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一話 狂
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これは九十年代に実際に起こった事件。
事件が起こる数年前、健気な母親が夫の暴力と浮気に耐えていた。
彼女は職場では罵られ、近所には悪い噂が広まり孤立して、とうとう家族からも絶縁された。
いよいよ耐えられなくなった彼女は子供を連れて関西地方某所へ移り住んだ。
ところが、彼女の精神は衰弱して疑心暗鬼に陥っていく。
仕事は上手くいかず、失敗する度に言い訳をして、いよいよ虚言妄言を話すようになった。
やがて仕事を失って、生活保護で貰う僅かな金を頼りに半ば引き篭もりながら生活を送る。
どんどんそれが悪化して、ろくに家を出ることが無くなれば飢えてくる。
子供は毎日のように母親に泣いてすがった。
そんなある日のこと。
彼女は我が子まで信じられなくなった。
精神が錯乱して子供に訳の分からないことを叫ぶようになった。
ついに事件は起きる。
彼女達の家は人目に付きにくい場所にあった。
神社の近くの脇道を進んだ先、林の中に隠れるように二階建ての一軒家がある。
事件の目撃者は足音を立てないようにして緩やかな坂を上り、その家へと向かっていた。
人の気配も音もない。
妙に静かで、目撃者はいやに緊張して慎重に進んだ。
相変わらず庭に面したリビングの窓には雨戸が半端に閉められていて、その隙間から段ボールが貼られているのが見えた。
息を殺してドアを開く。
小さく呼び掛けてみても返事はない。
玄関に上がって、真っ直ぐリビングへ向かった。
襖が、少しだけ開いていた。
誰でもこういう異常な雰囲気を感じたら開けてしまうよりも、まず隙間から様子を窺ってみようと思うものだ。
細い隙間から恐る恐る畳の部屋を、そっと覗く。
母親も子供もいた。
子供はまだ四才で今日も泣いていたみたいだ。
涙と、そして血で顔が濡れている。
顔から肩、腕、胸、腹のところどころが骨まで見えていた。
母親は我が子の腹を食っていた。
泣きながら食っていた。
まさに有名な絵画、我が子を食らうサトゥルヌスさながらの、それ以上の酷い有様だった。
目撃者は一目散に逃げた。
彼女は警察が駆けつけた時もまだ我が子を食っていた。
引き離そうとしても、必死に食らいついていたらしい。
後々、彼女はあの状況についてこう語っている。
「子供を殺したことが知られてはいけないと思いました」
つまりは証拠隠滅。
頭がおかしくなって滅多刺しにした後に我が子を食したと語り終えた。
「ここがその現場だ」
蓮は平気で、自慢するみたいに紹介した。
時刻は夜の十時過ぎ。
高校二年生の少年達は夏休みの定番、心霊スポットに肝試しに来ていた。
現在も家はしっかり残っていて、庭に面した窓は雨戸が閉められていた。
中には血溜まりや血飛沫というような血痕が掃除されずそのまま残っているという。
そして、母親の霊がいて体の一部を食われるとか。
そんな噂を確かめようと蓮に誘われて朝陽は嫌々ここへ来た。
どうしたって気分が悪い。
遊び半分で来るようなところではない。
朝陽は胸の内がムカムカしていた。
不良の蓮と、彼とつるんで悪さをしているらしい大晴に強引に誘われた。
不憫な朝陽を放って置けないのか樹が付いて来てくれた。
西村樹は朝陽と小学生からの幼馴染。
いわゆるお坊ちゃんで、頭が賢く、一方で少し間が抜けるところがあった。
今日だって断る手伝いをしてくれれば良かったのに、どちらかと言えば乗り気で朝陽はガッカリさせられた。
「怖いのか。幽霊よりもいじめっ子の方が怖いだろう」
そう言って馬鹿にするのは松村大晴。
体が大きくて力が強いが、暴力を振るうことはないので一応は安心している。
大晴とは高校で出会った。
朝陽が虐められていても笑って見てる嫌な奴だけれど、後で何か奢って慰めてくれたりするので朝陽は彼のことをイマイチ嫌いになれないでいる。
「心配すんなって。俺達は味方だっていつも言ってんだろ。朝陽のことはちゃんと守ってやっから」
山崎蓮は中学一年の時に転校してきて友達になった。
小学生の時に朝陽以上に酷くいじめられていたらしい。
その反発か、現在は不良になって、ついでに朝陽をいじめっ子から助けてくれる。
もうお気付きというかお分かりというか、朝陽はいじめられっ子だ。
佐藤朝陽。
この名前が女っぽいというくだらないことがキッカケだった。
中学で終わると思いきや、いじめっ子と同じ高校に進学してしまい、今もうんざりしている。
だから、夏休みくらい穏やかに過ごしたかったのに不良二人のせいで……。
「朝陽、怖いなら手を繋ごうか」
「嫌だよ、気持ち悪い」
朝陽は樹の手を振り払うと、不良二人を見返してやろうと先に出た。
弛んだ規制線を跨いで、背の高い草を掻き分けて進む。
住宅街から外れて、しかも神社が近いところにあるので虫の鳴く声しか聞こえないほど静かだ。
それが恐怖を煽る。
朝陽は玄関のドアをノブを握ったまま開けずにいた。
「退けよ」
蓮は朝陽を押し退けてドアを平気で開けた。
鍵は閉まっていなかった。
中を覗くと、割れた窓から月光が家の中を照らしていた。
みんな割れた窓から入るのだろう。
窓の下には土が溜まっていた。
「うわ、もう血があるじゃないか。僕、ほんとこういうの嫌なんだ」
「平気だって」
蓮に続いて大晴が玄関に上がった。
すぐ左がリビングになる。
二人は襖を開けると、さっさと中に入って感嘆の声を静かに漏らした。
感動しているのか圧倒されているのか、強い興味を惹かれた朝陽は後に続いてしまった。
見なければ良かった。
懐中電灯でグルっと部屋を照らすと至る所に大小の黒いシミがあった。
特に、そこは穴と見間違えるようだった。
「真っ黒だ。けっこう血の匂いも残ってるぞ、生臭えな」
大晴は言って鼻を擦った。
「ここで子供が食い殺されたんだ。せめて手を合わせてやろう」
蓮はズボンの後ろポケットから道中に摘んだ三本のタンポポを置くと、膝をついて手を合わせた。
朝陽と大晴もそれに倣って手を合わせた。
目を閉じると孤立したようで一瞬、恐怖が強まった。
朝陽は恐くなってすぐ目を開ける。
恐怖は消えなかった。
むしろ増して、足から頭までを一気に駆け抜けた。
いつからだろう寒気を感じる。
部屋の奥からいるはずない人の気配を感じた。
蓮と大晴の二人も感じたらしい。
部屋の奥を照らすとキッチンだった。
蓮が長い溜息を吐いた。
「母親は、わざわざまな板の上で子供を滅多刺しにしたんだ」
朝陽は嫌な想像が浮かんで息を呑む。
と、外で風が唸って雨戸を揺らした。
鋭い緊張感が三人を釘付けにした。
「何か聞こえない?」
朝陽には聞こえた。
子供のすすり泣く声だ。
それに粘着質の嫌な音がする。
蓮は首を振って、大晴は笑った。
「朝陽。ビビり過ぎだっての」
「本当に聞こえるんだ。子供の泣き声が」
「用は済んだし出よう」
蓮の提案に朝陽は強く頷いて同意した。
ところが、リビングから出ようとすると襖が閉まっているのに気付いた。
「樹?」
朝陽が呼ぶと、雨戸の向こうからくぐもった樹の返事が聞こえた。
誰も不思議と動けなかった。
三人が三人とも混乱した脳を落ち着かせようとしている。
いつからか風の音どころか葉の擦れる音も虫の鳴く声も聞こえなくなっていた。
子供の泣き声も嫌な音も止んでいたけれど、代わりに、何か重いものが落ちた音がした。
朝陽が振り向こうとして肩越しに目が合う。
「二人とも走れ!」
蓮が叫んだ。
真っ先に大晴が走って、朝陽はその後に続いた。
外に逃げるまでは早かった。
二人揃って肩で息をして、そこへ遅れて蓮が出てきた。
「いや焦ったな。女はすぐに消えたよ」
蓮が言うには、母親は病院で首を切って死んだそうだ。
「もしかしたら、その霊だろうぜ」
「お前よく冷静でいられるな。さすがの俺もビビったぞ」
大晴は蓮の胸を拳で軽く小突いた。
蓮はケラケラと笑う。
「お前ビビり過ぎだろ。さんざん朝陽をからかっといてそれはねえわ」
「うるせえな。お前が異常なんだよ」
「何があったの?」
朝陽は樹に、息も絶え絶えに早口で説明した。
樹は驚いた顔をして、信じられないという目を蓮に向けた。
「朝陽に憑いてくるかもね」
「やめて」
朝陽は樹の冗談に心底恐怖した。
女は彼の背後にいたのだ。
思い出すと気持ちが悪くなって急いでその場を離れた。
神社へ向かい、形だけでも神様に除霊を頼んで家へ逃げ帰った。
それから怯える日々が幾日か過ぎたが特に何も起こりはしなかった。
だが、蓮も大晴もあんな事があったにも関わらず全く懲りていない。
後日、少年達は新たな心霊スポットへ向かうことになる。
事件が起こる数年前、健気な母親が夫の暴力と浮気に耐えていた。
彼女は職場では罵られ、近所には悪い噂が広まり孤立して、とうとう家族からも絶縁された。
いよいよ耐えられなくなった彼女は子供を連れて関西地方某所へ移り住んだ。
ところが、彼女の精神は衰弱して疑心暗鬼に陥っていく。
仕事は上手くいかず、失敗する度に言い訳をして、いよいよ虚言妄言を話すようになった。
やがて仕事を失って、生活保護で貰う僅かな金を頼りに半ば引き篭もりながら生活を送る。
どんどんそれが悪化して、ろくに家を出ることが無くなれば飢えてくる。
子供は毎日のように母親に泣いてすがった。
そんなある日のこと。
彼女は我が子まで信じられなくなった。
精神が錯乱して子供に訳の分からないことを叫ぶようになった。
ついに事件は起きる。
彼女達の家は人目に付きにくい場所にあった。
神社の近くの脇道を進んだ先、林の中に隠れるように二階建ての一軒家がある。
事件の目撃者は足音を立てないようにして緩やかな坂を上り、その家へと向かっていた。
人の気配も音もない。
妙に静かで、目撃者はいやに緊張して慎重に進んだ。
相変わらず庭に面したリビングの窓には雨戸が半端に閉められていて、その隙間から段ボールが貼られているのが見えた。
息を殺してドアを開く。
小さく呼び掛けてみても返事はない。
玄関に上がって、真っ直ぐリビングへ向かった。
襖が、少しだけ開いていた。
誰でもこういう異常な雰囲気を感じたら開けてしまうよりも、まず隙間から様子を窺ってみようと思うものだ。
細い隙間から恐る恐る畳の部屋を、そっと覗く。
母親も子供もいた。
子供はまだ四才で今日も泣いていたみたいだ。
涙と、そして血で顔が濡れている。
顔から肩、腕、胸、腹のところどころが骨まで見えていた。
母親は我が子の腹を食っていた。
泣きながら食っていた。
まさに有名な絵画、我が子を食らうサトゥルヌスさながらの、それ以上の酷い有様だった。
目撃者は一目散に逃げた。
彼女は警察が駆けつけた時もまだ我が子を食っていた。
引き離そうとしても、必死に食らいついていたらしい。
後々、彼女はあの状況についてこう語っている。
「子供を殺したことが知られてはいけないと思いました」
つまりは証拠隠滅。
頭がおかしくなって滅多刺しにした後に我が子を食したと語り終えた。
「ここがその現場だ」
蓮は平気で、自慢するみたいに紹介した。
時刻は夜の十時過ぎ。
高校二年生の少年達は夏休みの定番、心霊スポットに肝試しに来ていた。
現在も家はしっかり残っていて、庭に面した窓は雨戸が閉められていた。
中には血溜まりや血飛沫というような血痕が掃除されずそのまま残っているという。
そして、母親の霊がいて体の一部を食われるとか。
そんな噂を確かめようと蓮に誘われて朝陽は嫌々ここへ来た。
どうしたって気分が悪い。
遊び半分で来るようなところではない。
朝陽は胸の内がムカムカしていた。
不良の蓮と、彼とつるんで悪さをしているらしい大晴に強引に誘われた。
不憫な朝陽を放って置けないのか樹が付いて来てくれた。
西村樹は朝陽と小学生からの幼馴染。
いわゆるお坊ちゃんで、頭が賢く、一方で少し間が抜けるところがあった。
今日だって断る手伝いをしてくれれば良かったのに、どちらかと言えば乗り気で朝陽はガッカリさせられた。
「怖いのか。幽霊よりもいじめっ子の方が怖いだろう」
そう言って馬鹿にするのは松村大晴。
体が大きくて力が強いが、暴力を振るうことはないので一応は安心している。
大晴とは高校で出会った。
朝陽が虐められていても笑って見てる嫌な奴だけれど、後で何か奢って慰めてくれたりするので朝陽は彼のことをイマイチ嫌いになれないでいる。
「心配すんなって。俺達は味方だっていつも言ってんだろ。朝陽のことはちゃんと守ってやっから」
山崎蓮は中学一年の時に転校してきて友達になった。
小学生の時に朝陽以上に酷くいじめられていたらしい。
その反発か、現在は不良になって、ついでに朝陽をいじめっ子から助けてくれる。
もうお気付きというかお分かりというか、朝陽はいじめられっ子だ。
佐藤朝陽。
この名前が女っぽいというくだらないことがキッカケだった。
中学で終わると思いきや、いじめっ子と同じ高校に進学してしまい、今もうんざりしている。
だから、夏休みくらい穏やかに過ごしたかったのに不良二人のせいで……。
「朝陽、怖いなら手を繋ごうか」
「嫌だよ、気持ち悪い」
朝陽は樹の手を振り払うと、不良二人を見返してやろうと先に出た。
弛んだ規制線を跨いで、背の高い草を掻き分けて進む。
住宅街から外れて、しかも神社が近いところにあるので虫の鳴く声しか聞こえないほど静かだ。
それが恐怖を煽る。
朝陽は玄関のドアをノブを握ったまま開けずにいた。
「退けよ」
蓮は朝陽を押し退けてドアを平気で開けた。
鍵は閉まっていなかった。
中を覗くと、割れた窓から月光が家の中を照らしていた。
みんな割れた窓から入るのだろう。
窓の下には土が溜まっていた。
「うわ、もう血があるじゃないか。僕、ほんとこういうの嫌なんだ」
「平気だって」
蓮に続いて大晴が玄関に上がった。
すぐ左がリビングになる。
二人は襖を開けると、さっさと中に入って感嘆の声を静かに漏らした。
感動しているのか圧倒されているのか、強い興味を惹かれた朝陽は後に続いてしまった。
見なければ良かった。
懐中電灯でグルっと部屋を照らすと至る所に大小の黒いシミがあった。
特に、そこは穴と見間違えるようだった。
「真っ黒だ。けっこう血の匂いも残ってるぞ、生臭えな」
大晴は言って鼻を擦った。
「ここで子供が食い殺されたんだ。せめて手を合わせてやろう」
蓮はズボンの後ろポケットから道中に摘んだ三本のタンポポを置くと、膝をついて手を合わせた。
朝陽と大晴もそれに倣って手を合わせた。
目を閉じると孤立したようで一瞬、恐怖が強まった。
朝陽は恐くなってすぐ目を開ける。
恐怖は消えなかった。
むしろ増して、足から頭までを一気に駆け抜けた。
いつからだろう寒気を感じる。
部屋の奥からいるはずない人の気配を感じた。
蓮と大晴の二人も感じたらしい。
部屋の奥を照らすとキッチンだった。
蓮が長い溜息を吐いた。
「母親は、わざわざまな板の上で子供を滅多刺しにしたんだ」
朝陽は嫌な想像が浮かんで息を呑む。
と、外で風が唸って雨戸を揺らした。
鋭い緊張感が三人を釘付けにした。
「何か聞こえない?」
朝陽には聞こえた。
子供のすすり泣く声だ。
それに粘着質の嫌な音がする。
蓮は首を振って、大晴は笑った。
「朝陽。ビビり過ぎだっての」
「本当に聞こえるんだ。子供の泣き声が」
「用は済んだし出よう」
蓮の提案に朝陽は強く頷いて同意した。
ところが、リビングから出ようとすると襖が閉まっているのに気付いた。
「樹?」
朝陽が呼ぶと、雨戸の向こうからくぐもった樹の返事が聞こえた。
誰も不思議と動けなかった。
三人が三人とも混乱した脳を落ち着かせようとしている。
いつからか風の音どころか葉の擦れる音も虫の鳴く声も聞こえなくなっていた。
子供の泣き声も嫌な音も止んでいたけれど、代わりに、何か重いものが落ちた音がした。
朝陽が振り向こうとして肩越しに目が合う。
「二人とも走れ!」
蓮が叫んだ。
真っ先に大晴が走って、朝陽はその後に続いた。
外に逃げるまでは早かった。
二人揃って肩で息をして、そこへ遅れて蓮が出てきた。
「いや焦ったな。女はすぐに消えたよ」
蓮が言うには、母親は病院で首を切って死んだそうだ。
「もしかしたら、その霊だろうぜ」
「お前よく冷静でいられるな。さすがの俺もビビったぞ」
大晴は蓮の胸を拳で軽く小突いた。
蓮はケラケラと笑う。
「お前ビビり過ぎだろ。さんざん朝陽をからかっといてそれはねえわ」
「うるせえな。お前が異常なんだよ」
「何があったの?」
朝陽は樹に、息も絶え絶えに早口で説明した。
樹は驚いた顔をして、信じられないという目を蓮に向けた。
「朝陽に憑いてくるかもね」
「やめて」
朝陽は樹の冗談に心底恐怖した。
女は彼の背後にいたのだ。
思い出すと気持ちが悪くなって急いでその場を離れた。
神社へ向かい、形だけでも神様に除霊を頼んで家へ逃げ帰った。
それから怯える日々が幾日か過ぎたが特に何も起こりはしなかった。
だが、蓮も大晴もあんな事があったにも関わらず全く懲りていない。
後日、少年達は新たな心霊スポットへ向かうことになる。
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