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第9話
しおりを挟むその日の夕方、学会が終わるとロビーには人集りが出来ていた。
知り合いと話し込んでいる医師達や医師に用がある医療関係の営業が接待の名目で待機していたりしていた。
谷垣先生は「ほな、また~」と言いながら人垣をかき分けて何処かに消えてしまった。お姉さんが優しく接待してくれる店にでも行ったのであろう。
俺もこの人垣から逃れようと、いそいそと出口に向かって歩いて行くと、ふと肩を捕まれた。
「和真先生、私に挨拶も無しに何処に行くんですか?」
この威圧的な物言い、振り向くまでもない。
この声の持ち主が誰だか勿論知っている。
「雪菜……いや、仁堂先生」
「あらっ、雪菜で構わないわよ。和真先生」
意地悪く口角を上げて微笑む姿は小悪魔を演じている女優を感じさせる。
「久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
「元気そうに見えるの?元彼に邪険にされた私を見て」
「まあ、その~来ているのは知ってたよ。敏雄から聞いてたし」
「峰ヶ崎君にはさっき挨拶したわ。和真先生に宜しくって言われたけど、それなのに貴方は私に何も言わずに帰ろうとしたのね」
「いや、少し話せればとは思っていた。仁堂先生も忙しいだろうから」
「今日は時間があるわ。それと仁堂ではなくて昔みたいに雪菜と呼んで欲しいわ」
「わかりました。雪菜先生」
「わざとかしら?和真先生」
物凄く、嫌味っぽく言われた。
俺には雪菜と話すことなどないし……
懐かしいとは思うが、彼氏持ちの元彼女と時間を潰す気にはなれない。
それにこの大学にはなるべく長いしたくない。
「それで何処に連れてってくれるの?」
まるでデートの約束をしていたようだ。
勿論、そんな約束はしてないが……
「俺には予定があるのだが……」
気になる患者もいる事だし帰りたい。
「そうなの?私とお茶する時間も無いわけ?」
う~~困った。
ここで問答を繰り返しても目立つだけだ。
「わかった。そこのカフェでいいか?」
その時、
「いたいた。お兄ちゃん」
俺は、声をした方を振り向く。
「美晴……」
見つかってしまった。
この大学に居たくない理由に……
妹の美晴。
この大学の医学生だ。
俺の能力を知っている為、昔から厄介事を持ち込んでくる。
あれは、俺が中学生の時だった。
小学生低学年だった美晴が血塗れの猫を抱えてきた。
車に轢かれたようで意識は朦朧としていた。
美晴は、泣きながら俺に治して、と言う。
俺は、猫よりも抱えて血塗れになった美晴を見て倒れかけた。
まあ、猫は癒しの力で無事だったのだが……
そんな妹の美晴は、俺にとっては厄介事を運んでくる配達人の様な存在だ。
「あら、美晴ちゃんじゃないの?久しぶりね」
「わあ、雪菜さん。あれ、もしかしてお兄ちゃんとヨリを戻したんですか?」
雪菜と妹の美晴は、何度か会っている。
お互いの連絡先も交換していたはずだ。
「それなら良いのだけど、和真先生は私なんか眼中にないみたいなの」
「酷い。お兄ちゃん、雪菜さんに失礼だよ」
二人で勝手に盛り上がっているようだ。
俺をディスる方向で……
「美晴、俺に何か用か?」
「うん、ちょっとね」
「まあ、とにかくみんなでお茶しましょう。行くわよ。和真先生」
雪菜は俺の腕に自分の手を添えて歩き出した。
俺は、引っ張られるように、敏雄と訪れたカフェに連行されたのだった。
◆
「ほほう、あれが巷で噂の天才外科医、医集院和真か……」
人垣の中でひっそりと和真達を見ていた中年男性が呟く。
ヨレヨレの背広に、無精髭。
少し怪しげな中年男性の目は蛇のような眼を細めていた。
肩から下げたバッグには、高級そうな一眼レフのカメラが覗いている。
「この間の高速道路事故でも活躍したようだが、あれだけの事故で死人が一人だけだっけか?そんなのありえねぇだろう?絶対、あの男には何かある!」
経験則からそう判断した中年男性は、そっと和真の後をつける。
「特ダネの予感がするぜ」
カメラの入ったバッグを片手でポンポンと軽く叩いてその男は人垣の中に消えて行った。
◆
「姉貴、まだそんな物見てんのか?」
ノックもせずにドアを開けてそう言い放った沙織は、眠そうな目をして古い本とにらめっこしてる香織に尋ねた。
「沙織、ノックしてくれる?これでもいろいろあるんだから」
「そうだった。すまんすまん」
副医院長の香織の部屋を訪ねた妹の沙織は、机の上に広げられた古い本と既に紙としての寿命を全うしているくたびれた紙片を覗き込んだ。
「沙織、仕事の方はどう?」
「ああ、少し慣れるまで時間がかかりそうだ。やる事は一緒なんだけどスタッフの対応があっちとじゃあ大分違うからね」
「まあ、あなたなら他人の目なんて気にしないと思うから私は気にしてないけどね」
「なら、何でそんな事を聞くんだよ?」
「母さんがね。心配してたからかな?沙織は和真のところにいるんでしょう?家にも顔を出してちょうだい」
「わかった、そのうちな」
「やれやれ……」
奔放な性格の沙織は、母親の心配の種でもある。
誰かと結婚して落ち着いてほしいと常日頃から母親は言っていた。
「ところで、和真のこと、何かわかったのか?」
「さっぱりよ。文献読んでも詳しい事は書かれていないわ」
香織は、弟である和真の事を調べていたようだ。
「しかし、不思議な力だよなぁ」
「そうね。医者なら誰でも欲しがるんじゃないかしら。当の本人は力を嫌がっているみたいだけど」
「和真だしな」
「そうね、和真だし……」
沈黙が部屋に立ちこもる。
注意して耳を澄まさなければ聞こえないエアコンの音が二人の耳に聞こえた。
「やはり、力の代償ってあるのか?」
「そうね。力を使った先代は42歳で亡くなったようね」
「昔の寿命はみんなそんなものだろう?今の時代に当てはめるには荒唐無稽じゃないか?」
「私もそう思うわ……でも、心配なの。何だか胸騒ぎがするのよ」
香織は、そう言って読みかけの古い本を閉じた。
「人を癒すのに自分の命を削っている、なんて香織姉の妄想じゃないのか?」
「それなら良いのだけど……」
香織は、和真の能力の事を知った時から調べていた。
そして、たどり着いたのがその答えだった。
「まあ、和真にはなるべく能力を使わない方向で話しておくよ」
「そうね、お願いするわ。沙織」
再び訪れた沈黙が二人の不安を押し上げたのだった。
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