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第二十五章
第二話
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次の瞬間、鬼平は、自分の頭の中に手を入れられているような奇妙な感覚に襲われた。それは無理やり、彼の中のどこかをこじ開けたのがわかった。鬼平は嫌な予感がした。鼓動が早くなり、冷や汗をかいていた。
だが何が起きたのかじっくりと考えている時間はなかった。その前に鬼平の意識はどこかに飛ばされていた。両目は教室の机と横に立っている智香を捉えているはずなのに、それを見ていられなかった。
見たことのないイメージが、奔流のように次から次へと鬼平の元へ押し寄せてくる。
それは増殖し、やがて鬼平の意識を奪っていった。鬼平は、自分以外の誰かの意識に入っていた。
小さな部屋だった。自分の身体が小さくなったようだ。台所にお母さんがいる。お母さんは普段は派手な格好をしているのに、今は化粧を落として、毛玉のたくさんついたセーターを着ていた。
お母さんは疲れていて、普段は化粧で隠している皺が目立っていた。自分は今その後ろ姿を見ていた。お母さんはあたしを叱るつもりだ、と鬼平は思った。あたしはお母さんが大好きなのに、お母さんはいつも怒る。振り返ったお母さんはあたしを見て、「ブサイク」だと言った。
あたしは自分がどうしてブサイク何だろうと思った。どうしてお母さんはブサイクが嫌いなのに、あたしをブサイクに産んだんだろう。どうしてブサイクじゃいけないんだろう……。
「あんたって本当にあの人にそっくり。あんたの顔を見てると腹が立つ。さっさとあっち行ってよ」
お母さんがそんなことを言うのは、あたしの顔が、お父さんに似ているからなんだって。あたしの顔は、そんなに嫌な顔なの? でも、だったらどうしてお母さんはお父さんと結婚したの? どうしてあたしを産んで、離婚したのに、あたしを育ててるんだろう。どうしてあたしは泣いているの? どうしてあたしは生きているの……?
十二歳の春だった。あたしはお母さんの勧めで、中学に入る前に二重手術を受けた。お母さんは“マシ”になったと言っていた。みんながあたしのことを噂して、化物みたいに指差している。でもそんなの関係なかった。あたしの身体はあたしのものだ。どんな顔になるのかもあたしが決める。そういう風にあたしは思うことにした。
どうせこの世界には味方なってくれる人なんて一人もいないんだし。だったら、誰がなんて言おうが関係ない。
手術の後、腫れた瞼を見ながらあたしは泣いた。痛かったからじゃない。悲しかったからじゃない。手術の痛みなんて、別にどうってことなかった。これでもう、あたしが傷つくことはない、と思ったからだ。
腫れた目で涙を流している自分を鏡で見た時、鬼平は再び意識を引っ張られるのを感じた。耳を誰かに掴まれたように、百川千花の意識から抜け出した。
その瞬間意識が自分に戻ってくるのを感じ、鬼平はなぜ自分がこの記憶を見ているのかわからなくなった。記憶を見ようと願ったのは智香だったはずだ。それなのにどうして自分が見ているんだ? 朦朧とする意識の中、これ以上こんな記憶なんて見たくないと思ったが、悪魔は容赦しなかった。次の瞬間、別の記憶を読まされていた。
鬼平は今度は、どこかの家の部屋の中にいて、机に向かって勉強をしていた。頭では、机から離れたいと強く思っているのに、なぜか足が動かなかった。
見ると、足が椅子に縄で縛られていた。胸の奥が嫌な気持ちで溢れていた。そんな状態でも、自分に勉強しろと強く念じているものの、その不安でいっぱいの頭では、まともに問題を解けるはずもなかった。
僕は自分に言い聞かせた。僕は勉強をしないといけない。僕は、失敗をしてはいけない。今度の試験にもし、こないだのように悪い順位を取ってしまったら……。
やめろ! 鬼平は抵抗をして、そう強く念じたが、僕は考えるのをやめなかった。
僕は問題がわからない。問題が解けない僕には価値がない。これだけ勉強しても志望校に受からないような僕は死んだ方がいい……。
一週間後発表された僕の順位は最悪だった。お父さんにバレたら、どうなるのだろう。でもお母さんが試験の結果を隠してくれた。優しいお母さん、お父さんに言いなりの、弱いお母さん……。
でもお父さんは僕のことを忘れたわけじゃなかった。お母さんが僕をかばったのをお父さんにはわかっていた。
お父さんは、僕の成績表を見つけると、僕を殴った。それから僕と共犯だと言って、お母さんを殴った。お母さんは抵抗することもなく、何度も殴られた。僕が止めるとお父さんが言った。
「これはお前のせいだ」「お前がしっかりしないとこうなる」そしてこう言った。
「お前も殴れ」僕は拒否した。お父さんは僕を殴った。もう一度言った。
「殴れ」僕が殴るまで、僕は殴られた。僕は泣きながらお母さんを殴った。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」本当は僕が言うべきなのに、お母さんが叫んでいた。手が痛い。頭がガンガン鳴っている。胸が張り裂けそうなくらい熱い。僕は泣いていた。
――鬼平は泣いていた。涙が頬を伝って落ちた。いつの間にか、教室に帰ってきていた。もうあの嫌な景色は見えなかったし、自分は、三國修司でもなかった。だが、鬼平の胸の中には、今見た記憶の傷が、生々しい感情として残っていた。実際に経験したわけではないのに、その気持ちは確かに自分の中にあった。やがてそれは鬼平の中に混ざり合って、自分の感情に飲み込まれていった。
頭がガンガン鳴っていて、立っていられなくなった。あの時の記憶が蘇ってしまっていた。
浴室、シャワーの水音、熱気、暗闇、後ろの音。そして、そこに伸びてくる手……。声は出なかった。鬼平は倒れた。……すぐに彼の耳元で足音が響いた。
だが何が起きたのかじっくりと考えている時間はなかった。その前に鬼平の意識はどこかに飛ばされていた。両目は教室の机と横に立っている智香を捉えているはずなのに、それを見ていられなかった。
見たことのないイメージが、奔流のように次から次へと鬼平の元へ押し寄せてくる。
それは増殖し、やがて鬼平の意識を奪っていった。鬼平は、自分以外の誰かの意識に入っていた。
小さな部屋だった。自分の身体が小さくなったようだ。台所にお母さんがいる。お母さんは普段は派手な格好をしているのに、今は化粧を落として、毛玉のたくさんついたセーターを着ていた。
お母さんは疲れていて、普段は化粧で隠している皺が目立っていた。自分は今その後ろ姿を見ていた。お母さんはあたしを叱るつもりだ、と鬼平は思った。あたしはお母さんが大好きなのに、お母さんはいつも怒る。振り返ったお母さんはあたしを見て、「ブサイク」だと言った。
あたしは自分がどうしてブサイク何だろうと思った。どうしてお母さんはブサイクが嫌いなのに、あたしをブサイクに産んだんだろう。どうしてブサイクじゃいけないんだろう……。
「あんたって本当にあの人にそっくり。あんたの顔を見てると腹が立つ。さっさとあっち行ってよ」
お母さんがそんなことを言うのは、あたしの顔が、お父さんに似ているからなんだって。あたしの顔は、そんなに嫌な顔なの? でも、だったらどうしてお母さんはお父さんと結婚したの? どうしてあたしを産んで、離婚したのに、あたしを育ててるんだろう。どうしてあたしは泣いているの? どうしてあたしは生きているの……?
十二歳の春だった。あたしはお母さんの勧めで、中学に入る前に二重手術を受けた。お母さんは“マシ”になったと言っていた。みんながあたしのことを噂して、化物みたいに指差している。でもそんなの関係なかった。あたしの身体はあたしのものだ。どんな顔になるのかもあたしが決める。そういう風にあたしは思うことにした。
どうせこの世界には味方なってくれる人なんて一人もいないんだし。だったら、誰がなんて言おうが関係ない。
手術の後、腫れた瞼を見ながらあたしは泣いた。痛かったからじゃない。悲しかったからじゃない。手術の痛みなんて、別にどうってことなかった。これでもう、あたしが傷つくことはない、と思ったからだ。
腫れた目で涙を流している自分を鏡で見た時、鬼平は再び意識を引っ張られるのを感じた。耳を誰かに掴まれたように、百川千花の意識から抜け出した。
その瞬間意識が自分に戻ってくるのを感じ、鬼平はなぜ自分がこの記憶を見ているのかわからなくなった。記憶を見ようと願ったのは智香だったはずだ。それなのにどうして自分が見ているんだ? 朦朧とする意識の中、これ以上こんな記憶なんて見たくないと思ったが、悪魔は容赦しなかった。次の瞬間、別の記憶を読まされていた。
鬼平は今度は、どこかの家の部屋の中にいて、机に向かって勉強をしていた。頭では、机から離れたいと強く思っているのに、なぜか足が動かなかった。
見ると、足が椅子に縄で縛られていた。胸の奥が嫌な気持ちで溢れていた。そんな状態でも、自分に勉強しろと強く念じているものの、その不安でいっぱいの頭では、まともに問題を解けるはずもなかった。
僕は自分に言い聞かせた。僕は勉強をしないといけない。僕は、失敗をしてはいけない。今度の試験にもし、こないだのように悪い順位を取ってしまったら……。
やめろ! 鬼平は抵抗をして、そう強く念じたが、僕は考えるのをやめなかった。
僕は問題がわからない。問題が解けない僕には価値がない。これだけ勉強しても志望校に受からないような僕は死んだ方がいい……。
一週間後発表された僕の順位は最悪だった。お父さんにバレたら、どうなるのだろう。でもお母さんが試験の結果を隠してくれた。優しいお母さん、お父さんに言いなりの、弱いお母さん……。
でもお父さんは僕のことを忘れたわけじゃなかった。お母さんが僕をかばったのをお父さんにはわかっていた。
お父さんは、僕の成績表を見つけると、僕を殴った。それから僕と共犯だと言って、お母さんを殴った。お母さんは抵抗することもなく、何度も殴られた。僕が止めるとお父さんが言った。
「これはお前のせいだ」「お前がしっかりしないとこうなる」そしてこう言った。
「お前も殴れ」僕は拒否した。お父さんは僕を殴った。もう一度言った。
「殴れ」僕が殴るまで、僕は殴られた。僕は泣きながらお母さんを殴った。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」本当は僕が言うべきなのに、お母さんが叫んでいた。手が痛い。頭がガンガン鳴っている。胸が張り裂けそうなくらい熱い。僕は泣いていた。
――鬼平は泣いていた。涙が頬を伝って落ちた。いつの間にか、教室に帰ってきていた。もうあの嫌な景色は見えなかったし、自分は、三國修司でもなかった。だが、鬼平の胸の中には、今見た記憶の傷が、生々しい感情として残っていた。実際に経験したわけではないのに、その気持ちは確かに自分の中にあった。やがてそれは鬼平の中に混ざり合って、自分の感情に飲み込まれていった。
頭がガンガン鳴っていて、立っていられなくなった。あの時の記憶が蘇ってしまっていた。
浴室、シャワーの水音、熱気、暗闇、後ろの音。そして、そこに伸びてくる手……。声は出なかった。鬼平は倒れた。……すぐに彼の耳元で足音が響いた。
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