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第2章 8
しおりを挟む――蛇のような遊びをしよう。
――ねえ、しましょうよ?
「――勝太郎」
がば、と跳ね起きた。
枕元の電気ランプを捻り、急いで辺りを見回した。
心臓がせり上がってくるような激しい動悸。身体中、寝巻きも布団もびっしょりと汗に濡れている。
「……はあ、っあ――」
深い溜息を吐く。
どんな夢に魘されていたのかは覚えていない。ただ、最後の目覚め際にすぐ耳元で姉の声を聞いた気がした。
もう一度、部屋の中を見回してみる。耳を澄ましても、微かに虫の音が聞こえるばかりで、母屋で寝ているはずの住人たちの寝息もここまでは届かない。僕の勉学の妨げにならぬようにと、中学に入学する際にわざわざ母屋から離れた部屋を充ててくれたおかげで、向こうからは勿論余程大声で騒がない限りこの部屋の物音は皆のところまで届きはしない。もっとも、既に深夜を過ぎているはずなので、寝ぼけた僕の喚き声に目を覚ますものがいたかもしれないが、どうやらその気配もない。
就寝前に、例の詩集を読むともなしに捲っていたからあんなに魘されていたのだろう。読み慣れないものを読むものではない。枕元に置かれたままの書物の上には裏返した姉の写真が伏せてある。
「……」
少し風に当たろうと、部屋を出て、雨戸を開けた途端、心地よい夜風が微かに吹き込んでくる。思いの外賑やかな虫の声が夜の中庭に満ちていた。
中秋の名月にはまだ一周期早い満月が、庭に静謐と佇む様々なものを青白く照らしている。その中に、まるで闇に沈んだ幽霊船のような姉のいる離れが、夜よりもさらに暗い影を庭の片隅に落としている。
(本当に、人の気配がないんだな)
丑三つの夜更けでも、虫の音とともに庭中の全てが寝息吐息を立てて見えるのに、そこだけがまるで別の世界を映す鏡が衝立ててあるかのように、有機的な息吹が感じられない。
あの離れに閉じ込められて以来、専ら姉の世話を任されているのは、以前姉の部屋に忍び込んだ僕を見て変な誤解をしたまま去っていった小百合という婆さんである。この小百合婆さんはもうすっかり耳が遠くなっていて、字もろくに書けない有様なので、仮にこの老女中から姉の様子を伺おうとするとなると、耳元で屋敷中に響き渡るほどの声量を発しなければならない。
(……ああ、寒い)
少し夜風に当たり過ぎたらしく、ぶるりと悪寒が身体を走る。そっと雨戸を占めると、月明かりも虫の声も遮断され、恐ろしく無音の闇が廊下に広がった。
部屋に戻り、もう一度床についた。下着と敷布団が先ほど魘された時の寝汗で冷たく湿気って気持ち悪いが仕方ない。
明かりを消そうと枕元に伸ばした僕の手首が、……不意にひやりとした別の手にやんわりと掴まれた。
「――――」
動けなかった。声も出なかった。
傍らに寝そべるのが誰なのか、そちらに首を向けることもできなかった。
「ねえ、勝太郎?」
電気ランプのつまみに眼を落したまま硬直する僕のおとがいに手を当てて、ゆっくりと自分の方へ向けさせる。
「蛇のような遊びをしましょうよ?」
猫のようににんまりと目を細め――それがどんな遊びなのか、まるで眠れないからしりとりでもしましょうとでもいう口調で姉が笑っていた。
「――――ひぁ」
嫌、とでも言おうとしたのだろうか、僕は。
「ふ……ふふ」
僕の弱々しい拒絶に却って気を良くしたのか、ぎゅっと身体を密着させてくる。
姉の両足が僕の腰に絡まり纏いついてくる。
「大好きよ、勝太郎。――もう、死ぬまで離さないから」
にっこりと、こちらを向いて微笑を浮かべる――
……あどけない顔で微笑みかける少女の写真が、枕元で白濁の液体に汚されていた。
いや、たった今、この写真の少女目掛け、ありったけの汚濁を放ったのは、僕自身だ。
電気ランプの仄かな明かりの灯る部屋で、微かな虫の音の中で自分の息遣いが殊更大きく聞こえる。
「――ぁっ、はぁっ、はぁ、はぁっ、」
荒い息を整えながら、もう一度、その写真を覗き込む。
それは、いつか姉の部屋から持ち出したまま失くし、今日の昼間、本のペエジに栞のように挟まれているのを見つけた、あの写真。
記憶の中の姉は、既に白蛇の化物の如き淫靡なわらいしか浮かべなくなっていた。
どんなに、あの無邪気で天真爛漫な、無垢そのものの処女の笑顔を思い出そうとしても、淫らな化女のわらいにしかならなかった。――昼間、この写真を見つけるまでは。
それでも、もう一度過ちを犯す前の姉の記憶を手繰ろうと、この写真を手掛かりにせめて夢の中だけでもあの忌まわしい記憶から逃れようと、ただ遠くで僕たちを穏やかに見つめ、時々ひょいと目の前を素通りしていくだけの、僕にとってはかけがえのない家族の一人であった頃の姉の記憶を取り戻せないかと試みたが……
「はぁっ、はあぁっ……う、ううぅ、」
……夢魔は、それも許してはくれなかった。
「う、ぅうああ、ぅああっ、ひっぐぅ、うああ、あああ……」
慟哭のほかは、何も言葉にならない。
……生まれて初めての自涜だった。
僕はお姉さまを――お姉さまとの思い出すらも、自分の手で穢してしまった。
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