28 / 44
第4章 1
しおりを挟む
電報で祖父の卦報を知り、僕は再び、二度と踏まぬと決めていた故郷の土を踏んだ。
家を出てから、五年の月日が流れていた。
最初に僕を出迎えたのは、雪粒混じりの、身体を引き裂くような突風だった。
凧遊びをする子供らの姿はない。
川辺で寒鮒を獲る老人たちの姿もない。
誰一人、表を歩く者の姿が見えない。
まるで打ち捨てられた廃村のようなこの集落が、たしかに僕の故里だった。
故郷一帯を襲った未曾有の大飢饉は、帝都の新聞でも、連日大きく取り掲げられていた。
上野駅のプラットホオムでも、売られてきたらしい百姓娘が、啜り泣きながら引きずられていく姿を度々目にした。
あの中に、ひょっとしたら、この村の生まれの娘も混じっていたかもしれない。
……一体、幾人の顔を知る村の者が飢えて死んでいったのか。
幾人の顔を知る村の娘が売られていったのか。
所々幹皮を剥がれ、白い生肌を寒風に晒している山の木々は、まるで野垂れ死んで野晒しにされた百姓たちの白骨のようだった。
生家では、既に祖父の葬儀は終わり、遺骨は白木の箱に納められ、がらんとした仏間の中で、そこだけ場違いのように豪奢に飾られた仏壇の前に安置されていた。
五年ぶりに会う父は、見る影も無く憔悴し、年老いて見えた。
帝大に進学する際に挨拶にも報告にも訪れなかった僕を少しは叱責するかと思っていたが、父は僕を見て寂しそうに力なく呻いただけだった。
墓場のように静まり返った家の空気。
奉公人は全て暇を出したらしい。
助けを求めて泣いて縋り付いてきた者も大勢いただろうに、祖父は自分の土地の小作人も、血縁の者さえも追い払い、家の門扉を堅く閉ざした。
かつて天保の飢饉の折には、私財の大半を投げ打って救民に奔走し、幾千の命を救い名士と称えられた村代官も、祖父の長年の浪費のため、「今代官」を逆さに振ったところで大したものは出てこなかった。せめて所有の田畑を処分すればどれだけ近隣の窮乏を救えることかと父は祖父に相談したが、話を聞くと既に土地の大半は借財の抵当に入っているとのこと。愕然とする父に対し、そうでなくても先祖伝来の土地を、そうやすやすと他人の飯代のために手放せるかとにべもない祖父に、とうとう父は食ってかかったという。
そんな中、祖父は卒中で突然倒れ、そのままあっけなく亡くなった。
俺が死んでも土地だけは手放すな、という祖父の生前からの遺言を、父は躊躇なく破り捨て、手付かずのままの僅かな山林を売り払ったが、昭和の大恐慌で地価も下落している上にこの窮乏のために足元を見られ、ほんの二束三文程度にしかならなかったらしい。
その僅かばかりを、暇を出す奉公人たち全てに配り、彼らの前で父は泣きながら手をついて詫びたといい、それを見て涙を流さぬものはなかったという。
父は言葉にこそ出さないものの、元はといえば祖父の見栄のために帝都に遣わされたもの、学費だけで都会に立派な居を構えることのできる僕の就学についても、内心切り捨てたくて仕方ないのだろう。
僕のこれまでの帝都での学生生活についても、父は何一つ問おうとしなかった。
僕自身、怯えるように誰一人とも交流せず、賑やかな街へと繰り出すこともせず、ストームの馬鹿騒ぎに熱狂するバンカラ姿の級友たちを尻目にひたすら夜の闇を恐れながら孤独の下宿で勉学に打ち込んでいた花の高校・大学生活などに、取り立てて語れるものなどひとつもなかった。
外の世界の何が恐ろしかったわけではない。寧ろ、それは嘗て目にしたことも無い、きらびやかで魅惑的な、未知の刺激に満ちた新世界に映った。
しかし、そんな甘い誘惑ですら蝋燭の灯火のように吹き消してしまう、もっと大きな、得体の知れない底無しの深淵の怪物が、自分の中に産み落とされ、息を潜めている気配が常に僕を総毛立たせ、ただ一人部屋に篭もり震えている他は無かったのだ。
祖父の仏前に手を合わせた後、母が僕を隣室に呼んだ。
六畳ほどの普段は使われていない暗い部屋で、薄く埃の積もった畳の上に座る母は毅然としながらも随分と痩せ、小さく見えた。
面立ちがよく似ていると評判だった姉の面影は、最早今の母の姿から窺うことはできない。
僕と目を合わさぬまま、母は口を開いた。
「……もう、刀子のことは、忘れなさい」
静かな声で、しかしはっきりと僕に告げた。
……遠くで父の咳き込む声が聞こえた。
言葉を失っている僕の前で、淡々と母の言葉が続いた。
「おまえが、あの子をどう思っているかは聞きません。あの子は、もうこの家にはいないものです。おまえさえ、忘れてくれればいい。あの子のことは全て、私が墓場まで持っていきます。……良いですね?」
たったそれだけ話し終えると、まるで止め処ない感情を堪えるように、母は膝の上に目を落とした。
……たったそれだけの言葉でも、僕を奈落の底に突き落とすには十分だった。十余年の間苦渋に満ちた煩悶と葛藤に喘ぎながらも僕の中で辛うじて死守し続けていた最後の矜持が、今この瞬間完膚なく引き剥がされたのだから。
能面の表情は変わらないまま。しかし、その膝の上で母の小さな手は、震えながらきつく握られていた。
姉の世話をしていた下女は、僕が家を出てからすぐに亡くなったという。それから今までずっと、母が一人で姉の身の回りの世話をしていたのだろう。
気づかぬはずがない。
母は、全てを知ってしまった。
……全て、何もかも知られてしまった。
――嗚呼っ!
家を出てから、五年の月日が流れていた。
最初に僕を出迎えたのは、雪粒混じりの、身体を引き裂くような突風だった。
凧遊びをする子供らの姿はない。
川辺で寒鮒を獲る老人たちの姿もない。
誰一人、表を歩く者の姿が見えない。
まるで打ち捨てられた廃村のようなこの集落が、たしかに僕の故里だった。
故郷一帯を襲った未曾有の大飢饉は、帝都の新聞でも、連日大きく取り掲げられていた。
上野駅のプラットホオムでも、売られてきたらしい百姓娘が、啜り泣きながら引きずられていく姿を度々目にした。
あの中に、ひょっとしたら、この村の生まれの娘も混じっていたかもしれない。
……一体、幾人の顔を知る村の者が飢えて死んでいったのか。
幾人の顔を知る村の娘が売られていったのか。
所々幹皮を剥がれ、白い生肌を寒風に晒している山の木々は、まるで野垂れ死んで野晒しにされた百姓たちの白骨のようだった。
生家では、既に祖父の葬儀は終わり、遺骨は白木の箱に納められ、がらんとした仏間の中で、そこだけ場違いのように豪奢に飾られた仏壇の前に安置されていた。
五年ぶりに会う父は、見る影も無く憔悴し、年老いて見えた。
帝大に進学する際に挨拶にも報告にも訪れなかった僕を少しは叱責するかと思っていたが、父は僕を見て寂しそうに力なく呻いただけだった。
墓場のように静まり返った家の空気。
奉公人は全て暇を出したらしい。
助けを求めて泣いて縋り付いてきた者も大勢いただろうに、祖父は自分の土地の小作人も、血縁の者さえも追い払い、家の門扉を堅く閉ざした。
かつて天保の飢饉の折には、私財の大半を投げ打って救民に奔走し、幾千の命を救い名士と称えられた村代官も、祖父の長年の浪費のため、「今代官」を逆さに振ったところで大したものは出てこなかった。せめて所有の田畑を処分すればどれだけ近隣の窮乏を救えることかと父は祖父に相談したが、話を聞くと既に土地の大半は借財の抵当に入っているとのこと。愕然とする父に対し、そうでなくても先祖伝来の土地を、そうやすやすと他人の飯代のために手放せるかとにべもない祖父に、とうとう父は食ってかかったという。
そんな中、祖父は卒中で突然倒れ、そのままあっけなく亡くなった。
俺が死んでも土地だけは手放すな、という祖父の生前からの遺言を、父は躊躇なく破り捨て、手付かずのままの僅かな山林を売り払ったが、昭和の大恐慌で地価も下落している上にこの窮乏のために足元を見られ、ほんの二束三文程度にしかならなかったらしい。
その僅かばかりを、暇を出す奉公人たち全てに配り、彼らの前で父は泣きながら手をついて詫びたといい、それを見て涙を流さぬものはなかったという。
父は言葉にこそ出さないものの、元はといえば祖父の見栄のために帝都に遣わされたもの、学費だけで都会に立派な居を構えることのできる僕の就学についても、内心切り捨てたくて仕方ないのだろう。
僕のこれまでの帝都での学生生活についても、父は何一つ問おうとしなかった。
僕自身、怯えるように誰一人とも交流せず、賑やかな街へと繰り出すこともせず、ストームの馬鹿騒ぎに熱狂するバンカラ姿の級友たちを尻目にひたすら夜の闇を恐れながら孤独の下宿で勉学に打ち込んでいた花の高校・大学生活などに、取り立てて語れるものなどひとつもなかった。
外の世界の何が恐ろしかったわけではない。寧ろ、それは嘗て目にしたことも無い、きらびやかで魅惑的な、未知の刺激に満ちた新世界に映った。
しかし、そんな甘い誘惑ですら蝋燭の灯火のように吹き消してしまう、もっと大きな、得体の知れない底無しの深淵の怪物が、自分の中に産み落とされ、息を潜めている気配が常に僕を総毛立たせ、ただ一人部屋に篭もり震えている他は無かったのだ。
祖父の仏前に手を合わせた後、母が僕を隣室に呼んだ。
六畳ほどの普段は使われていない暗い部屋で、薄く埃の積もった畳の上に座る母は毅然としながらも随分と痩せ、小さく見えた。
面立ちがよく似ていると評判だった姉の面影は、最早今の母の姿から窺うことはできない。
僕と目を合わさぬまま、母は口を開いた。
「……もう、刀子のことは、忘れなさい」
静かな声で、しかしはっきりと僕に告げた。
……遠くで父の咳き込む声が聞こえた。
言葉を失っている僕の前で、淡々と母の言葉が続いた。
「おまえが、あの子をどう思っているかは聞きません。あの子は、もうこの家にはいないものです。おまえさえ、忘れてくれればいい。あの子のことは全て、私が墓場まで持っていきます。……良いですね?」
たったそれだけ話し終えると、まるで止め処ない感情を堪えるように、母は膝の上に目を落とした。
……たったそれだけの言葉でも、僕を奈落の底に突き落とすには十分だった。十余年の間苦渋に満ちた煩悶と葛藤に喘ぎながらも僕の中で辛うじて死守し続けていた最後の矜持が、今この瞬間完膚なく引き剥がされたのだから。
能面の表情は変わらないまま。しかし、その膝の上で母の小さな手は、震えながらきつく握られていた。
姉の世話をしていた下女は、僕が家を出てからすぐに亡くなったという。それから今までずっと、母が一人で姉の身の回りの世話をしていたのだろう。
気づかぬはずがない。
母は、全てを知ってしまった。
……全て、何もかも知られてしまった。
――嗚呼っ!
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
本当にあった怖い話
邪神 白猫
ホラー
リスナーさんや読者の方から聞いた体験談【本当にあった怖い話】を基にして書いたオムニバスになります。
完結としますが、体験談が追加され次第更新します。
LINEオプチャにて、体験談募集中✨
あなたの体験談、投稿してみませんか?
投稿された体験談は、YouTubeにて朗読させて頂く場合があります。
【邪神白猫】で検索してみてね🐱
↓YouTubeにて、朗読中(コピペで飛んでください)
https://youtube.com/@yuachanRio
※登場する施設名や人物名などは全て架空です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる