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第二章
第一話
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――冒頭から少し前、ゴールデンウィーク前のある日……
高校からの帰り道を、鬼平柊はいつもと同じように、トボトボと下を向きながら一人で歩いていた。鬼平は、今日も誰とも喋らなかった。四月からずっとそうだった。今年こそは、クラスに友達を作ろうと思ったのにも関わらず、結局いつもと同じだった。
「……また今年も一人か」
鬼平はわざとそれを口に出して言った。自分の喋る能力がなくなったわけではないと確認するためだった。
鬼平が一人になってしまう過程は、いつも同じだった。新しいクラスになり、鬼平がどうやって話しかけたらいいのか、話しかけてもいいと思える人を探して迷っている内に、クラスでは着々と関係が築かれていく。
そして、やっと人となりが見え始めた頃には、もう遅かった。その時には、既にクラス中に寸分の隙間もないくらいに関係が出来上がっていて、そこに鬼平の入る場所はどこにもなかった。
……それに、鬼平にはどうしても変えることのできない癖があった。それは、吃り、吃音だった。誰かに話しかける時、どうしても最初の一声が出てこないのだ。それでも、その時さえ過ぎれば、誰かが待ってくれさえすれば、いくらでも喋ることができると思っているのに、どうやってもその一言が出てこないし、その誰かも現れなかった。
そして、それは誰かに話しかけられる時も同じだった。鬼平は相手が欲しいと思うタイミングで上手く返事をすることができず、会話は途切れた。その時彼はただ固唾をのむだけの存在になり、相手はいつも、その長い沈黙だけで興味を失うのだ。
「きっと、これからもずっとこうなんだろうな」
鬼平はそう呟くと、胸が締め付けられるのを感じた。そして次の瞬間には、まるで影のように、自分は特別だから、あいつらが下らない奴らだからだ、というまったく正反対の気持ちが沸き起こった。
だがそれも、すぐに消え去ってしまった。
以前、これでも中学の時までは、鬼平を理解してくれる人が幾らかいた。あの時に、もう喋れないということから卒業したのだと思った。だから高校に入学するにあたって、鬼平はあえて仲のよかった数人とは違う高校を選んだ。
それは学力的な問題もそうだが、何よりいつまでもそんな「理解のある人」に頼っていてはダメだと思ったからだった。――自立。その訓練のために、これから待ち受けている社会に、より適応するために厳しい環境を選んだつもりだった。その力が、自分にはもうあるのだと思い込んでいた。だが、現実は非情だった。自分が強くなったと思っていたのは、ただ幸運だったからだと、後で気付いた。
あれから三年も経つが、今日も鬼平は一人だ。そのことを考えるだけで惨めで、消えてしまいたいような思いがする。
鬼平は鼻をすすった。外は、そんな彼の気分とは裏腹に快晴である。今日は学校の都合で午前の授業だけだった。
道路に沿って植えられた街路樹や生垣は夏に向けて、瑞々しい葉をつけていた。それは厳しい冬を超え、華やかな春を過ぎ、若葉から青葉へと緑を濃くする一方だった。その透き通るように鮮やかな葉と、ちょうど春と夏の中間の青空、五月晴れが描き出すハッとさせるような一瞬の景色が、鬼平は何より好きだった。
「まあ、五月晴れって本当は、六月なんだってね」
そんな知識をひけらかすような相手もいない。彼はそれに気付いて、また虚しくなったが、その時たまたま吹いた心地よい風が、虚しさをなだめてくれた。いや、何よりその後、それ以上の暴風が鬼平の心に吹き、ちっぽけな自分の苦悩など、どこかへ吹き飛ばされてしまったのだった。
ちょうど、信号のない横断歩道を渡ろうと道路の真ん中に入ったところだった。向こうに、赤橙色の傘が道路の真ん中で、開いた状態のまま転がっているのが見えた。それは取っ手の曲がった部分を支点にして風に揺れていた。
そのなんでもない風景に彼は、目を奪われた。青空に、そこへ伸びる若葉の茂る街路樹、生垣の緑、車の重さで削れてでこぼこの黒いアスファルト、剥がれてきた白い路面標示、この先の横断歩道を告げる、青と白の道路標識、その絵の真ん中に不自然に転がり、見る者を惹きつける鮮やかな赤橙色の傘……そしてそこに、主役が現れた。
一人の少女が、見捨てられて転がっていた傘に向かって一直線に、道路の真ん中まで歩いてきたのだ。鬼平は目を見開いた。
いくら車があまり通らない道だと言っても、彼女はそれをまったく恐れもせずに傘に近づいた。
彼女は左右を見て、傘をジッと見つめた後、膝を折ってその傘を拾った。その時鬼平は、彼女が、鬼平の高校と同じ制服を着ていると気付いた。彼女の黒く長い髪が肩から垂れ下がり、揺れたのを見た。傘を拾って畳み、立ち上がり、髪を整えた時、髪から覗く、彼女の美しい顔を見た。そして物憂げな表情で、近くの家を見上げ、門柱の横に折り畳んだ傘を立てかけ、去っていったのを見た。
「女神だ」
鬼平はすべてを見てから呟いた。
「あの人は女神だ」
高校からの帰り道を、鬼平柊はいつもと同じように、トボトボと下を向きながら一人で歩いていた。鬼平は、今日も誰とも喋らなかった。四月からずっとそうだった。今年こそは、クラスに友達を作ろうと思ったのにも関わらず、結局いつもと同じだった。
「……また今年も一人か」
鬼平はわざとそれを口に出して言った。自分の喋る能力がなくなったわけではないと確認するためだった。
鬼平が一人になってしまう過程は、いつも同じだった。新しいクラスになり、鬼平がどうやって話しかけたらいいのか、話しかけてもいいと思える人を探して迷っている内に、クラスでは着々と関係が築かれていく。
そして、やっと人となりが見え始めた頃には、もう遅かった。その時には、既にクラス中に寸分の隙間もないくらいに関係が出来上がっていて、そこに鬼平の入る場所はどこにもなかった。
……それに、鬼平にはどうしても変えることのできない癖があった。それは、吃り、吃音だった。誰かに話しかける時、どうしても最初の一声が出てこないのだ。それでも、その時さえ過ぎれば、誰かが待ってくれさえすれば、いくらでも喋ることができると思っているのに、どうやってもその一言が出てこないし、その誰かも現れなかった。
そして、それは誰かに話しかけられる時も同じだった。鬼平は相手が欲しいと思うタイミングで上手く返事をすることができず、会話は途切れた。その時彼はただ固唾をのむだけの存在になり、相手はいつも、その長い沈黙だけで興味を失うのだ。
「きっと、これからもずっとこうなんだろうな」
鬼平はそう呟くと、胸が締め付けられるのを感じた。そして次の瞬間には、まるで影のように、自分は特別だから、あいつらが下らない奴らだからだ、というまったく正反対の気持ちが沸き起こった。
だがそれも、すぐに消え去ってしまった。
以前、これでも中学の時までは、鬼平を理解してくれる人が幾らかいた。あの時に、もう喋れないということから卒業したのだと思った。だから高校に入学するにあたって、鬼平はあえて仲のよかった数人とは違う高校を選んだ。
それは学力的な問題もそうだが、何よりいつまでもそんな「理解のある人」に頼っていてはダメだと思ったからだった。――自立。その訓練のために、これから待ち受けている社会に、より適応するために厳しい環境を選んだつもりだった。その力が、自分にはもうあるのだと思い込んでいた。だが、現実は非情だった。自分が強くなったと思っていたのは、ただ幸運だったからだと、後で気付いた。
あれから三年も経つが、今日も鬼平は一人だ。そのことを考えるだけで惨めで、消えてしまいたいような思いがする。
鬼平は鼻をすすった。外は、そんな彼の気分とは裏腹に快晴である。今日は学校の都合で午前の授業だけだった。
道路に沿って植えられた街路樹や生垣は夏に向けて、瑞々しい葉をつけていた。それは厳しい冬を超え、華やかな春を過ぎ、若葉から青葉へと緑を濃くする一方だった。その透き通るように鮮やかな葉と、ちょうど春と夏の中間の青空、五月晴れが描き出すハッとさせるような一瞬の景色が、鬼平は何より好きだった。
「まあ、五月晴れって本当は、六月なんだってね」
そんな知識をひけらかすような相手もいない。彼はそれに気付いて、また虚しくなったが、その時たまたま吹いた心地よい風が、虚しさをなだめてくれた。いや、何よりその後、それ以上の暴風が鬼平の心に吹き、ちっぽけな自分の苦悩など、どこかへ吹き飛ばされてしまったのだった。
ちょうど、信号のない横断歩道を渡ろうと道路の真ん中に入ったところだった。向こうに、赤橙色の傘が道路の真ん中で、開いた状態のまま転がっているのが見えた。それは取っ手の曲がった部分を支点にして風に揺れていた。
そのなんでもない風景に彼は、目を奪われた。青空に、そこへ伸びる若葉の茂る街路樹、生垣の緑、車の重さで削れてでこぼこの黒いアスファルト、剥がれてきた白い路面標示、この先の横断歩道を告げる、青と白の道路標識、その絵の真ん中に不自然に転がり、見る者を惹きつける鮮やかな赤橙色の傘……そしてそこに、主役が現れた。
一人の少女が、見捨てられて転がっていた傘に向かって一直線に、道路の真ん中まで歩いてきたのだ。鬼平は目を見開いた。
いくら車があまり通らない道だと言っても、彼女はそれをまったく恐れもせずに傘に近づいた。
彼女は左右を見て、傘をジッと見つめた後、膝を折ってその傘を拾った。その時鬼平は、彼女が、鬼平の高校と同じ制服を着ていると気付いた。彼女の黒く長い髪が肩から垂れ下がり、揺れたのを見た。傘を拾って畳み、立ち上がり、髪を整えた時、髪から覗く、彼女の美しい顔を見た。そして物憂げな表情で、近くの家を見上げ、門柱の横に折り畳んだ傘を立てかけ、去っていったのを見た。
「女神だ」
鬼平はすべてを見てから呟いた。
「あの人は女神だ」
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