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第三十一章
第三話
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「え?」
智香は苦笑した。
「何言ってるの?」
「……傘」
「傘?」
智香は首を傾げた。それきり鬼平は口を閉ざした。智香はその態度に困惑した。
「何言ってるの? どういうこと? ねえ、ちゃんと答えて」
鬼平は黙った。そのまま、懐かしいものを見るように手に持っているびんを見つめた。
「……あの日、……僕は、鈴本さんに、あ、会わせてほしいって、願ったんだ。その時だけじゃなくて、その後も、何度も。……あの林の中で、会った……時も」
鬼平は言いながら、自分の顔が、そこから火が噴き出ているみたいに熱くなったのを感じた。智香の方はそれを聞いて、言葉を失っていた。
「それで、あの日は……雨が降って、そしたら、そこに鈴本さんがいて……」
「……それで、傘を渡したら、私に大変なことが起こったって? そう言いたいの?」
鬼平は頷く。智香は苦笑した。
「本気で言ってる? そんなわけないでしょ。だって、そんなの、別になんてことない願いじゃない」
そう言うと、鬼平の身体が智香の方へ勢いよく向き直った。
「僕には……!」
鬼平は自分の声が大きくなったのを感じて抑えた。
「……大きな願いだ、よ」
鬼平はか細い声で言って、気まずそうに顔を背け、それきり黙り込んだ。
それを見て彼の言っていることが真実だと、智香にもわかったが、もっととんでもない願いを言ったのだと疑っていた彼女にとっては、あまりにもささやかな願いだったので、拍子抜けしていた。
鬼平は、意固地になって智香を見まいと、そっぽを向いていた。智香はそんな彼をなだめるように言った。
「でも、傘を渡したのはびんじゃなくて、あなたでしょ? 雨が降ったのは、対価なんかじゃなくて、たまたまなんじゃない? よく考えてみて、私なんかと会うのに、そんな対価必要ないよ」
鬼平は俯いた。
「……同じだよ。あの時がなければ、僕は渡さなかった。……そうしてたら、鈴本さんも変な目に遭わなくても済んだ」
そして再び顔を背けた。智香はその態度を続ける彼に対して感情が抑えきれなくなり、声を荒げた。
「ああ、そう。じゃあその時はそうかもしれないね。でも、その後のことは? どうしてびんを渡してくれたの? 私を陥れるため? 自分の見たくない記憶まで見せられて? あなたってそこまで計算してたの? わかってる? あなたが言ってるのは、これまでのこと全部否定してるんだよ?」
そうしてうまくし立てるように言った後で、彼女は激しく後悔した。
「ごめん。言い過ぎたかも。これ私の悪い癖なんだよね。相手を追いつめて、やり込めようとする。もう、やめようって思うんだけど」
智香はばつの悪そうな顔をすると立ち上がった。そのまま、鬼平に背を向ける。
「でもね、正直、あなたのそういうところ、好きじゃない。まああなたの境遇を思えば、しかたないのかもしれないけどさ」
智香はゆっくりと窓の傍まで歩いていき、外を眺めて続けた。
「ねえ、聞いて。私のお母さんね、すごく口喧嘩が強いの。ちょうど、言い返せないような上手い悪口を言うのね。悪口ってね、すごいんだよ? それを言ってる間は自分が正しいって、思わせる力がある。でもね、それだけなの。結局、どんなに上手く、悪意を隠しても、いつかは相手に伝わっちゃうの。そうしてね、言われた方はその悪意を返しにくるんだよ。結局ね、お父さんが浮気して、うちの両親は離婚したの。それから二人は、他人みたいになっちゃった。まあ、悪口のせいだけってことはないと思うけど。でも、お母さんがずっとそれを気にしているの、私にはわかる。私も、そうなのね。でも私、それを言い訳にして生きたくない」
智香は振り返った。
「私、あなたの言葉を信じるよ。だって……だってあまり言いたくないけど、私は、あなたが好きだから近づいたわけじゃないもの。そして、その後、あなたがどういう行動をしたのか全部知ってる。あなたからびんを受け取って、まあ確かに大変な目にあったかもしれないけど、自分が何を望んでいるのかよく考えることができた。それはたぶんびんを受け取らないとわからなかったかもしれない。びんの力は強すぎて、あんまり役に立たなかったけど、それだけはよかったかもって思うようになった。ううん、思うことにした」
そう言って智香は、鬼平のことを見つめた。智香の視線は妙に湿っていて、切なくて、熱っぽかった。その熱は、鬼平の胸の中まで確かに伝わってきた。
「私、あなたに聞きたいこと思い出した……。ねえ、どうして傘を貸してくれたの? びんもさ。ねえ、もし、私がこんな人間だってわかってたら、ううん、私と話して、私のことがよく分かった今でも、あなたはびんを渡してた? それとも……」
智香は続きを言わなかった。またさっきのような目で鬼平を見つめた。それを見て鬼平は言葉を失っていた。自分が智香から何かを言うことを求められているのだとわかった。そして、それが何なのかもすぐにわかった。だが、それはやはり言葉にならず、鬼平は黙って他の言葉を探すしかなかった。
それから、もし、あの時、――そんなことはあり得ないと思ったが、傘を拾ったのが智香でなくてたとえば百川だったら、自分は同じように百川を女神だと思っただろうか? と思った。
思ったかもしれない、と思った。そして勘違いをしたまま、彼女の願いに応えて、どんなことでもしてあげたいと思ったのかもしれない。それは悪魔のように危険で、そして、天使のように甘美な感覚だった。
でも、傘を拾ったのは、智香だった。そして、傘を渡したのは他でもない鬼平だった。
それはびんが用意したシナリオなのかもしれないが、そのためにこの身体を動かしたのは、紛れもなく自分だったのだ。
やっとそう思えた時、鬼平は微笑んだ。それから、びんを持って立ち上がった。智香はそれを見て、苦々しく微笑んだ。
「そういえば、それ、どうするか決めてなかったね」
鬼平は頷いた。
「何か案があるの?」
鬼平は首を振った。
「……ううん。何か、方法があるのかしれないけど、でも、や、やっぱりないのかもしれない。……も、もしわからなかったら、誰かに渡すしかない、……と思う」
智香は、頷いた。
「そうだね」
智香は短く答え、窓によって空を見上げた。その時、空を覆い隠していた分厚い雲から雨粒が落ちて来た。
「天気予報。降るって言ってた?」
智香は鬼平に向き合うと、不満げにそう言った。
鬼平は、もじもじと下を見つめて、びんを机の上に置いた。
それから、
「か、傘。貸そうか?」
と言った。
智香は苦笑した。
「何言ってるの?」
「……傘」
「傘?」
智香は首を傾げた。それきり鬼平は口を閉ざした。智香はその態度に困惑した。
「何言ってるの? どういうこと? ねえ、ちゃんと答えて」
鬼平は黙った。そのまま、懐かしいものを見るように手に持っているびんを見つめた。
「……あの日、……僕は、鈴本さんに、あ、会わせてほしいって、願ったんだ。その時だけじゃなくて、その後も、何度も。……あの林の中で、会った……時も」
鬼平は言いながら、自分の顔が、そこから火が噴き出ているみたいに熱くなったのを感じた。智香の方はそれを聞いて、言葉を失っていた。
「それで、あの日は……雨が降って、そしたら、そこに鈴本さんがいて……」
「……それで、傘を渡したら、私に大変なことが起こったって? そう言いたいの?」
鬼平は頷く。智香は苦笑した。
「本気で言ってる? そんなわけないでしょ。だって、そんなの、別になんてことない願いじゃない」
そう言うと、鬼平の身体が智香の方へ勢いよく向き直った。
「僕には……!」
鬼平は自分の声が大きくなったのを感じて抑えた。
「……大きな願いだ、よ」
鬼平はか細い声で言って、気まずそうに顔を背け、それきり黙り込んだ。
それを見て彼の言っていることが真実だと、智香にもわかったが、もっととんでもない願いを言ったのだと疑っていた彼女にとっては、あまりにもささやかな願いだったので、拍子抜けしていた。
鬼平は、意固地になって智香を見まいと、そっぽを向いていた。智香はそんな彼をなだめるように言った。
「でも、傘を渡したのはびんじゃなくて、あなたでしょ? 雨が降ったのは、対価なんかじゃなくて、たまたまなんじゃない? よく考えてみて、私なんかと会うのに、そんな対価必要ないよ」
鬼平は俯いた。
「……同じだよ。あの時がなければ、僕は渡さなかった。……そうしてたら、鈴本さんも変な目に遭わなくても済んだ」
そして再び顔を背けた。智香はその態度を続ける彼に対して感情が抑えきれなくなり、声を荒げた。
「ああ、そう。じゃあその時はそうかもしれないね。でも、その後のことは? どうしてびんを渡してくれたの? 私を陥れるため? 自分の見たくない記憶まで見せられて? あなたってそこまで計算してたの? わかってる? あなたが言ってるのは、これまでのこと全部否定してるんだよ?」
そうしてうまくし立てるように言った後で、彼女は激しく後悔した。
「ごめん。言い過ぎたかも。これ私の悪い癖なんだよね。相手を追いつめて、やり込めようとする。もう、やめようって思うんだけど」
智香はばつの悪そうな顔をすると立ち上がった。そのまま、鬼平に背を向ける。
「でもね、正直、あなたのそういうところ、好きじゃない。まああなたの境遇を思えば、しかたないのかもしれないけどさ」
智香はゆっくりと窓の傍まで歩いていき、外を眺めて続けた。
「ねえ、聞いて。私のお母さんね、すごく口喧嘩が強いの。ちょうど、言い返せないような上手い悪口を言うのね。悪口ってね、すごいんだよ? それを言ってる間は自分が正しいって、思わせる力がある。でもね、それだけなの。結局、どんなに上手く、悪意を隠しても、いつかは相手に伝わっちゃうの。そうしてね、言われた方はその悪意を返しにくるんだよ。結局ね、お父さんが浮気して、うちの両親は離婚したの。それから二人は、他人みたいになっちゃった。まあ、悪口のせいだけってことはないと思うけど。でも、お母さんがずっとそれを気にしているの、私にはわかる。私も、そうなのね。でも私、それを言い訳にして生きたくない」
智香は振り返った。
「私、あなたの言葉を信じるよ。だって……だってあまり言いたくないけど、私は、あなたが好きだから近づいたわけじゃないもの。そして、その後、あなたがどういう行動をしたのか全部知ってる。あなたからびんを受け取って、まあ確かに大変な目にあったかもしれないけど、自分が何を望んでいるのかよく考えることができた。それはたぶんびんを受け取らないとわからなかったかもしれない。びんの力は強すぎて、あんまり役に立たなかったけど、それだけはよかったかもって思うようになった。ううん、思うことにした」
そう言って智香は、鬼平のことを見つめた。智香の視線は妙に湿っていて、切なくて、熱っぽかった。その熱は、鬼平の胸の中まで確かに伝わってきた。
「私、あなたに聞きたいこと思い出した……。ねえ、どうして傘を貸してくれたの? びんもさ。ねえ、もし、私がこんな人間だってわかってたら、ううん、私と話して、私のことがよく分かった今でも、あなたはびんを渡してた? それとも……」
智香は続きを言わなかった。またさっきのような目で鬼平を見つめた。それを見て鬼平は言葉を失っていた。自分が智香から何かを言うことを求められているのだとわかった。そして、それが何なのかもすぐにわかった。だが、それはやはり言葉にならず、鬼平は黙って他の言葉を探すしかなかった。
それから、もし、あの時、――そんなことはあり得ないと思ったが、傘を拾ったのが智香でなくてたとえば百川だったら、自分は同じように百川を女神だと思っただろうか? と思った。
思ったかもしれない、と思った。そして勘違いをしたまま、彼女の願いに応えて、どんなことでもしてあげたいと思ったのかもしれない。それは悪魔のように危険で、そして、天使のように甘美な感覚だった。
でも、傘を拾ったのは、智香だった。そして、傘を渡したのは他でもない鬼平だった。
それはびんが用意したシナリオなのかもしれないが、そのためにこの身体を動かしたのは、紛れもなく自分だったのだ。
やっとそう思えた時、鬼平は微笑んだ。それから、びんを持って立ち上がった。智香はそれを見て、苦々しく微笑んだ。
「そういえば、それ、どうするか決めてなかったね」
鬼平は頷いた。
「何か案があるの?」
鬼平は首を振った。
「……ううん。何か、方法があるのかしれないけど、でも、や、やっぱりないのかもしれない。……も、もしわからなかったら、誰かに渡すしかない、……と思う」
智香は、頷いた。
「そうだね」
智香は短く答え、窓によって空を見上げた。その時、空を覆い隠していた分厚い雲から雨粒が落ちて来た。
「天気予報。降るって言ってた?」
智香は鬼平に向き合うと、不満げにそう言った。
鬼平は、もじもじと下を見つめて、びんを机の上に置いた。
それから、
「か、傘。貸そうか?」
と言った。
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