偽「ありがとう」

尾形モモ

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偽「ありがとう」

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「ありがとうございましたー」



 嘘だ。本当はそんなこと微塵も思っていない。

 店員なんて面倒だ、客商売なんて苦労しかない。そんな本心を隠し、私はへこへこと頭を下げてみせる。生きていくには金がいる、金がいるから仕事する。だからこれは生きるために、仕方のないことだ。自分にそう言い聞かせながら、私は気だるげにレジを打つ。

「ありがとうございます」。「こんにちは」や「ごめんなさい」、「さようなら」に並ぶその言葉は挨拶界の基本フレーズと言えるだろう。

 だがそこに、本来の意図である「感謝」を込めている人間がどれだけいるものだろうか。コンビニ店員は激務だ、掃除に陳列、それから接客。どんなに横柄な態度を取られても、どんなに理不尽な主張をされても相手が「お客様」である以上私たちは平伏し「ありがとう」と首を垂れることしかできない。どうせ、どんなに誠意を尽くしたって相手もこちらを物を売るだけの道具としか思っていないのだ。

 だから私は今日も、ろくに客と目を合わせることもなく機械的な感謝の言葉を口にする。ニヤニヤしながら成人誌を差し出すジジイにも、この世の全てに当たり散らかすヒステリックなババアにも、私は黙って「ありがとうございました」と上っ面だけの感謝の言葉を述べることしかできない……



 しかし、そんな灰色の日々でふと面白いことに気がついた。



「ありがとうございました」を適当に、雑に声に出す人間は私だけではない。

 特に注意せず、大雑把に音を掴むなら一番耳につくのは「あ」と「た」だけなのだ。早口、巻き舌で簡素化されてしまえばそれは意味のない文字列にもなりうる。まるで呪文のような言葉になるが、それに違和感を抱く客は誰もいないのだ。



 そして、私は閃いた。



「これ、『あ』と『た』さえ合ってれば何を言ってもバレないんじゃない?」

 そんなイタズラ心を起こした私は、次の日から普通に挨拶をするフリをしてあらゆる種類の偽「ありがとうございました」を口にしていった。

「ありあとあんしたー」
「あざしたー」
「ありあすたー」
「あいしたー」

 時に訛り、省略し、抑揚をつければ誰も私のその悪ふざけに気がつくことはない。

 どこの店でも、店員は当たり前のように「ありがとう」を口にする。客たちは皆、それを当たり前だと認識しているから私がそうでないとは夢にも思わないのだ。何も疑わず、怪訝な表情をすることすらない彼らの様子を見るのは楽しい。日常で仕掛ける小さな隠し細工、誰も傷つくことのない些細なおちょくり。



 それはいつしか私の愉悦となり、いつの間にか心の中で本当に「気づかないでいてくれてありがとう」とまで考えるようになっていた。






「――今のは、『ありがとうございました』と違うのですか?」

 ある日、いきなりそう尋ねられて私は「は?」と聞き返してしまう。

 そこにいたのは金髪碧眼の美青年だった。

 昼食らしいおにぎりとお茶を買った彼は、彫りが深くアジア人離れした顔をしている。背も高く、まるでモデルのような容姿をしている彼はまるでモデルのような姿をしていた。そんな彼が店員である私に、至って真面目な口調で問いかけてくる。

「私、日本語、勉強中です。『ありがとう』は習いましたが、今のは違いました。『ありがとうございます』と、どう違うのですか?」

「え? あ、その……」

 よく見れば見るほど、「顔がいい」の一言に尽きる顔に見つめられ私は口ごもる。



 客は平等に扱うべきだ、どんな美男美女でも店員として決してうろたえてはいけない。

 その心がけを良くも悪くも遵守し、あまり客に感情移入しないようにしている私は呆気なく冷静さを手離した。そうでなくたって、言えるもんか。口ぶりからしてどうやら真面目に日本語を学んでいるらしい、こんなイケメンの前で「ふざけていました」なんて言えるものか。「偽『ありがとう』を口にして遊んでいました」なんて、馬鹿正直に告げられるものか。



 とはいえ、目の前にいる美形外国人は本当にただ私の偽「ありがとう」が「ありがとう」と何が違うのかが気になるだけらしく……とことん真摯で、勤勉なその彼に私は意を決して伝える。



「いいえ、普通の『ありがとう』と同じです。……日本人はそうやって、普段使う言葉を略したりするんですよ」
 口から出たでまかせ。それらしく言っただけの屁理屈。きっと誰にでも言えるその解答を、しかし目の前の彼は「正解」だと判断してくれたらしく――目の前の青年はキラキラと目を輝かせる。

「そう、ですか。じゃあ、私も今度、使ってみます。『あいしたー』」

 私の勝手に作った、間違った日本語を早速使う彼から私は目を背ける。



 ……やっぱりちゃんと言わなくちゃな、「ありがとうございました」。



 どこか後ろめたい気持ちで、それでもその事実を気づかせてくれた彼に私は心の底からこう言った。



「ありがとうございました」
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