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4章 運命は残酷

24 イカロスの皮肉

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 大手弁護士事務所は案件の規模も量もでかくて残業が多いのに、今日はずいぶん帰りが早い。

(間の悪さと運命は紙一重だな)

 もう一人、作業着の男も見えた。隔板修理の見積もりか。夕夜は動きを止めて夜闇に同化しようとしたが、できるわけもなく。
 隔板の残骸を退けた真王が、掃き出し窓をこつんとノックしてくる。

「おかえり。煙草吸えば?」

 体調への気遣いが前面に出た声だ。
 厳密にはこれから仕事だ。だが夕夜も気まずさより心配が上回り、足を前に出した。

 夜気の中、煙草を咥える。隣の真王が火を差し出してきた。あのジッポを使って。

「調子悪くないみたいだな」

 などとのたまう真王の横顔を、盗み見る。
 目の下のクマが濃い。ろくに眠れなかったのだろう。夕夜に文句のひとつもあるに違いない。粛々と聞こう。

 夕夜としても区切りの機会だ。中途半端なセフレは終わりと告げて……、そう考えただけで、甘い煙草が苦く感じる。

「しっかし、父子おやこで好み似過ぎだろ」

 真王が先に口火を切った。冗談ぽく言ったつもりらしいが、眉尻は下がっている。

「てめえとあの人は似てねえよ」

 つい励ます。この顔でも可愛いのは真王だけだ。夕夜への接し方も、二階堂はドライなのに対して、真王は甲斐甲斐しい。
 そのせいで父子と見抜けなかった。

「そりゃ似たくないし。職場でも父さんと同じ名字じゃなく、下の名前呼びさせるくらい」

 真王が柵から身を乗り出した。実家方面をじとっと睨んだのか。父親との確執を改めて感じさせる一方、夕夜への眼差しには棘がない。父親の不貞の共犯なのに。

「……おれを恨め。てめえの家族壊して、最悪な経験もさせた」

 詰られたほうがましだ。あえて焚きつける。
 だが、真王は首を横に振った。

「恨みより嫉妬が勝ってんだわ。パトロンとやらが夕夜さんを癒せるなら託そうかとも、一瞬考えたけど……。あの人、結婚相手をダイナミクスじゃなく顔で選んでてさ。いい暮らしさせるから愛人は許せ、ってドムなわけ」

 乾いた笑みをこぼす。グレア事件の前から二階堂家はよそよそしかったようだ。二階堂がナチュラルにドムの力を使うとそうなるのかもしれない。
 真王の「おかえり」は、家が居心地のよい場所だったからではなく、むしろ居心地のよい家への憧れか――?

「夕夜さんも金で支配されてんだって、わかってるよ。だから絶対譲らない」

 かと思うと覚悟に満ちた目を向けてくる。
 罪を不問とする上に、夕夜を諦めないというのか? 眩しくて、鼻の奥がつんとした。いつもと逆だ。泣き虫なのは真王なのに。

(終わりだって、思いきれねえだろ……)

 この、愛に満ちたドムは、運命の相手ではない。夕夜が縋っていい男ではない。
 傷つけたのを謝らず、二階堂とは利害関係だと説明もしないことで、失望してもらおう。吐き捨てるように言う。

「違え。おれは理想より金なサブなんだよ」
「いやいや、あんたのロマンチック、本物っしょ。俺は笑ったりしないよ」

 真王はまたも夕夜の思惑を超えた。

「夕夜さんが理想追う姿見て、俺も頑張ろうって思い直したし」

 ……違う。夕夜だってままならない。

「てか、あの人夕夜さんを『慎』って呼んでたよな。本名教えてもらってる俺は、恋人になるチャンスあるって思っていい?」

 真王が優越感を浮かべる。なぜそうなる。

「俺、夕夜さんを他の男に渡したくない。この人は父さんの愛人じゃなくて俺の恋人だ、って言いたかった」

 真王が切々と言い募るほど、夕夜は煙草のフィルターをきつく噛み締めた。

(おれだって真王を他のサブに渡したくは)

 喉もとまで出かかった言葉を呑み込む。
 破れ鍋サブでは、真王に釣り合わない。満たせない。解放してやらなければ。

「結局支配すんじゃねえか」
「……っ!」

 煙を吐くとともに突き放した。
 顔を歪めた真王を置いて、自分の部屋に引っ込む。
 こう言えば真王は離れていく。悩みを知るからこそ、地雷もわかる。
 実際、追いかけてこない。

 気が抜けて床に座り込む。支度をして出掛けなければならないのに。最近の夕夜の頭と心の大部分を占めていたものを手放したはずが、却って身体が重い。

 思いどおりに生きられずとも、運命のパートナーという光があった。いつか出会うのを夢見て、今までやってこられた。
 だが横から別の光に――真王に照らされた。夕夜には強過ぎる光だ。だから離れたい。離してやりたい。……離れたくない。

(別の言い方があったか? もう遅いか)

 キッチンを見やる。真王がセックスしに来るたび、鍋やら調味料やらが増えた。自分のための手料理は実家以来で、楽しみだった。
 なのに「美味い」と言えずじまいだ。

(可愛げがないのは昔から、変わらねえ)

 愛を素直に受け取れず、コマンドで気持ちよくなってやれず、真王の心もダイナミクスも満たせない。

 いつの間にか時計の長針が一周している。出勤しようと、機械的に玄関を出る。
 なぜか、ほのかにコンソメの香りがした。


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