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人前で婚約者を侮辱してはならない
アルトレイ女大公セシリア、少女時代のお話
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イザベラはこのまま自宅に帰りたいと言って場を辞そうとしたが、セシリアが許さなかった。
「イザベラちゃん、今日は泊まっておいきなさいな。明日はちゃんとおうちまで送らせますからね」
問題が解決するまでずっと居なさいと言いたいところだが、イザベラに正式な護衛が付くならその必要もない。
ずっと応接間で話をしていて、すっかり茶も冷めてしまっている。
午後の授業を休んで帰宅していたから、まだ夕方にもなっていない。
侍女たちが新しく紅茶を入れ直し、軽食や菓子類をケーキスタンドで用意してくれた。
「あたくしたち貴族の女には不自由なことも多いけど、自分の幸せを諦めないで欲しいと思うわ」
そうして語られたのは、セシリアがアケロニア王国へ来るまでの物語だった。
まだ三十代半ばの彼女がこの国へ嫁いで来たときのエピソードはドラマチックだ。
アルトレイ女大公セシリア。
元は同盟国タイアド王国の貴族令嬢で、この国の先王ヴァシレウスの曾孫でありながら、彼に嫁いできた情熱の女性である。
タイアド王国の先王である当時の王太子に、ヴァシレウスの第一子であり、テオドロスの姉王女クラウディアが嫁いだ。
彼女はカズンにとっても姉だが、カズンは王宮内の絵姿でしか見たことがない。アケロニア王族特有の黒髪黒目の端正な顔立ちの少女だった。
セシリアはアケロニア王国の王女クラウディアと、タイアド王国の先王の孫にあたる。
アケロニア王国と同盟国両方の王族の血を持ち、身分は公爵令嬢だった。
その祖国で、セシリアは同い年の、従兄弟の王太子の婚約者だった。
この王太子はアケロニア王族の血は引いておらず、セシリアの祖父王が別に迎えた側室との間に儲けた王子の息子である。
「でも、母国の学園に在籍してたとき、王太子殿下が下級生の男爵令嬢と恋に落ちてしまわれてねえ。あたくしとの婚約は一方的に破棄されてしまったの」
ところが男爵令嬢では身分が低すぎて、将来王となる王太子の後ろ盾にもならない。
そこで王太子は狡猾にも、元々の婚約者であったセシリアの公爵家の権力をキープするべく、側室の打診を申し入れてくる。
「でも、男爵令嬢が正妃で、公爵令嬢のお母様が側室では王侯貴族の序列を乱しますよね」
母の経歴はカズンも知っている。だが、改めて本人の口から直接当時の話を聞くのは初めてだった。
「そう、あたくしの家から父が抗議すると、ならあたくしを当初の予定通り正妃に、男爵令嬢を側室に修正すると連絡が来たわ」
「えっ。“婚約破棄”された後のことですよね!?」
話を聞いてイザベラやヨシュアも驚いている。
「そうよ、おかしいでしょ? 笑っちゃう」
セシリアの上品な薄ピンクの魔術樹脂のネイルの指先が、紅茶のカップの持ち手をつまむ。
「とはいえ、あたくしの父も王家が正式に謝罪してきたから、再婚約の申し出を受け入れたわ。でもね……」
いざ改めて再婚約の儀を交わそうと婚前契約書を確認すると、セリシアは正妃どころか、公妾として王太子宮に召し上げると書かれていた。
王太子との間に子供が産まれれば、庶子となり王位継承権は与えられない。
しかしセシリアの実家の公爵家は王家に支援をするようになど、信じられないような一方的な条件ばかりが書き連ねられていた。
とんでもないことである。
当然、父親の公爵もセシリア本人も婚前契約書にサインはせず、その場を退席した。
「セシリアの祖国だったタイアド王国では、“公妾”とは王家公認の愛人という本来の意味のほかに、いくつかの機能を持つ」
「と言うと?」
途中、ヴァシレウスが補足してきた。
「王家に嫁ぐ自国の令嬢の実家が高位過ぎる場合、権力の集中を防ぐための緩衝材的に取られる措置のひとつだ。実態は公妾という名の側室だな」
セシリアはアケロニア王国と、出身国タイアド王国両方の王家の血筋の令嬢だった。
その彼女が王家に嫁ぐことで起こる権力集中を避けるという名目は、一応成立する。
王族が公妾との間に儲けた子には王位継承権を授けない国が多いが、その子が“王族の血を持つ”ことは変わらない。
王位継承権がなくとも王族の血には大きな価値があるから、その後の家同士の養子縁組や婚姻で有効に使われることが多かった。
だが、公妾に関しては、タイアド王国の数代前の王が愚かなことを仕出かしている。
自分の公妾を、臣下や国に貢献した者への“褒美”として一晩の慰めに下賜したことがあった。
それも相手が高位貴族や王宮の高位の役職持ちならともかく、低位貴族や平民出身の功労者にだ。
これを侮辱と取った高位貴族出身の公妾本人が自死を選んだケースが数例ある。
そのうちの一例など、国の英雄に下賜された公妾が相手の英雄を寝台の上で刺し殺して、自分も自害するという甚大な被害を出した。
以降、王族の公妾制度は暗黙の了解で廃止同然のはずだったのだが、王太子が愚かにも復活させようとしてきたというわけだ。
「私の娘が存命だったら、タイアド王国の王太子の暴挙を許すことはなかっただろう」
ヴァシレウスの娘、即ちアケロニア王国の第一王女でタイアド王国の王妃、そしてセシリアの祖母だったクラウディアだ。
彼女はタイアド王国に嫁ぎ、王子二人を儲けている。
一人目は生まれてすぐに夭折。
婚姻を結んで年数が経ってから生まれた第二子の王子が、臣籍降下したセシリアの父だ。
王妃本人は、残念なことにセシリアが生まれるよりずっと前に亡くなっていた。
「さすがにあんまりな対応をされたものだから、あたくし憔悴しちゃって。そんなとき、おばあさまの祖国アケロニア王国で、先王陛下が病に臥されたと聞いてお見舞いに来たのよ」
と今は夫となった、隣に座る男の逞しい腕に触れる。
先王陛下、即ちセシリアの曾祖父にあたるヴァシレウスだ。
当時、七十代後半だったヴァシレウスは大病を患い、高齢だったこともあり臥せりがちだった。
セシリアも自国の王太子の横暴さに辟易として気力が低下していた。
祖母の母国アケロニア王国へ向かったのは、先王の見舞いの名目で、実際は王太子から受けた暴挙の心痛を癒やし、冷静に考える時間を得るための療養でもあったのだ。
また、セシリア自身、アケロニア王族の濃い血を持つ。
場合によってはアケロニア王国側から王太子の愚かな公妾契約の打診を公式に批判して貰うためでもあった。
「それで、曾孫だったお母様の状況を知ったお父様はどうされたのですか」
「そりゃ、激怒するに決まっておろう。私もだが、うちの王太女の怒り具合は凄まじかったぞ」
「グレイシア様が? そうか、彼女はお母様のまたいとこですもんね」
嫁した王女の孫セシリアの苦境を知ったアケロニア王国は大いに憤慨した。
特に曾祖父で先王のヴァシレウス、現王の息女で王太女のグレイシアが揃って激怒した。
「自分たちと同じ血を持つ、由緒正しき姫を愛人に落とすなど言語道断、とタイアド王国へ強く正式に抗議したんだ」
同盟国タイアド側は、大王の称号持ちのヴァシレウスからの批判に泡を食う。
また、王太女グレイシアが、「タイアド王国でこの愚かな王太子が即位するなら在位期間中の国交を遮断する」とタイアドや円環大陸の友好国相手に強い声明を出した。
アケロニア王国は円環大陸でも有数の魔石の開発・輸出国だ。今、魔石が輸入できなくなると、生活が立ち行かなくなる国は多い。
即座にタイアド王国は問題の王太子を廃し、王位継承権を剥奪した上で男爵令嬢の家に婿入りするよう命じた。
当時を思い出すように、ヴァシレウスが少しの白髪混じりの顎髭を撫でる。
「ふはは、あれは小気味好かった。結局、元王太子は不貞相手と破局を迎え、相手の男爵家も没落したと聞く」
「“ざまぁ!”ってやつですね、お父様」
「ざまぁ?」
「様を見ろ、の俗語です。それ見たことか、みたいな」
「ふうむ、まあ元王太子の場合は自業自得だがな」
その後、タイアド王国の王家は新たな婚約者をセシリアに用意したが、セシリアは拒否した。
元婚約者の六歳年下の実弟だったので、なおさらだ。あまりにもセシリアと家の公爵家を馬鹿にしすぎている。
アケロニア王国に着いてからは、アケロニア王家側も国内の高位貴族の令息との婚約を勧めてきたが、話はすべて保留してもらっていた。
「あたくしも、祖国の元婚約者から散々罵倒されてたのよ。つまんない女だ、目の色が気に入らない、板切れみたいな貧弱な身体だ、とかもうたーっくさん!」
「あ、相性が悪かったのですね……?」
「酷かったわよ。あの頃はあたくしもまだ十六くらいだったから、身体の発育も子供の域をようやく抜けたかな? ぐらいだったのよね」
室内の全員の視線がセシリアに向く。
今のセシリアは、出るところは豊かに出て、ウエストは見事にくびれた魅力的な体型の女性だ。
まだ三十代半ばほどとはいえ、経産婦の貴族女性としては見事なプロポーションを維持しているといえる。
「『そんな貧相な身体で俺を満足させられるわけがなかろう!』とか怒鳴られたわ。『それに引き換え、俺の最愛は素晴らしい!』などと比べられたっけ。うわーこの人、あたくしという婚約者がいるのに他で関係持ってるのねサイテー! って感じだったわあ」
セシリアは輝くような明るい金髪と、鮮やかなエメラルド色の瞳を持った、甘くゴージャスな印象の美女である。
円環大陸の人間なら、百人いたら九十八人は口を揃えて美女だと褒め称えることだろう。
ヴァシレウスやカズンのような、アケロニア王族特有の黒髪黒目や端正な顔立ちより、タイアド王族の特徴のほうが強く出た容姿をしている。
それ以降のセシリアについては、アケロニア国民なら誰もが知っている。
アケロニア王国を来訪したセシリアが先王ヴァシレウスに一目惚れをした。
タイアド王国からやって来て、最初の謁見のとき脇目も振らず大王ヴァシレウスに求婚した高貴な令嬢こそが、今こうして優雅に紅茶を飲んでいるアルトレイ女大公セシリアの少女時代であった。
当時、セシリアは祖国では成人年齢の16歳。対するヴァシレウスは79歳だった。歳の差、実に63。
しかもヴァシレウスにとっては、自分の血を引く曾孫でもあった。
「さすがに孫のグレイシアより若い子供を娶る気はなかったのだが……」
現役時代や、退位しても七十代に入るまでは艶福家として知られ、側室や、愛妾に至っては数知れず、男女問わず泣かせまくったのがヴァシレウスという男だ。
ところが七十を過ぎてから、寄る年波に勝てぬというやつで、病にかかるようになった。
セシリアがアケロニア王国にやって来るきっかけも、大病にかかり、いよいよ危ういという情報がもたらされてのことだったぐらいだ。
今でこそ気力も体力も満ちて若々しく見え健康なヴァシレウスも、当時は年相応に老け込んで髪や髭に白髪も多かった。今のヴァシレウスにも白髪はあるが、黒髪のほうが断然多い。
ヴァシレウスはその場でセシリアからの求婚を、面白い冗談を聞いたと言って退けた。
だがセシリアは諦めず、その後もヴァシレウスとの面会許可を得て、求愛し続けた。
実際、ヴァシレウスもその息子の国王テオドロスも、また周囲の大人たちはほとんど、セシリアの言葉を信じていなかった。
せいぜい、セシリアが自国に戻ったとき自分の箔付けにするつもりだろうと思った程度だった。
「でもざーんねん! あたくし、とっても本気だったのよ」
王宮で自分の歓迎パーティーが催され、国内の主だった貴族や有力者たちに紹介される機会があった。
セシリアのお目当てのヴァシレウスは、会の最初に挨拶だけすると体調不良にすぐ引っ込んでいった。
しばらく、王太女夫妻の紹介でパーティーの参加者たちと挨拶したり、ダンスを楽しんだりしていたセシリアも、疲れたことを理由に途中で退席することにした。
護衛の騎士と侍女に護られて王宮の客間に戻る途中、パーティーのため忙しく動き回っているはずの侍女たちの立ち話を耳にする。
既に退位して久しいヴァシレウスは、王宮ではなく離宮のひとつに居を移している。だが今晩はこのまま王宮の客間に部屋を用意させて休むようだ、という。
その準備にかかっている侍女たちの立ち話だった。
自分に宛てがわれた客間に戻り、ドレスから部屋着に着替え、入浴なども済ませた後。
騎士や侍女も部屋から辞したことを確認したセシリアは、迷うことなく部屋を出て、客間のある棟の一番奥を目指した。
「パーティー会場を出る前にね、王太女様がこっそり教えてくれたの。今晩、この後日付が変わるまでの間だけ、ヴァシレウス様の泊まるお部屋から人払いしてやるぞって」
その言葉の意味がわからないほど、セシリアも子供ではなかった。
夜這いのときのセシリアからの口説き文句はこれだ。
『真実の愛に劣ると捨てられたあたくしに、あなたが真実の愛を教えてくださいませ』
「あれで発奮せねば男ではあるまい」
おおお、と子供たちが感嘆の声をあげる。
セシリアとヴァシレウスの馴れ初めは、この夜這いの台詞とともに有名だった。
後にヴァシレウスの伝記の番外編として、本人たちの監修で収録刊行されたエピソードなのだ。
ちなみに、新たな王族としてカズンが生まれたことを知った国民、特に男性諸氏の感想は「ヴァシレウス様、まだ現役だったんだ!?」だそうである。
傍から見ればセシリアは初恋を叶えた情熱の女性だが、ヴァシレウスの伴侶として認められるまでは紆余曲折があり、一筋縄ではいかなかった。
一晩の逢瀬の後、二ヶ月後にセシリアの妊娠が発覚する。相手がヴァシレウスだと言って本人も認めたため、そのままセシリアはアケロニア王国に出産まで留まることになった。
そうして産まれた子供が父親のヴァシレウスと同じ黒髪黒目、ほとんど瓜二つの容貌だったことで、ヴァシレウスの実子であることに異論を挟む者もいない。
そこから、セシリア自身の処遇をどうするかで、祖国もアケロニア王国も頭を悩ませることになる。
既にヴァシレウスは退位して久しいし、正妻や側室、妾などとすべて死別していた。
新しく伴侶を迎えるにあたって、すべて本人の自由に決められる状態だったのは幸いだった。
ただ、セシリアにとってヴァシレウスは直系尊属だ。
倫理道徳的にどうなのか、という批判がまず出てくる。
それもカズンが生まれていたことで何とか反論を封じることになった。
セシリア自身がヴァシレウスの曾孫でアケロニア王国の王族の血を引く事実が、まず最初の加点だった。
カズンを出産してすぐにセシリアがタイアド王国からアケロニア王国に帰化したのが次の加点だ。
最終的には、国賓として招かれたパーティーの場でセシリアが、長年関係が悪化していた国との国交を回復・樹立に大きく貢献した実績が決め手となる。
カズンを出産した時点でまだ17歳だったセシリアだが、誰もが舌を巻くほど社交に優れた能力の持ち主だったのだ。
そうして、セシリアがヴァシレウスの正統な伴侶として認められたのが、二人の子供カズンが4歳となった年のこと。
そのとき、ようやくカズンもアケロニア王族の一員として正式に認められることになる。
兄王テオドロスと当時まだ健在だった今は亡き王妃、その娘の王太女夫妻、孫のユーグレンと正式に顔合わせしたのもその年だ。
そしてカズンが学園に入学する頃には、セシリアは正式にアルトレイ女大公に列せられている。
「イザベラちゃん、今日は泊まっておいきなさいな。明日はちゃんとおうちまで送らせますからね」
問題が解決するまでずっと居なさいと言いたいところだが、イザベラに正式な護衛が付くならその必要もない。
ずっと応接間で話をしていて、すっかり茶も冷めてしまっている。
午後の授業を休んで帰宅していたから、まだ夕方にもなっていない。
侍女たちが新しく紅茶を入れ直し、軽食や菓子類をケーキスタンドで用意してくれた。
「あたくしたち貴族の女には不自由なことも多いけど、自分の幸せを諦めないで欲しいと思うわ」
そうして語られたのは、セシリアがアケロニア王国へ来るまでの物語だった。
まだ三十代半ばの彼女がこの国へ嫁いで来たときのエピソードはドラマチックだ。
アルトレイ女大公セシリア。
元は同盟国タイアド王国の貴族令嬢で、この国の先王ヴァシレウスの曾孫でありながら、彼に嫁いできた情熱の女性である。
タイアド王国の先王である当時の王太子に、ヴァシレウスの第一子であり、テオドロスの姉王女クラウディアが嫁いだ。
彼女はカズンにとっても姉だが、カズンは王宮内の絵姿でしか見たことがない。アケロニア王族特有の黒髪黒目の端正な顔立ちの少女だった。
セシリアはアケロニア王国の王女クラウディアと、タイアド王国の先王の孫にあたる。
アケロニア王国と同盟国両方の王族の血を持ち、身分は公爵令嬢だった。
その祖国で、セシリアは同い年の、従兄弟の王太子の婚約者だった。
この王太子はアケロニア王族の血は引いておらず、セシリアの祖父王が別に迎えた側室との間に儲けた王子の息子である。
「でも、母国の学園に在籍してたとき、王太子殿下が下級生の男爵令嬢と恋に落ちてしまわれてねえ。あたくしとの婚約は一方的に破棄されてしまったの」
ところが男爵令嬢では身分が低すぎて、将来王となる王太子の後ろ盾にもならない。
そこで王太子は狡猾にも、元々の婚約者であったセシリアの公爵家の権力をキープするべく、側室の打診を申し入れてくる。
「でも、男爵令嬢が正妃で、公爵令嬢のお母様が側室では王侯貴族の序列を乱しますよね」
母の経歴はカズンも知っている。だが、改めて本人の口から直接当時の話を聞くのは初めてだった。
「そう、あたくしの家から父が抗議すると、ならあたくしを当初の予定通り正妃に、男爵令嬢を側室に修正すると連絡が来たわ」
「えっ。“婚約破棄”された後のことですよね!?」
話を聞いてイザベラやヨシュアも驚いている。
「そうよ、おかしいでしょ? 笑っちゃう」
セシリアの上品な薄ピンクの魔術樹脂のネイルの指先が、紅茶のカップの持ち手をつまむ。
「とはいえ、あたくしの父も王家が正式に謝罪してきたから、再婚約の申し出を受け入れたわ。でもね……」
いざ改めて再婚約の儀を交わそうと婚前契約書を確認すると、セリシアは正妃どころか、公妾として王太子宮に召し上げると書かれていた。
王太子との間に子供が産まれれば、庶子となり王位継承権は与えられない。
しかしセシリアの実家の公爵家は王家に支援をするようになど、信じられないような一方的な条件ばかりが書き連ねられていた。
とんでもないことである。
当然、父親の公爵もセシリア本人も婚前契約書にサインはせず、その場を退席した。
「セシリアの祖国だったタイアド王国では、“公妾”とは王家公認の愛人という本来の意味のほかに、いくつかの機能を持つ」
「と言うと?」
途中、ヴァシレウスが補足してきた。
「王家に嫁ぐ自国の令嬢の実家が高位過ぎる場合、権力の集中を防ぐための緩衝材的に取られる措置のひとつだ。実態は公妾という名の側室だな」
セシリアはアケロニア王国と、出身国タイアド王国両方の王家の血筋の令嬢だった。
その彼女が王家に嫁ぐことで起こる権力集中を避けるという名目は、一応成立する。
王族が公妾との間に儲けた子には王位継承権を授けない国が多いが、その子が“王族の血を持つ”ことは変わらない。
王位継承権がなくとも王族の血には大きな価値があるから、その後の家同士の養子縁組や婚姻で有効に使われることが多かった。
だが、公妾に関しては、タイアド王国の数代前の王が愚かなことを仕出かしている。
自分の公妾を、臣下や国に貢献した者への“褒美”として一晩の慰めに下賜したことがあった。
それも相手が高位貴族や王宮の高位の役職持ちならともかく、低位貴族や平民出身の功労者にだ。
これを侮辱と取った高位貴族出身の公妾本人が自死を選んだケースが数例ある。
そのうちの一例など、国の英雄に下賜された公妾が相手の英雄を寝台の上で刺し殺して、自分も自害するという甚大な被害を出した。
以降、王族の公妾制度は暗黙の了解で廃止同然のはずだったのだが、王太子が愚かにも復活させようとしてきたというわけだ。
「私の娘が存命だったら、タイアド王国の王太子の暴挙を許すことはなかっただろう」
ヴァシレウスの娘、即ちアケロニア王国の第一王女でタイアド王国の王妃、そしてセシリアの祖母だったクラウディアだ。
彼女はタイアド王国に嫁ぎ、王子二人を儲けている。
一人目は生まれてすぐに夭折。
婚姻を結んで年数が経ってから生まれた第二子の王子が、臣籍降下したセシリアの父だ。
王妃本人は、残念なことにセシリアが生まれるよりずっと前に亡くなっていた。
「さすがにあんまりな対応をされたものだから、あたくし憔悴しちゃって。そんなとき、おばあさまの祖国アケロニア王国で、先王陛下が病に臥されたと聞いてお見舞いに来たのよ」
と今は夫となった、隣に座る男の逞しい腕に触れる。
先王陛下、即ちセシリアの曾祖父にあたるヴァシレウスだ。
当時、七十代後半だったヴァシレウスは大病を患い、高齢だったこともあり臥せりがちだった。
セシリアも自国の王太子の横暴さに辟易として気力が低下していた。
祖母の母国アケロニア王国へ向かったのは、先王の見舞いの名目で、実際は王太子から受けた暴挙の心痛を癒やし、冷静に考える時間を得るための療養でもあったのだ。
また、セシリア自身、アケロニア王族の濃い血を持つ。
場合によってはアケロニア王国側から王太子の愚かな公妾契約の打診を公式に批判して貰うためでもあった。
「それで、曾孫だったお母様の状況を知ったお父様はどうされたのですか」
「そりゃ、激怒するに決まっておろう。私もだが、うちの王太女の怒り具合は凄まじかったぞ」
「グレイシア様が? そうか、彼女はお母様のまたいとこですもんね」
嫁した王女の孫セシリアの苦境を知ったアケロニア王国は大いに憤慨した。
特に曾祖父で先王のヴァシレウス、現王の息女で王太女のグレイシアが揃って激怒した。
「自分たちと同じ血を持つ、由緒正しき姫を愛人に落とすなど言語道断、とタイアド王国へ強く正式に抗議したんだ」
同盟国タイアド側は、大王の称号持ちのヴァシレウスからの批判に泡を食う。
また、王太女グレイシアが、「タイアド王国でこの愚かな王太子が即位するなら在位期間中の国交を遮断する」とタイアドや円環大陸の友好国相手に強い声明を出した。
アケロニア王国は円環大陸でも有数の魔石の開発・輸出国だ。今、魔石が輸入できなくなると、生活が立ち行かなくなる国は多い。
即座にタイアド王国は問題の王太子を廃し、王位継承権を剥奪した上で男爵令嬢の家に婿入りするよう命じた。
当時を思い出すように、ヴァシレウスが少しの白髪混じりの顎髭を撫でる。
「ふはは、あれは小気味好かった。結局、元王太子は不貞相手と破局を迎え、相手の男爵家も没落したと聞く」
「“ざまぁ!”ってやつですね、お父様」
「ざまぁ?」
「様を見ろ、の俗語です。それ見たことか、みたいな」
「ふうむ、まあ元王太子の場合は自業自得だがな」
その後、タイアド王国の王家は新たな婚約者をセシリアに用意したが、セシリアは拒否した。
元婚約者の六歳年下の実弟だったので、なおさらだ。あまりにもセシリアと家の公爵家を馬鹿にしすぎている。
アケロニア王国に着いてからは、アケロニア王家側も国内の高位貴族の令息との婚約を勧めてきたが、話はすべて保留してもらっていた。
「あたくしも、祖国の元婚約者から散々罵倒されてたのよ。つまんない女だ、目の色が気に入らない、板切れみたいな貧弱な身体だ、とかもうたーっくさん!」
「あ、相性が悪かったのですね……?」
「酷かったわよ。あの頃はあたくしもまだ十六くらいだったから、身体の発育も子供の域をようやく抜けたかな? ぐらいだったのよね」
室内の全員の視線がセシリアに向く。
今のセシリアは、出るところは豊かに出て、ウエストは見事にくびれた魅力的な体型の女性だ。
まだ三十代半ばほどとはいえ、経産婦の貴族女性としては見事なプロポーションを維持しているといえる。
「『そんな貧相な身体で俺を満足させられるわけがなかろう!』とか怒鳴られたわ。『それに引き換え、俺の最愛は素晴らしい!』などと比べられたっけ。うわーこの人、あたくしという婚約者がいるのに他で関係持ってるのねサイテー! って感じだったわあ」
セシリアは輝くような明るい金髪と、鮮やかなエメラルド色の瞳を持った、甘くゴージャスな印象の美女である。
円環大陸の人間なら、百人いたら九十八人は口を揃えて美女だと褒め称えることだろう。
ヴァシレウスやカズンのような、アケロニア王族特有の黒髪黒目や端正な顔立ちより、タイアド王族の特徴のほうが強く出た容姿をしている。
それ以降のセシリアについては、アケロニア国民なら誰もが知っている。
アケロニア王国を来訪したセシリアが先王ヴァシレウスに一目惚れをした。
タイアド王国からやって来て、最初の謁見のとき脇目も振らず大王ヴァシレウスに求婚した高貴な令嬢こそが、今こうして優雅に紅茶を飲んでいるアルトレイ女大公セシリアの少女時代であった。
当時、セシリアは祖国では成人年齢の16歳。対するヴァシレウスは79歳だった。歳の差、実に63。
しかもヴァシレウスにとっては、自分の血を引く曾孫でもあった。
「さすがに孫のグレイシアより若い子供を娶る気はなかったのだが……」
現役時代や、退位しても七十代に入るまでは艶福家として知られ、側室や、愛妾に至っては数知れず、男女問わず泣かせまくったのがヴァシレウスという男だ。
ところが七十を過ぎてから、寄る年波に勝てぬというやつで、病にかかるようになった。
セシリアがアケロニア王国にやって来るきっかけも、大病にかかり、いよいよ危ういという情報がもたらされてのことだったぐらいだ。
今でこそ気力も体力も満ちて若々しく見え健康なヴァシレウスも、当時は年相応に老け込んで髪や髭に白髪も多かった。今のヴァシレウスにも白髪はあるが、黒髪のほうが断然多い。
ヴァシレウスはその場でセシリアからの求婚を、面白い冗談を聞いたと言って退けた。
だがセシリアは諦めず、その後もヴァシレウスとの面会許可を得て、求愛し続けた。
実際、ヴァシレウスもその息子の国王テオドロスも、また周囲の大人たちはほとんど、セシリアの言葉を信じていなかった。
せいぜい、セシリアが自国に戻ったとき自分の箔付けにするつもりだろうと思った程度だった。
「でもざーんねん! あたくし、とっても本気だったのよ」
王宮で自分の歓迎パーティーが催され、国内の主だった貴族や有力者たちに紹介される機会があった。
セシリアのお目当てのヴァシレウスは、会の最初に挨拶だけすると体調不良にすぐ引っ込んでいった。
しばらく、王太女夫妻の紹介でパーティーの参加者たちと挨拶したり、ダンスを楽しんだりしていたセシリアも、疲れたことを理由に途中で退席することにした。
護衛の騎士と侍女に護られて王宮の客間に戻る途中、パーティーのため忙しく動き回っているはずの侍女たちの立ち話を耳にする。
既に退位して久しいヴァシレウスは、王宮ではなく離宮のひとつに居を移している。だが今晩はこのまま王宮の客間に部屋を用意させて休むようだ、という。
その準備にかかっている侍女たちの立ち話だった。
自分に宛てがわれた客間に戻り、ドレスから部屋着に着替え、入浴なども済ませた後。
騎士や侍女も部屋から辞したことを確認したセシリアは、迷うことなく部屋を出て、客間のある棟の一番奥を目指した。
「パーティー会場を出る前にね、王太女様がこっそり教えてくれたの。今晩、この後日付が変わるまでの間だけ、ヴァシレウス様の泊まるお部屋から人払いしてやるぞって」
その言葉の意味がわからないほど、セシリアも子供ではなかった。
夜這いのときのセシリアからの口説き文句はこれだ。
『真実の愛に劣ると捨てられたあたくしに、あなたが真実の愛を教えてくださいませ』
「あれで発奮せねば男ではあるまい」
おおお、と子供たちが感嘆の声をあげる。
セシリアとヴァシレウスの馴れ初めは、この夜這いの台詞とともに有名だった。
後にヴァシレウスの伝記の番外編として、本人たちの監修で収録刊行されたエピソードなのだ。
ちなみに、新たな王族としてカズンが生まれたことを知った国民、特に男性諸氏の感想は「ヴァシレウス様、まだ現役だったんだ!?」だそうである。
傍から見ればセシリアは初恋を叶えた情熱の女性だが、ヴァシレウスの伴侶として認められるまでは紆余曲折があり、一筋縄ではいかなかった。
一晩の逢瀬の後、二ヶ月後にセシリアの妊娠が発覚する。相手がヴァシレウスだと言って本人も認めたため、そのままセシリアはアケロニア王国に出産まで留まることになった。
そうして産まれた子供が父親のヴァシレウスと同じ黒髪黒目、ほとんど瓜二つの容貌だったことで、ヴァシレウスの実子であることに異論を挟む者もいない。
そこから、セシリア自身の処遇をどうするかで、祖国もアケロニア王国も頭を悩ませることになる。
既にヴァシレウスは退位して久しいし、正妻や側室、妾などとすべて死別していた。
新しく伴侶を迎えるにあたって、すべて本人の自由に決められる状態だったのは幸いだった。
ただ、セシリアにとってヴァシレウスは直系尊属だ。
倫理道徳的にどうなのか、という批判がまず出てくる。
それもカズンが生まれていたことで何とか反論を封じることになった。
セシリア自身がヴァシレウスの曾孫でアケロニア王国の王族の血を引く事実が、まず最初の加点だった。
カズンを出産してすぐにセシリアがタイアド王国からアケロニア王国に帰化したのが次の加点だ。
最終的には、国賓として招かれたパーティーの場でセシリアが、長年関係が悪化していた国との国交を回復・樹立に大きく貢献した実績が決め手となる。
カズンを出産した時点でまだ17歳だったセシリアだが、誰もが舌を巻くほど社交に優れた能力の持ち主だったのだ。
そうして、セシリアがヴァシレウスの正統な伴侶として認められたのが、二人の子供カズンが4歳となった年のこと。
そのとき、ようやくカズンもアケロニア王族の一員として正式に認められることになる。
兄王テオドロスと当時まだ健在だった今は亡き王妃、その娘の王太女夫妻、孫のユーグレンと正式に顔合わせしたのもその年だ。
そしてカズンが学園に入学する頃には、セシリアは正式にアルトレイ女大公に列せられている。
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