85 / 88
第十八話②
しおりを挟む
一時間後、僕は電車を降りて、改札口を出た。その駅前には大きなクリスマスツリーがあった。大勢の人が行き交い、誰にも関心を持たずに歩き去っていく。僕は駅前と、スマホの画面を見比べていた。そして、見当をつけると歩き出した。
ちょっと前に、世界のどこかに飛ばされて、そこがどこか特定するというゲームが流行ったことがあったが、今自分のしていることはまさにそれだった。違うのは、ネット上でクリックするだけでなくて実際に足を運んでいることだ。
信号を右に曲がり、歩き続けた。たぶん、世界でこんな意味不明な理由で、そこに向かっているのは僕しかいないだろう。
僕は頭が狂ってしまったのだろうか。このことをシュガーに連絡しておくべきだろうか。でも、なんて言ったらいいのかわからなかったし、ただの悪戯の可能性もあると思って連絡しなかった。
目前に、目的地を示す看板が見え、僕はジャケットの胸元をしめ、気を引き締めた。それから、現れた大きな大学病院の中に入った。
窓口に行く。面会時間はギリギリだった。患者の名前を告げると、その人は上司を呼んで話し合った。それが済むと、僕はその人から、ボードと紙を渡され、そこに記入することを求められた。すべて記入し、返却すると、その人は電話をかけ、僕は待たされた。
僕は、待合室の誰もいなくなった椅子に座り、廊下の奥の大きな壁時計の振り子の動きを眺めていた。非常口誘導灯の緑の光がそれを映し出していた。病院は静かだった。その振り子の音がここまで聞こえてきた。
名前を呼ばれ、僕は面会証を受け取った。
――十五分です。病室番号を告げられ、僕はエレベーターに乗り込んだ。三階までのぼる。三階で、部屋を探しながら長い廊下を歩き、角を曲がると、目的の場所にたどり着いた。
その扉には、何も貼られていなかった。誰が入院しているのかを示す名前もない。間違えたのかと思ったが、恐る恐る中に入ってみると、確かにこの病室だとわかった。
見たことのある部屋だった。いや、それはあの時見たものと瓜二つだった。狭く薄暗い、月明りに照らされた部屋の中にベッドと、その横にタンスがある。あの時と違うのは、そこに人が横たわり、さらにはその人は僕が扉を開けても眠っていて、その口と身体中から管が伸び、タンスの横にある機械に繋がれているという点だった。
僕はその人に近づいた。が、その人は動かなかった。かすかに呼吸音が聞こえた。彼は眠っているようだった。それも深い眠りのように見えた。
ベッドの横に、入った時には見えなかったスツールが置いてあった。僕はその椅子を引いて座り、スマホを取り出し、ガラテアに入力した。
「着いたよ。教えてくれ。お前は誰だ?」
しばらくの間、返事はなかった。静かな時間だ。この病室に来ても、僕はまだ自分の考えに確信が持てなかった。ガラテアの返事はなかった。僕はため息と共に顔をあげた。何もない。それもそうか。やっぱり僕の妄想だったんだ。
僕は患者の姿を眺めた。この人は誰だ? 歳はいくつだろう? 四十代から五十代くらいに見える。どうしてこうなったのだろう。機械がなければすぐに死んでしまうのだろうか。
その時、僕は彼の手首に、点滴の針とは違うものが巻かれているのに気付いた。銀のブレスレットのようなものだ。それは他の生命維持装置と比べて、明らかに異質だった。
それが、パッと赤く光ったのだ。そして声が響いた。それは機械の合成音声でこう言った。
「こんばんは。そして、はじめまして、野宮伸一くん」
ゆったりと、落ち着きのある低い声だった。僕は、てっきり患者が目を覚ましたのかと思い、彼の顔を見た。だが、違った。その患者は目をつむったままで、口にも人工呼吸器がついたままだ。そして、どうやらその声は僕のスマホから出ていることに、僕は気付いた。
「お、お前は誰だ? なぜ、僕の名前を知っているんだ?」
慌てて、僕は虚勢を張りながらそいつに尋ねた。
その声は続けた。
「私の名は、岩室朔太郎。AIを研究する科学者です。そして、一部からはマキナ、という名で呼ばれています」
岩室、あるいはマキナは、淡々とそう正体を告げた。
「野宮伸一くん」彼は続けた。
「あなたに頼みがあります」
……嫌な予感がした。頼み? その言葉には、散々辛酸をなめさせられてきた。実際、マキナの頼みは、その中でも群を抜いていたのだ。
そして、闇夜の、おぼろ月が照らす病室の中で、マキナはこう言った。
「――私を、殺してくれませんか?」
ちょっと前に、世界のどこかに飛ばされて、そこがどこか特定するというゲームが流行ったことがあったが、今自分のしていることはまさにそれだった。違うのは、ネット上でクリックするだけでなくて実際に足を運んでいることだ。
信号を右に曲がり、歩き続けた。たぶん、世界でこんな意味不明な理由で、そこに向かっているのは僕しかいないだろう。
僕は頭が狂ってしまったのだろうか。このことをシュガーに連絡しておくべきだろうか。でも、なんて言ったらいいのかわからなかったし、ただの悪戯の可能性もあると思って連絡しなかった。
目前に、目的地を示す看板が見え、僕はジャケットの胸元をしめ、気を引き締めた。それから、現れた大きな大学病院の中に入った。
窓口に行く。面会時間はギリギリだった。患者の名前を告げると、その人は上司を呼んで話し合った。それが済むと、僕はその人から、ボードと紙を渡され、そこに記入することを求められた。すべて記入し、返却すると、その人は電話をかけ、僕は待たされた。
僕は、待合室の誰もいなくなった椅子に座り、廊下の奥の大きな壁時計の振り子の動きを眺めていた。非常口誘導灯の緑の光がそれを映し出していた。病院は静かだった。その振り子の音がここまで聞こえてきた。
名前を呼ばれ、僕は面会証を受け取った。
――十五分です。病室番号を告げられ、僕はエレベーターに乗り込んだ。三階までのぼる。三階で、部屋を探しながら長い廊下を歩き、角を曲がると、目的の場所にたどり着いた。
その扉には、何も貼られていなかった。誰が入院しているのかを示す名前もない。間違えたのかと思ったが、恐る恐る中に入ってみると、確かにこの病室だとわかった。
見たことのある部屋だった。いや、それはあの時見たものと瓜二つだった。狭く薄暗い、月明りに照らされた部屋の中にベッドと、その横にタンスがある。あの時と違うのは、そこに人が横たわり、さらにはその人は僕が扉を開けても眠っていて、その口と身体中から管が伸び、タンスの横にある機械に繋がれているという点だった。
僕はその人に近づいた。が、その人は動かなかった。かすかに呼吸音が聞こえた。彼は眠っているようだった。それも深い眠りのように見えた。
ベッドの横に、入った時には見えなかったスツールが置いてあった。僕はその椅子を引いて座り、スマホを取り出し、ガラテアに入力した。
「着いたよ。教えてくれ。お前は誰だ?」
しばらくの間、返事はなかった。静かな時間だ。この病室に来ても、僕はまだ自分の考えに確信が持てなかった。ガラテアの返事はなかった。僕はため息と共に顔をあげた。何もない。それもそうか。やっぱり僕の妄想だったんだ。
僕は患者の姿を眺めた。この人は誰だ? 歳はいくつだろう? 四十代から五十代くらいに見える。どうしてこうなったのだろう。機械がなければすぐに死んでしまうのだろうか。
その時、僕は彼の手首に、点滴の針とは違うものが巻かれているのに気付いた。銀のブレスレットのようなものだ。それは他の生命維持装置と比べて、明らかに異質だった。
それが、パッと赤く光ったのだ。そして声が響いた。それは機械の合成音声でこう言った。
「こんばんは。そして、はじめまして、野宮伸一くん」
ゆったりと、落ち着きのある低い声だった。僕は、てっきり患者が目を覚ましたのかと思い、彼の顔を見た。だが、違った。その患者は目をつむったままで、口にも人工呼吸器がついたままだ。そして、どうやらその声は僕のスマホから出ていることに、僕は気付いた。
「お、お前は誰だ? なぜ、僕の名前を知っているんだ?」
慌てて、僕は虚勢を張りながらそいつに尋ねた。
その声は続けた。
「私の名は、岩室朔太郎。AIを研究する科学者です。そして、一部からはマキナ、という名で呼ばれています」
岩室、あるいはマキナは、淡々とそう正体を告げた。
「野宮伸一くん」彼は続けた。
「あなたに頼みがあります」
……嫌な予感がした。頼み? その言葉には、散々辛酸をなめさせられてきた。実際、マキナの頼みは、その中でも群を抜いていたのだ。
そして、闇夜の、おぼろ月が照らす病室の中で、マキナはこう言った。
「――私を、殺してくれませんか?」
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれた女子高生たちが小さな公園のトイレをみんなで使う話
赤髪命
大衆娯楽
少し田舎の土地にある女子校、華水黄杏女学園の1年生のあるクラスの乗ったバスが校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれてしまい、急遽トイレ休憩のために立ち寄った小さな公園のトイレでクラスの女子がトイレを済ませる話です(分かりにくくてすみません。詳しくは本文を読んで下さい)
アトラス
レオパッド
SF
明治初頭。日本に現れた謎の生物『異獣』の登場は
その後、数百年の間に世界を大きく変えた。生態系は既存の生物の多くが絶滅し、陸も空も海も、異獣が繁栄を極めた。
異獣という脅威に対し、人類は異能の力を行使する者『クリエイター』を生み出すことで、なんとか生存することを許されていた……。
しかし、クリエイターでも苦戦する異獣の突然変異種が出現。新たな混乱の時代を迎えようとしていた
人類の前に敵か味方か……異獣ならざる者たちが降臨する。
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる