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第十五話
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それからわちきは見世に引きずり戻されて、仕置部屋に投げ入れられた。着物を剥がされて、遣手に竹篦で何度も打たれた。しばらくここにいろって縛られたまま放置される。
前に足抜けしようとした朋輩が、すぐ捕らえられて、ここに入ったのは、いつだったっけ。垂れ流しの小便のにおいがきつい。肥溜めのようなにおいがするんだ、ここは。糞もそんままだから、臭いのなんのって。叩かれた衝動で吐き出したゲロもそのままさ。
身体の痛みも部屋のにおいもどうでもいい。今はあの人がどうなったか知りたい。白い羽織が赤く染まるくらいだ、あんままだったら…………考えたくもない。涙がぽろぽろ溢れて落ちていく。わちきが声をかけなきゃ良かったんだ。そんまま「逃げて」って言りゃ良かった。名前なんて呼んだら、振り向くに決まってる。しかも、呼び捨てにしちまったんだ。あの人、驚いただろな……。噛まれた指がじんじんする。熱をもって疼くんだ。
夜見世が始まったようだ。清搔の音が聞こえる。こんなことが無かったら、わちきは今頃あのせんせと話せてたんだ。今まで何してたかとか何食ってたとか世間話してさ、それからおしげりさ。今度会えたら、言おうと思ってたんだ。
「胸が苦しいのは、せんせに惚れちまったからだ」って。きっとあのせんせのことだ。「そりゃ大変だ」とか言うんだ。「好き」と言っても「おれも好きだよ」としか返してくれないのさ。わかってるよ。優しいんだ。優しいから、傷つかないように欲しい言葉をくれるんだ。
涙がぼたぼた落ちていく。駄目だ駄目だ。わちきらしくない。胸が苦しいよ。早く、せんせに会いたい。
「春日さん、入るげすよ」
声の後に戸がガタガタ鳴り、開かれた。外の明かりがぼんやり冷たい地面を照らす。
「源次! あのせんせは! せんせはどうなったんだい!」
源次は少し困ったように眉を寄せる。彼の目尻から涙が一筋溢れていく。きらきらの軌跡を描き、地面にぽったり、ぽったり。なによりの返事じゃないか。
「おらは、これを春日さんに渡すように、言われて」
「何だい?」
縛られたままのわちきの前で源次は手の中の物を見せてくれた。こじんまりとした黄楊櫛だ。素人娘が使っているようなもの。それをそんままわちきの手に握らせる。小さくて、すべすべしていて、馴染みやすい。良い櫛だ。
「誰がこんなものを」
「中臣屋の若旦那様げす」
「ああ、あの鬼の兄さんか……。櫛なんてわちきに渡してどういうつもりなんだか。おけいが甚助になっちまうよ。ただでさえ、嫉妬深くて気を病んだって子なのに」
「……春日さん、中臣屋の若旦那様から、伝言げす」
「何さ」
「『夏樹が貴女に渡す物に迷っていたので』って」
「は?」
ってことは、これはせんせからの贈り物。でも、贈り主はーー……、ああ、嫌だ嫌だ。源次の前で泣きたくなんてないのに、涙が出ちまう。
こんなもの渡すなんてどういうつもりだとかなんとか威勢よく言えたら良いのに、口を開けば泣き声ばかりだ。
ばたばた、やかましい足音が聞こえてくる。茂吉が入ってきた。
「茂吉さん、そんなに慌ててどうしたんげすか?」
「春日! お前の言うとおりだった! あたしは悪いことをしちまった! すまん!」
「今更謝ってどうすんだか……」
茂吉は地面に頭を擦り付けるくらいに土下座している。
こいつまでこういうってことは……ああ……嫌だ。
「夏樹先生がな、『腹痛いから今夜は無理だ、わりぃな』って言ってた」
「は?」
「……ん?」
「今、何て?」
「だから、先生は腹が痛いって」
「夏樹せんせ、生きてんのかい?」
「あい。生きてる。お前は知らなかったかもしんねぇが、中臣屋の若旦那様が近くにいたようで……すぐ何かしたとかしなかったとか」
そういえば、わちきが騒ぎの中心に向かう時に「鬼だ」と聞こえた。あれは……わちきに言ったんじゃなくて、小焼兄さんに向かっての声だったのか。
そっか。助かったんなら、良かったや。涙がぽたぽた太ももにあたる。わちきらしくもない、こんなに泣くなんて、わちきらしくない。おけいの泣き虫が伝染っちまったかね。
「というか、源次! ややこしい泣き方すんじゃないよ! あんたは何だい!」
「だって、春日さんが櫛を貰うって、おら、なんか嬉しくて」
「この時分に嬉し泣きすんじゃないよ!」
ややこしい! ああ、ややこしいやつだ! でも、源次はとても良いやつだ。縛られてっから殴れないのが気に食わないが。
「じゃあ、あたしは伝言も終わったから出るよ」
「おらも出やす。あ、櫛は春日さんの部屋に置いとくげす」
源次はわちきの手から櫛を取り、茂吉と一緒に部屋を出て行った。
……けっきょく、昼見世をとびだしちまったから、このまんまか。
ああ、早くせんせに会いたい。生きてんなら、良かったや。
前に足抜けしようとした朋輩が、すぐ捕らえられて、ここに入ったのは、いつだったっけ。垂れ流しの小便のにおいがきつい。肥溜めのようなにおいがするんだ、ここは。糞もそんままだから、臭いのなんのって。叩かれた衝動で吐き出したゲロもそのままさ。
身体の痛みも部屋のにおいもどうでもいい。今はあの人がどうなったか知りたい。白い羽織が赤く染まるくらいだ、あんままだったら…………考えたくもない。涙がぽろぽろ溢れて落ちていく。わちきが声をかけなきゃ良かったんだ。そんまま「逃げて」って言りゃ良かった。名前なんて呼んだら、振り向くに決まってる。しかも、呼び捨てにしちまったんだ。あの人、驚いただろな……。噛まれた指がじんじんする。熱をもって疼くんだ。
夜見世が始まったようだ。清搔の音が聞こえる。こんなことが無かったら、わちきは今頃あのせんせと話せてたんだ。今まで何してたかとか何食ってたとか世間話してさ、それからおしげりさ。今度会えたら、言おうと思ってたんだ。
「胸が苦しいのは、せんせに惚れちまったからだ」って。きっとあのせんせのことだ。「そりゃ大変だ」とか言うんだ。「好き」と言っても「おれも好きだよ」としか返してくれないのさ。わかってるよ。優しいんだ。優しいから、傷つかないように欲しい言葉をくれるんだ。
涙がぼたぼた落ちていく。駄目だ駄目だ。わちきらしくない。胸が苦しいよ。早く、せんせに会いたい。
「春日さん、入るげすよ」
声の後に戸がガタガタ鳴り、開かれた。外の明かりがぼんやり冷たい地面を照らす。
「源次! あのせんせは! せんせはどうなったんだい!」
源次は少し困ったように眉を寄せる。彼の目尻から涙が一筋溢れていく。きらきらの軌跡を描き、地面にぽったり、ぽったり。なによりの返事じゃないか。
「おらは、これを春日さんに渡すように、言われて」
「何だい?」
縛られたままのわちきの前で源次は手の中の物を見せてくれた。こじんまりとした黄楊櫛だ。素人娘が使っているようなもの。それをそんままわちきの手に握らせる。小さくて、すべすべしていて、馴染みやすい。良い櫛だ。
「誰がこんなものを」
「中臣屋の若旦那様げす」
「ああ、あの鬼の兄さんか……。櫛なんてわちきに渡してどういうつもりなんだか。おけいが甚助になっちまうよ。ただでさえ、嫉妬深くて気を病んだって子なのに」
「……春日さん、中臣屋の若旦那様から、伝言げす」
「何さ」
「『夏樹が貴女に渡す物に迷っていたので』って」
「は?」
ってことは、これはせんせからの贈り物。でも、贈り主はーー……、ああ、嫌だ嫌だ。源次の前で泣きたくなんてないのに、涙が出ちまう。
こんなもの渡すなんてどういうつもりだとかなんとか威勢よく言えたら良いのに、口を開けば泣き声ばかりだ。
ばたばた、やかましい足音が聞こえてくる。茂吉が入ってきた。
「茂吉さん、そんなに慌ててどうしたんげすか?」
「春日! お前の言うとおりだった! あたしは悪いことをしちまった! すまん!」
「今更謝ってどうすんだか……」
茂吉は地面に頭を擦り付けるくらいに土下座している。
こいつまでこういうってことは……ああ……嫌だ。
「夏樹先生がな、『腹痛いから今夜は無理だ、わりぃな』って言ってた」
「は?」
「……ん?」
「今、何て?」
「だから、先生は腹が痛いって」
「夏樹せんせ、生きてんのかい?」
「あい。生きてる。お前は知らなかったかもしんねぇが、中臣屋の若旦那様が近くにいたようで……すぐ何かしたとかしなかったとか」
そういえば、わちきが騒ぎの中心に向かう時に「鬼だ」と聞こえた。あれは……わちきに言ったんじゃなくて、小焼兄さんに向かっての声だったのか。
そっか。助かったんなら、良かったや。涙がぽたぽた太ももにあたる。わちきらしくもない、こんなに泣くなんて、わちきらしくない。おけいの泣き虫が伝染っちまったかね。
「というか、源次! ややこしい泣き方すんじゃないよ! あんたは何だい!」
「だって、春日さんが櫛を貰うって、おら、なんか嬉しくて」
「この時分に嬉し泣きすんじゃないよ!」
ややこしい! ああ、ややこしいやつだ! でも、源次はとても良いやつだ。縛られてっから殴れないのが気に食わないが。
「じゃあ、あたしは伝言も終わったから出るよ」
「おらも出やす。あ、櫛は春日さんの部屋に置いとくげす」
源次はわちきの手から櫛を取り、茂吉と一緒に部屋を出て行った。
……けっきょく、昼見世をとびだしちまったから、このまんまか。
ああ、早くせんせに会いたい。生きてんなら、良かったや。
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