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序幕
陰陽師な古書店主と自称お茶目な男
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背後から足音のない気配が近づく。
ぞくり、と身の危険を感じたミトラは、とっさに祓詞を唱えた。
「遠祖神 恵み給め」
感じる。
すぐそこに迫る危機。
振り返らなくてもなんとなくわかる、こちらに伸びる腕。男の神経質そうな、長い指。
顔は、たぶんいつものように笑っている。
無駄にきれいな笑顔で、そのくせ物騒で、抑えた獣性をちらつかせつつ、甘く細めた瞳で。
やばい、間に合わない――。
ミトラは文机の前からダッと逃げつつ、焦りまくりながら、必死に続きを口にする。
「祓え給い 浄め給え 神ながら守り給い 幸え給えええええええっ!?」
唱え終わると同時に、後ろから覆い被さるように抱きしめられた。次の瞬間、足が宙に浮く。
ギョッとした。まさかのお姫様抱っこだ。
「はい。捕まえた、と」
ミトラをしっかりと抱きかかえてにやりとしたのは、和装姿の男。
いかにも仕立てのよい黒い着物に黒帯を締め、黒の羽織を重ねて、黒足袋を履いている。
魔王か悪魔か、はたまた閻魔大王か――と本気で疑わしいほど、真っ黒な出で立ち。
少し長めの黒髪が似合う、眼の毒な美形は、この古書店の鑑定士アジャリだ。
外出先から戻ったアジャリは、ミトラを見つめて甘く笑う。
「ただいま、奥さん」
「誰が奥さんですか」
思わず突っ込む。
ミトラが心底嫌そうに拒んで言うと、アジャリは軽い調子で言い直す。
「間違えた。『未来の』奥さんだった」
「はは。……どうやら頭がおかしくなる悪霊でも憑いているようですね。祓ってあげましょう」
有料ですけど、と言い添えて、ミトラは着物の袂から除不浄の霊符を取り出した。
それを見たアジャリは「無駄だからよしなさい」と言い、ふっと息を吹いて、ミトラの手から霊符を飛ばす。
霊符は宙でゆっくりと一回転したあと、ミトラの手の中に戻ってきた。
アジャリはクスッと笑いながら、明るい口調でミトラをからかう。
「ちょっとしたお茶目じゃないか。そんなにむきになって否定しなくてもいいのに」
「あなたの場合は、お茶目だか本気だか、区別がつかないんですよ」
ミトラは溜め息をついて、扱いにくさでは天井知らずの男を睨み上げた。
アジャリは一見すると茶目っ気たっぷりで、のんびりと穏やかそうだが、実はめっぽう気難しい。そして図々しい。おまけに一度気に入れば、人だろうと物だろうと、とことん執着する。
早い話が、とても面倒くさい。
はっきり言って、敵に回したくない人種というやつだ。普通の人間なら、それと気づいた時点で関わり合いになるのを避け、とっとと逃げるだろう。
ってか、私が逃げたい! ドラマや映画じゃあるまいし、付き合ってもいない相手にお姫様抱っこされるなんて現実的にない。ありえない。
なにより、自分の体重が気になる。恥ずかしすぎる!
「ちょっと、もう下ろしてくださいよ!」
ミトラはジタバタもがきながらアジャリに訴える。
ところがアジャリは短く断った。
「ダメ」
「どうして」
思わずムッとしたミトラに、アジャリが拗ねた顔で言い足す。
「だって、まだ君から『おかえり』を言ってもらってない」
駄々をこねるアジャリを鬱陶しいな、と思いつつも、ミトラは渋々応じた。
「……おかえりなさい」
「うん。……ただいま、ミトラ」
日常的なやりとりで、もう何度も同じ会話をしているのにもかかわらず、その都度アジャリは幸せを噛みしめるように小さく笑う。
「やっぱりいいな……こういう、家族っぽい挨拶。温かい気持ちになるよね」
おおげさな、とは思う。
だけどアジャリはごく真面目に言っている。
こんなときばかり子供みたいに素直で、やたらと可愛い顔をされたら怒る気も失せてしまう。
本当は「足音を忍ばせて近づくな」とか「むやみに抱きつくな」と膝を詰めて説教したいのに、少し照れたように頬を染めて俯かれると、叱り言葉は霧散する。
ミトラは「はあ」と吐息を漏らして、力のない声で催促した。
「気が済んだら、いいかげん下ろしてくださいって」
「はいはい」
アジャリは丁寧な動作でミトラを板の間に下ろす。
ミトラは「なんか疲れた」とぼやきながら霊符を袂の中に戻して、乱れた袴の裾を直した。
そんな彼女の目の前に、四つ折りの紙が差し出される。
「なんです?」
「おみやげ」
紙切れ一枚が?
よせばいいのに、迂闊にもミトラは紙を広げた。
開いたそれはA3用紙で、左上に書類の名称が慎ましくもくっきりはっきり、明記されている。
『婚姻届』
それも届出人・署名押印の欄には、ちゃっかりアジャリのサインと印鑑が。
「さ、君も一筆書いて」
ぬけぬけと、うきうきと、アジャリが高級そうな万年筆を差し出してくる。
ミトラはすうっと大きく息を吸い込み、『婚姻届』を真っ二つに破りながら叫んだ。
「誰が書くかー!」
ぞくり、と身の危険を感じたミトラは、とっさに祓詞を唱えた。
「遠祖神 恵み給め」
感じる。
すぐそこに迫る危機。
振り返らなくてもなんとなくわかる、こちらに伸びる腕。男の神経質そうな、長い指。
顔は、たぶんいつものように笑っている。
無駄にきれいな笑顔で、そのくせ物騒で、抑えた獣性をちらつかせつつ、甘く細めた瞳で。
やばい、間に合わない――。
ミトラは文机の前からダッと逃げつつ、焦りまくりながら、必死に続きを口にする。
「祓え給い 浄め給え 神ながら守り給い 幸え給えええええええっ!?」
唱え終わると同時に、後ろから覆い被さるように抱きしめられた。次の瞬間、足が宙に浮く。
ギョッとした。まさかのお姫様抱っこだ。
「はい。捕まえた、と」
ミトラをしっかりと抱きかかえてにやりとしたのは、和装姿の男。
いかにも仕立てのよい黒い着物に黒帯を締め、黒の羽織を重ねて、黒足袋を履いている。
魔王か悪魔か、はたまた閻魔大王か――と本気で疑わしいほど、真っ黒な出で立ち。
少し長めの黒髪が似合う、眼の毒な美形は、この古書店の鑑定士アジャリだ。
外出先から戻ったアジャリは、ミトラを見つめて甘く笑う。
「ただいま、奥さん」
「誰が奥さんですか」
思わず突っ込む。
ミトラが心底嫌そうに拒んで言うと、アジャリは軽い調子で言い直す。
「間違えた。『未来の』奥さんだった」
「はは。……どうやら頭がおかしくなる悪霊でも憑いているようですね。祓ってあげましょう」
有料ですけど、と言い添えて、ミトラは着物の袂から除不浄の霊符を取り出した。
それを見たアジャリは「無駄だからよしなさい」と言い、ふっと息を吹いて、ミトラの手から霊符を飛ばす。
霊符は宙でゆっくりと一回転したあと、ミトラの手の中に戻ってきた。
アジャリはクスッと笑いながら、明るい口調でミトラをからかう。
「ちょっとしたお茶目じゃないか。そんなにむきになって否定しなくてもいいのに」
「あなたの場合は、お茶目だか本気だか、区別がつかないんですよ」
ミトラは溜め息をついて、扱いにくさでは天井知らずの男を睨み上げた。
アジャリは一見すると茶目っ気たっぷりで、のんびりと穏やかそうだが、実はめっぽう気難しい。そして図々しい。おまけに一度気に入れば、人だろうと物だろうと、とことん執着する。
早い話が、とても面倒くさい。
はっきり言って、敵に回したくない人種というやつだ。普通の人間なら、それと気づいた時点で関わり合いになるのを避け、とっとと逃げるだろう。
ってか、私が逃げたい! ドラマや映画じゃあるまいし、付き合ってもいない相手にお姫様抱っこされるなんて現実的にない。ありえない。
なにより、自分の体重が気になる。恥ずかしすぎる!
「ちょっと、もう下ろしてくださいよ!」
ミトラはジタバタもがきながらアジャリに訴える。
ところがアジャリは短く断った。
「ダメ」
「どうして」
思わずムッとしたミトラに、アジャリが拗ねた顔で言い足す。
「だって、まだ君から『おかえり』を言ってもらってない」
駄々をこねるアジャリを鬱陶しいな、と思いつつも、ミトラは渋々応じた。
「……おかえりなさい」
「うん。……ただいま、ミトラ」
日常的なやりとりで、もう何度も同じ会話をしているのにもかかわらず、その都度アジャリは幸せを噛みしめるように小さく笑う。
「やっぱりいいな……こういう、家族っぽい挨拶。温かい気持ちになるよね」
おおげさな、とは思う。
だけどアジャリはごく真面目に言っている。
こんなときばかり子供みたいに素直で、やたらと可愛い顔をされたら怒る気も失せてしまう。
本当は「足音を忍ばせて近づくな」とか「むやみに抱きつくな」と膝を詰めて説教したいのに、少し照れたように頬を染めて俯かれると、叱り言葉は霧散する。
ミトラは「はあ」と吐息を漏らして、力のない声で催促した。
「気が済んだら、いいかげん下ろしてくださいって」
「はいはい」
アジャリは丁寧な動作でミトラを板の間に下ろす。
ミトラは「なんか疲れた」とぼやきながら霊符を袂の中に戻して、乱れた袴の裾を直した。
そんな彼女の目の前に、四つ折りの紙が差し出される。
「なんです?」
「おみやげ」
紙切れ一枚が?
よせばいいのに、迂闊にもミトラは紙を広げた。
開いたそれはA3用紙で、左上に書類の名称が慎ましくもくっきりはっきり、明記されている。
『婚姻届』
それも届出人・署名押印の欄には、ちゃっかりアジャリのサインと印鑑が。
「さ、君も一筆書いて」
ぬけぬけと、うきうきと、アジャリが高級そうな万年筆を差し出してくる。
ミトラはすうっと大きく息を吸い込み、『婚姻届』を真っ二つに破りながら叫んだ。
「誰が書くかー!」
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