうございます、明日は行けるようにするんで、あっあっありがとうございます」

がちゃ。
……。寝よう。もう1回。
問題は先延ばしになってしまったが明日ならきっと冷静に対処出来るはずだ。ごめんよ親友。また明日会おう。
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