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第三章 カーナ王国の混迷
聖女は赦しを与えなかった
しおりを挟む「あ、アイシャ様……」
アイシャは少しの間、黙って離れた位置から飴のような茶色の瞳でミズスィーマ氏を見ていた。
やがて無言のままミズスィーマ氏に近づき、彼が四の五の言う前に腕を引っ張って強引に屈ませると、その額をトン、と指先で軽く押してきた。
ルシウスから虚無魔力のサンプルを見せられたときから、アイシャはあの悍ましい負の塊を解除する術に取り組んでいた。
虚無ほどではなくても、何か強烈な負の問題を引き起こす人間には、意識の問題や感情の問題があることが多い。
そういった感情をまず最初に把握する。あるいは一度鎮静させてから、聖なる魔力で意識や心と身体のアンバランスなところを調和させると本人の問題を解決へ導きやすい。
そう、この男の場合は頭部だ。
自分の「こうあるべき」で凝り固まった思考の座、頭部の異常。
聖女であるアイシャにすら自分の考える正しさを押し付け、押し潰そうとしたその傲慢。
剥き出しのままだと邪気だが、そこに聖なる魔力を作用させて、浄化しやすい状態までカスタマイズしてやればいい。
(私は知ってるわよ、ミズスィーマ。人々に自分が人格者だと見せていたけど、その粗を私が見抜いた後から、私への威圧的な態度が増えた。でも私は誤魔化されない)
「!?」
気づくとアイシャはもう通り過ぎている。
ミズスィーマ氏の頭の中のもやが晴れていく。
慌てて彼はアイシャを追い、その腕を掴んで引き止めた。
「わ、わたしは何ということを……アイシャ、聖女アイシャ、お待ちを!」
腕を掴まれたアイシャは振り向いて、鬱陶しそうにその腕を振り解こうとしたが、思いの外掴まれた力が強すぎて離れない。
品がないことは承知だが、アイシャはチッと舌打ちした。
そうだ。アイシャはこの男の、こういう無遠慮なところも嫌いだったのだ。女性の腕を平気で掴んでしまえるこの男が。
人前では良い人間のように見せていたが、この男の実態や本性はこれなのだ。
いわゆる男尊女卑の考えの持ち主なのである。
だから同じ聖なる魔力持ちでも、男性の聖者ビクトリノにはへりくだり、女の聖女アイシャには非常に当たり方がきつく厳しかった。
(だけどできなかった。私は聖女だから、個人的な好き嫌いを表に出してはいけないって言われてたから。クーツやドロテア、彼らの取り巻きたちに面と向かって抵抗できなかったのもそのせい。……この男に対してもね)
アイシャは感情のない顔でミズスィーマ氏を見上げた。
彼は背も高く力も強い大人の男だ。彼にいきなり怒鳴られて当時のアイシャは非常に傷ついた。
当時、本当に唯一の慰めとも言える聖者ビクトリノとの交流の機会すら奪われて、心底この男を憎んだ。
そして「憎んではいけない、恨んではいけない」と教会から受けた教えとの間で引き裂かれそうな思いを味わった。
「……ねえ。私、あなたのこと嫌いだわ。あなたが私にしたことも言ったことも許すつもりはない。だからといって、何かするつもりもないけど。もう私に話しかけるのはやめてくれる?」
それだけ言って、アイシャは捕まれた腕を魔力を使って振り払い、そのまま去っていった。
その後、ミズスィーマ氏はがむしゃらに働いて最初は商会を持ち直したが、すぐ先細りになった。
聖女から赦しを得られず、己の過ちを償う機会も与えられなかった彼は、それでも必死に働き続けた。
しかし何をやっても上手くいかない。
周囲は当然、聖女アイシャを不当に貶めた罰だと噂する。
しばらくは立て直そうと奔走していたが、やがて諦めて、まだ現役の年齢だったが引退して商会は息子に引き継いだ。
そうして息子がやっと商会を持ち直した頃には、かつて威勢を誇ったミズスィーマ氏は見る影もなかった。
一代で王都に商会を立ち上げ地区の顔役になり、王都教会の世話役まで務めた男の末路は惨めだった。
彼はカーナ王国の教会に聖者ビクトリノが訪れたときの接待役でもあったから、その威光で商売や人脈を広げてきている。
顔が広いだけあって、どこに行っても人の目があり、陰口を叩かれる。
よりによって自国の聖女アイシャが聖者ビクトリノと謁見できないよう謀った男だ。
教会はこの罪を重く見て、後にミズスィーマ氏を破門した。
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