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1巻
1-2
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「そんな落ち込まないでよ。大丈夫、大丈夫。僕これでも口堅いから、この事は内緒にしておいてあげる。その代わりに、どうして入れ替わってるのかは教えてもらうけど」
(口が堅いね……)
項垂れていた顔を上げ、フランツの顔をまじまじと見遣る。ヘラッと笑っている。
嘘だ……絶対ペラペラ喋りそう……。むしろご丁寧に、尾びれ背びれまでつけてくれそうだ。
「どうする?」
「……」
アンネリーゼがどうしたものかと戸惑っていると、更にとんでもない事を言い出した。
「教えてくれないならいいや。それなら今から各教室を回って、アンナマリーは偽物と入れ替わってるって叫んでくる」
(はい!? 何それ!? 脅しなの!?)
「そんな事止めてくださいっ!! 困ります!!」
フランツは立ち上がると背を向けて歩いて行ってしまい、アンネリーゼは慌てて彼を引き止めた。
「だよねー、困るでしょう? なら、話してくれるよね」
満面の笑みで詰め寄られ、アンネリーゼは観念した。
「ふ~ん、双子の姉ね。だからそっくりなんだ。見れば見るほど似てるよねー、中身以外」
穴が空きそうなほど凝視されて、居心地が悪い。
「それにしても、流石アンナマリー! やるねー」
掻い摘んでこれまでの経緯を説明すると、フランツは妹を称賛するような発言をした。その事にアンネリーゼは、ドン引きする。
「勘違いしないでよ。別に褒めてるわけじゃないから。ただ、アンナマリーらしいなってね」
「はぁ……」
フォローにならないフォローに呆れる。
「でも、その……フランツ様は嫌ではないんですか」
「何が?」
「アンナマリーが、他の男性と……」
先程のフランツとの会話から、妹と彼が身体の関係にあると確信した。それなのにもかかわらず、まるで気にする素振りは見せない。普通ならば自分とそういった関係にある女性が、他の異性と仲良くしているだけでもいい気はしないだろうに、更に閨を共にしたとなると……。しかも姉から略奪して妻の座に収まったのだ。
(あれ、でも確か……)
その瞬間アンネリーゼはあの時の妹の発言を思い出した。妹は「処女を奪われた」と話していた。だが、フランツの話が本当だとすると嘘だった事になる……
「ちなみに僕とアンナマリーは、そういう友達なだけで恋愛感情とかは全くないから。でも身体の相性は抜群で……」
「そんな事、聞いてませんから!!」
さらりととんでもない発言をしてくるので、アンネリーゼは思わず彼の言葉を遮ってしまった。
「まあ、人生はさ……なるようにしかならないよ。旦那を寝取られたのは災難だけど、せっかくなんだし学院生活でも楽しんだら? 君が卒業するまで、僕が側にいてあげる」
寝取られたのはそうだが、そんな単純な話ではない。だが、確かにフランツの言う事も一理あるかもしれない。それにこうして彼と話していると、すごく馬鹿馬鹿しい気持ちになってくる。
「そうですね、フランツ様の言う通りかもしれません」
「そうそう、一緒に楽しもうよ」
そう言いながらフランツはアンネリーゼに抱きついてきたので、みぞおちに肘鉄を食らわす。
「痛いっ!」
「あまり調子に乗らないでくださいね、フランツ様?」
満面の笑みで言ってやった。
「あ、そうだ! 校内を案内してあげるよ」
だがフランツは、まるで意に介する事なくそんな提案をしてきた。その様子に脱力してしまう。
「あのでも、授業が……」
「そんなのサボっちゃえばいいじゃん」
気軽に言ってくれるが、サボるなんてあり得ない、そう思ったが――
(結局サボっちゃった……)
あの後、フランツに学院内を案内してもらった。これからアンナマリーとして過ごすなら、色々と覚えなくてはならない。資料や地図を見るより、直接見た方が早いのは確かだ。
「アンナマリーとは入学してからの付き合いだから、任せて」
そう話すフランツは、アンネリーゼの言動を事細かに指摘してきた。
「それ違う」
「アンナマリーは、もっとこんな風に……」
などなど。双子の姉妹で、よくも悪くも妹の事は誰よりも知っているつもりでいたが、もしかするとフランツの方が詳しいのではないかと思えてきた。それほど彼は妹の事を熟知していた。
「ほら、噂をすれば」
放課後、周囲から白い目で見られながら廊下を歩いていると、数人の生徒達がこちらへと向かってきた。アンネリーゼは思わず後退る。また今朝のように何か言われるかもしれない……
「あぁ!! アンナマリー嬢!」
これは正しく感動詞……? 舞台の台詞のような言葉に目を丸くした。
「一体どちらにいらしたんですか?」
「探していたんだよ」
「今朝貴女を見かけた者がいると聞いたのに、教室には姿を見せてくれないから」
右からディック、ステフ、ロビン。彼らもまたハートマークの付いていた人物だ。そしてフランツ曰く、アンナマリーの信者らしい。
『あんな事があっても、彼らはアンナマリーを崇拝してるんだよ』
崇拝も気にはなるが、それよりも『あんな事』の方が気になってしまう。だが、フランツは結局『あんな事』意味を教えてくれなかった。
『そのうち、分かるよ』
そう言うだけだった。
「これ、アンナマリー嬢が休んでいた間のノートです」
「前に話していた珍しいお菓子が手に入ったから」
「帰るなら送るよ」
三人は鼻息荒く詰め寄ってくる。それをやけに冷静に見ている自分がいた。
(あー……この人達も、妹にいいように利用されていたんだ。馬鹿馬鹿しい)
「ごめんなさい、今日は私、フランツと帰るから。また今度ね」
アンネリーゼは髪をかき上げると、彼らの横をすり抜けて行った。
「お帰りなさいませ」
屋敷に帰り、自室に入ると外套を着たままベッドに寝転んだ。普段なら絶対にしない。行儀が悪い。だがもう限界だった。今日一日でかなり神経をすり減らしてしまった。ある程度は覚悟していたが、予想以上だった。流石あの妹だ。想像以上にかなりヤバい。
(それにしても、フランツ様……。まさか、第二王子殿下だったなんてね)
全くそうは見えないが事実だ。そして、今朝会った彼の兄は……無論王太子殿下という事になる。
あの資料にあった名前を見た時、見覚えがあるとは思ったが……。対面するのが初めてだったため、全く気づかなかった……
アンネリーゼは、資料を取り出すと意味もなく眺める。フランツを含めた四人以外にもハートマークは付いている。見ているだけで頭が痛くなってきた。
「はぁ……」
あんな事……それが何かはまだ分からない。だが、おそらく悪い事に違いない。
それにしても、よくもまあ王太子相手に喧嘩を売るようなマネができるものだ。あんなに激怒しているというのに、アンナマリーが無事なのが奇跡に思えた。
(王太子殿下は意外と心が広い方なのかしら……)
◇◇◇
学院に通うようになり、早くも一ヶ月が経った。だからといって馴染む事はない。相変わらず遠巻きにされては、ひそひそと何やら噂されているようだった。
だがアンネリーゼは、この状況に慣れてきた。はじめはフランツの後ろでビクビクしながら虚勢を張っていたが、今では特に気にならない。
たまに廊下などで王太子等と鉢合わせるとすごい形相で睨まれるが、それにも慣れた。慣れとはすごいなぁとしみじみと思う今日この頃。
「ご機嫌よう、フランツ様」
「アンナマリー、おはよう。課題見せて~」
フランツの言葉に教室中の視線が集まるのを感じる。皆一様に目を見張る。それはそうだろう。フランツの話によれば、妹は課題どころか、授業すらまともに受けていなかったそうだ。無論課題などの提出は必須なので、自分の信者達にノートを代わりに書かせていた。ちなみにアンネリーゼは、彼らとは関わりたくないので距離を取って逃げ回っている。
アンナマリーは昔から、勉強など頭を使う事が嫌いだった。屋敷にいる時も、勉強は勿論、本すら読んでいる姿を見た事がない。それでも母が妹に怒る事は一切なく、一方アンネリーゼが同じように振る舞えば、怒鳴りつけられ即座に反省部屋に入れられていた。
幼い頃、遊んでいる妹が羨ましく、言いつけを破って部屋を抜け出し外で遊んだ事があった。暫くして見つかってしまい、激怒した母はアンネリーゼを地下の反省部屋に放り込んだ。
反省部屋は真っ暗で少し肌寒く、何もない。床にはカーペットもクッションもなく、直接座るしかない。ずっと座っているとそのうちお尻も痛くなり冷えてきて、身体を震わせた。成長してからは、反省部屋に放り込まれる事はなくなったが……それでもたまに夢に見る。
ずっと、妹が羨ましくて仕方がなかった。その妹に、今自分は成り代わった。
(私が、アンナマリー……)
だが、いざそうなるとやはり自分がいい。自分でない他の誰かの人生なんて生きたくない。そんな風に感じた。それでもアンネリーゼは、家の名誉のためにと懸命にアンナマリーを演じた。
だが半月が過ぎた頃、精神的に疲弊したアンネリーゼはふと我に返った。妹が悪いはずなのに、どうして私がこんな目に遭わないといけないのか。きっと今頃妹は、アンネリーゼとして母に甘やかされながら、実家の屋敷で悠々自適に過ごしている。片や自分は、せっかく学院に通う事になったのに、アンナマリーのふりをしなくてはならない、勉強もしてはいけない、フランツ以外友人だっていない。それどころか妹が何かをやらかしたせいで周囲からは遠巻きにされ無視されている。王太子達からも事あるごとに凄まれる。まあ、アンナマリーの信者の彼らだけは味方のようだが……ちょっと気持ち悪いから近寄りたくないし。そう考えて、やめた。くだらない。
冷静になって考えてみれば、あの妹のためにそこまでする必要性を感じない。確かにラヴァル家は守りたい。だから一応アンナマリーとしては過ごす。だが、もう演じるのはやめる――
通学する際のドレスは自分の物を着用した。毎日、しっかりと授業を受けて課題も自分でやって提出する。正直、授業は退屈だった。アンネリーゼには簡単過ぎたが、誰かと机を並べて学ぶという事が新鮮で面白かった。昼休みにお弁当を食べて、放課後は図書室へ寄る事もできて、少しずつ学院生活を楽しみつつある。
「あの……ここ分からなくて。よかったら教えてくれない?」
この生活を続けて三ヶ月ほど経った頃、一人の女子生徒から声をかけられた。はじめは声が出ないくらい驚いたが、アンネリーゼはすぐさま快諾した。
するとそれから暫くして、他の生徒達も話しかけてくるようになってきた。
今でもアンネリーゼに対して完全に無視を決め込む人間が大半だが、それでも話し相手ができた事は嬉しい。
「結局皆、他人事なんだよ」
放課後、アンネリーゼは裏庭にいた。隣にはフランツが座っており、珍しく不機嫌そうな彼はそう言って口を尖らせる。
「どういう意味ですか?」
「だってあんな事があったのに、少しアンナマリーが変わったからってさ、簡単に手のひら返すんだもん」
その言葉にアンネリーゼは眉根を寄せた。時折、彼は誰の味方なのか分からなくなる。まるで自分が馴染むことを、許さないと言われている気がした。
(あんな事、ね……)
未だアンネリーゼは、『あんな事』の全貌を知らない。話し相手はできたが、まさか本人がやらかした事を聞けるはずもない。無論フランツは教えてくれないし、気にはなるが知る術はなかった。
「でも、ほんの一部の方々だけですから」
「ふ~ん」
フランツは不満そうに適当に相槌を打ちながら、アンネリーゼに手を伸ばしてきたのでそれを慣れた様子で躱す。
「ちぇ、ケチだな」
「ケチじゃありません。破廉恥な事はお控えください」
フランツの事は別に嫌いではないが、隙あらばこうして身体を触ろうとするので、正直困っていた。
「あ、そうだ。明日から暫く、僕いないから」
翌朝、アンネリーゼは少し緊張した面持ちで屋敷を出た。
この数ヶ月、フランツと一緒にいない時はなかった。片時も離れず側にいてくれた。だが、その彼は今日から暫くいない。私用があると言っていた。
その日の昼間はいつもと変わらず過ごしていたのだが、放課後になりフランツはいないにもかかわらず、いつもの癖で気づけば裏庭に来ていた。
すると、そこには先客がいた。まさかの王太子であるリシャールだ。彼はアンネリーゼに気づくと舌打ちをする。露骨過ぎる態度に、慣れたとはいえ思わず後退る。
睨まれたまま動けない。思わず、ごくりと息を呑む。その時だった。
「え?」
僅かな衝撃の後、頭の上に重さが加わる。
「ピーピー!!」
(頭の上で何かが鳴いている……?)
「アレキサンドロス!!」
(アレキサンドロス? 何、それ……)
リシャールはそう叫びながら駆け寄ってきた。視線が頭上に向いている。
「アレキサンドロスを返してもらおうか」
「返せと、言われましても……」
アンネリーゼは何もしていない。
「貴様、またアレキサンドロスを叩き落とすつもりか!!」
今、すごい台詞を聞いた気がする。……叩き落とす!?
頭を少し動かすと、それは今度はアンネリーゼの手にとまった。
「可愛い……」
小さな鳥だ。つぶらな瞳と淡い青色の身体。ピーピーと鳴いている。その姿に思わず頬も緩む。顔を近付けると、すりすりとしてくる。本当に可愛い。それなのに無情にも、この鳥をあの妹は叩き落としたらしい。経緯は分からないが、酷過ぎる……「アレキサンドロス! 早く戻って来い!!」
手を伸ばしてくるリシャールは必死だ。まるでアンネリーゼが、この鳥を人質に取っているような気分になる。
「っ!?」
「あら」
だが、鳥は飼い主であるはずのリシャールの手を突っつく。そして後退りして再びアンネリーゼに甘えてきた。瞬間、絶望したような顔をした彼に同情した。
「何故だ、アレキサンドロス……」
急におとなしくなったリシャールとアンネリーゼは、二人並んでベンチに座った。
(何、なに? この状況は何!? 怖過ぎる……)
平静を装ってはいるが、内心は混乱していた。横目で彼を盗み見ると、可哀想なくらい項垂れている。よほどショックだったのだろう。
「昨夜、アレキサンドロスと仲違いをしたんだ」
「……」
何も聞いてないが、勝手に語り出した。
「今朝も機嫌が悪く、昼休みにポケットから逃げ出してしまった」
「……」
この鳥を連れて歩いていたんだ……。普通学院までペットを連れて来るものだろうか……というか仲違いって、鳥と? アンネリーゼは引き気味にリシャールに視線を向ける。
「いつもならば、仲違いをしたとしても翌朝には機嫌は直っているんだ。なのに今回は一向によくならず、ついには逃げ出してしまい……しかも、こんな女に擦り寄るなど……。以前はあんなに嫌がっていたにもかかわらず……何故だ」
また睨まれた。
(え、これ、私が悪いの!? 何か理不尽過ぎる……)
そんな中、空気を読まない鳥は、アンネリーゼにひたすら擦り寄ってくる。彼からの恨めしそうな視線に嫌な汗が流れた。
何だかよく分からないが、いたく気に入られてしまったようで、リシャールの膝の上に鳥を乗せてもぴょんと跳ねて戻ってくる。彼の元に返したいのに、返せない。何度繰り返しても変わらず、気がつけば辺りは薄暗い。正直言って帰りたい。アンネリーゼは一刻も早くこの場から立ち去りたくてたまらなかった。
「あのですね、非常に申し上げにくいのですが、そろそろ帰らないと……」
怖過ぎてリシャールの顔が見られない。怒られそうだ。だが、意外にも「分かった」と返事がきた。
「お嬢様、それはどうなさったのですか」
無事屋敷に帰ると、リタがアンネリーゼの頭上を見ながら目を丸くした。
「……鳥よ」
「それは見れば分かりますが……」
頭の上がお気に入りらしく、馬車に乗ると共に手から頭へと移動した……複雑だ。
あの後、リシャールにこの鳥ことアレキサンドロスを預けられた。いや、押し付けられた。
『こうなれば致し方ない。非常に腹立たしく嫌ではあるが、アレキサンドロスは貴様に預ける』
そんなに嫌なら預けないでください! そう言いたかったが、相手は王太子だ。断れない。
結局、アンネリーゼは断りきれずに屋敷に連れ帰って来てしまった。
別に生き物は嫌いではない。むしろ好きだ。この鳥は可愛いし、文句はない。だが、王太子のペットを預かるなどと……怖過ぎる。何かあったら私はどうすれば良いのだろうか。連れ歩くくらい溺愛しているようだし、もしかしたら首が飛ぶかもしれない……。あぁ、でも叩き落としても大丈夫なら平気かも?
それにしても、どうして私がこんな目に遭わなくてはならないのか。
アンネリーゼはまたため息を吐く。
未だ自分の頭の上で機嫌よく鳴いているアレキサンドロスに手を伸ばすと、スリスリしてきた。
(まあ、でも可愛いし……ちょっと預かるだけだし、いいでしょう)
アンネリーゼは気を取り直し、簡易的に書かれた取扱説明書のようなものを見てみる。リシャールからあの場で書いたものを渡されたのだ。
「えっと、何々……『アレキサンドロスの……一日……』」
(えっと、何? 何か始まった!?)
『ある日、アレキサンドロスは城の中庭にある木の枝に止まり、南天の実を食べた。これは異国から譲り受けた貴重な植物なのだが、体調が悪くなり暫し寝込む。故に南天は食べさせないように』
見た目は厳格そうなのに、中身は結構やばい人かもしれない。大体、南天の実など食べさせる事ができるはずがない。彼は自分で貴重な、と書いているだろうに……。アンネリーゼは南天の名前は聞いた事があるが、現物は見た事すらない。
「……長い」
一体何ページあるのだろう。アンネリーゼはパラパラと捲っていく。もはや最後の方はどうでもいい事柄ばかりに思えた。親バカ。そんな単語が頭に浮かんだ。
(子供の日記みたい)
そう思うと、ちょっと笑える。彼がアレキサンドロスを大切にしているのはよく伝わった。威圧感が半端なく怖い人だが、意外と根は優しいのかもしれない。
「よし! 預かったからにはしっかりお世話しないとね。アレキサンドロス、ちゃんとリシャール様と仲直りしましょうね」
「ピー!!」
指で顔を撫でると目を細めて喜ぶ。やはりアレキサンドロスは可愛い。
翌日。今日と明日は、学院の休日だ。アンネリーゼは出された課題を済ませた後、優雅にお茶を飲みながら読書をしていた。頭にはアレキサンドロスが乗っている。
「失礼致します。アンナマリー様、お茶のお代わりをお持ち致しました」
そう言いながら部屋の中へ入ってきたのは、侍女のニーナだ。
「ありがとう、ニーナ」
礼を述べると彼女ははにかみ、お辞儀をして下がった。
この屋敷に来たばかりの時は、使用人達があまりに暗く怯えていたが、今では笑顔が見られるくらいになった。たわいもない会話もしている。
「リタ、ありがとう」
「どうなさったのですか、急に」
リタが使用人達に探りを入れて、これまでの事を聞き出してくれた。この屋敷の使用人達は、はじめはもっとたくさんいたらしいのだが、妹のあまりに横暴な態度と振る舞いに耐えきれず次々に辞めていったそうだ。だが、今残っている者達は家庭の事情でどうしても辞める事ができずに、残るしかなかった。
次々に辞めていく使用人達を横目に「代わりなんていくらでもいるから」と言っていた妹も、なかなか代わりの使用人が見つからない現状に焦りを見せると、今度は「もし辞めたら、家族がどうなるか分かるわよね」と彼らを脅したそうだ。それをリタから聞いた時、頭だけでなく胃まで痛くなる気がした。その報告を受けた直後、アンネリーゼは使用人達を集めて謝罪し、これからもこの屋敷で働いてもらいたいと頼んだ。
皆一様に戸惑っていたが、最終的には頷いてくれて今に至る。
「ううん、何となく言いたかっただけ」
「おかしなお嬢様ですね」
「ピー」
アレキサンドロスが鳴きながら、テーブルの上に降りてきて角砂糖をくちばしで挟み一飲みした。ご機嫌に飛び跳ねる。
「鳥って、角砂糖が好きなのね」
「……聞いた事がありませんが」
「しかも、アレキサンドロスって本当に賢いのよ。アレキサンドロス、これ何本?」
アンネリーゼが指を二本立ててみせた。
するとアレキサンドロスは「ピーピー」と二回鳴く。
「ほら、ちゃんと理解しているの。アレキサンドロス、お手」
今度は手を差し出すと、アレキサンドロスは片足を乗せる。
「ね、すごいでしょう?」
その様子にリタは苦笑するが、アンネリーゼはすっかりアレキサンドロスを気に入っていた。
休み明けの放課後、アンネリーゼは裏庭のベンチに座っていた。
「アレキサンドロス」
ふと背後から声が聞こえ視線を向けると、リシャールが近寄って来るのが見える。
「無事だったか」
ものすごく失礼な物言いだが仕方がない。アンネリーゼは、リシャールにアレキサンドロスを差し出す。
「アレキサンドロス、リシャール様よ」
「アレキサンドロス!」
感動の再会だ。無事に何事もなくリシャールにアレキサンドロスを返せたと、アンネリーゼはホッとする。ところが……
「ピー!!」
「っ!?」
あんなにご機嫌だったアレキサンドロスは、なぜかリシャールの手をくちばしで突っつきまくる。
「あはは……どうしたんでしょうね。先程までご機嫌だったんですけど……。リシャール様、大丈夫ですか!?」
よく見るとリシャールの指から血が出ていた。
「あ、あぁ……これくらい平気だ」
ショックを受けて、それどころではない様子だ。肝心のアレキサンドロスは、ぴょんぴょん跳ねながらアンネリーゼの懐にもぞもぞと入っていった。
アンネリーゼは、リシャールの血が滲んでいる指をハンカチで押さえる。
「帰りましたら、ちゃんと消毒なさってくださいね」
「あ、あぁ、その……すまない」
バツが悪そうにリシャールは顔を背けた。
「それにしても、困りましたね。一体どうしたら……」
アンネリーゼは懐の膨らみに視線を落とす。朝屋敷を出る際にアレキサンドロスを鞄に入れようとしたところ、なぜか入るのを嫌がった。ドレスにポケットはないので困っていると、アレキサンドロスはアンネリーゼの懐にもぞもぞと入ってしまったのだ。
「……あ、あの」
暫し悩んでいると、リシャールの視線が自分の胸元に向けられている事に気づく。
その事に一気に恥ずかしくなり顔が熱くなった。
「っ……ち、違う!! 断じてそうではない!! 私はアレキサンドロスを見ていただけだ!!」
「は、はい……分かっています……」
分かってはいるが、恥ずかしいものは恥ずかしい。二人して黙り込み、リシャールの頬が少し赤く染まって見えた。
「そ、そうだ! あれは、どうだ。しっかり読んだのだろうな!?」
リシャールは動揺を隠しきれない様子で、話題を変えてきた。あれとは、おそらくあの取扱説明書の事だろう。
「はい、拝見させていただきました。リシャール様は、本当にアレキサンドロスの事を大切に思っていらっしゃるんですね」
(口が堅いね……)
項垂れていた顔を上げ、フランツの顔をまじまじと見遣る。ヘラッと笑っている。
嘘だ……絶対ペラペラ喋りそう……。むしろご丁寧に、尾びれ背びれまでつけてくれそうだ。
「どうする?」
「……」
アンネリーゼがどうしたものかと戸惑っていると、更にとんでもない事を言い出した。
「教えてくれないならいいや。それなら今から各教室を回って、アンナマリーは偽物と入れ替わってるって叫んでくる」
(はい!? 何それ!? 脅しなの!?)
「そんな事止めてくださいっ!! 困ります!!」
フランツは立ち上がると背を向けて歩いて行ってしまい、アンネリーゼは慌てて彼を引き止めた。
「だよねー、困るでしょう? なら、話してくれるよね」
満面の笑みで詰め寄られ、アンネリーゼは観念した。
「ふ~ん、双子の姉ね。だからそっくりなんだ。見れば見るほど似てるよねー、中身以外」
穴が空きそうなほど凝視されて、居心地が悪い。
「それにしても、流石アンナマリー! やるねー」
掻い摘んでこれまでの経緯を説明すると、フランツは妹を称賛するような発言をした。その事にアンネリーゼは、ドン引きする。
「勘違いしないでよ。別に褒めてるわけじゃないから。ただ、アンナマリーらしいなってね」
「はぁ……」
フォローにならないフォローに呆れる。
「でも、その……フランツ様は嫌ではないんですか」
「何が?」
「アンナマリーが、他の男性と……」
先程のフランツとの会話から、妹と彼が身体の関係にあると確信した。それなのにもかかわらず、まるで気にする素振りは見せない。普通ならば自分とそういった関係にある女性が、他の異性と仲良くしているだけでもいい気はしないだろうに、更に閨を共にしたとなると……。しかも姉から略奪して妻の座に収まったのだ。
(あれ、でも確か……)
その瞬間アンネリーゼはあの時の妹の発言を思い出した。妹は「処女を奪われた」と話していた。だが、フランツの話が本当だとすると嘘だった事になる……
「ちなみに僕とアンナマリーは、そういう友達なだけで恋愛感情とかは全くないから。でも身体の相性は抜群で……」
「そんな事、聞いてませんから!!」
さらりととんでもない発言をしてくるので、アンネリーゼは思わず彼の言葉を遮ってしまった。
「まあ、人生はさ……なるようにしかならないよ。旦那を寝取られたのは災難だけど、せっかくなんだし学院生活でも楽しんだら? 君が卒業するまで、僕が側にいてあげる」
寝取られたのはそうだが、そんな単純な話ではない。だが、確かにフランツの言う事も一理あるかもしれない。それにこうして彼と話していると、すごく馬鹿馬鹿しい気持ちになってくる。
「そうですね、フランツ様の言う通りかもしれません」
「そうそう、一緒に楽しもうよ」
そう言いながらフランツはアンネリーゼに抱きついてきたので、みぞおちに肘鉄を食らわす。
「痛いっ!」
「あまり調子に乗らないでくださいね、フランツ様?」
満面の笑みで言ってやった。
「あ、そうだ! 校内を案内してあげるよ」
だがフランツは、まるで意に介する事なくそんな提案をしてきた。その様子に脱力してしまう。
「あのでも、授業が……」
「そんなのサボっちゃえばいいじゃん」
気軽に言ってくれるが、サボるなんてあり得ない、そう思ったが――
(結局サボっちゃった……)
あの後、フランツに学院内を案内してもらった。これからアンナマリーとして過ごすなら、色々と覚えなくてはならない。資料や地図を見るより、直接見た方が早いのは確かだ。
「アンナマリーとは入学してからの付き合いだから、任せて」
そう話すフランツは、アンネリーゼの言動を事細かに指摘してきた。
「それ違う」
「アンナマリーは、もっとこんな風に……」
などなど。双子の姉妹で、よくも悪くも妹の事は誰よりも知っているつもりでいたが、もしかするとフランツの方が詳しいのではないかと思えてきた。それほど彼は妹の事を熟知していた。
「ほら、噂をすれば」
放課後、周囲から白い目で見られながら廊下を歩いていると、数人の生徒達がこちらへと向かってきた。アンネリーゼは思わず後退る。また今朝のように何か言われるかもしれない……
「あぁ!! アンナマリー嬢!」
これは正しく感動詞……? 舞台の台詞のような言葉に目を丸くした。
「一体どちらにいらしたんですか?」
「探していたんだよ」
「今朝貴女を見かけた者がいると聞いたのに、教室には姿を見せてくれないから」
右からディック、ステフ、ロビン。彼らもまたハートマークの付いていた人物だ。そしてフランツ曰く、アンナマリーの信者らしい。
『あんな事があっても、彼らはアンナマリーを崇拝してるんだよ』
崇拝も気にはなるが、それよりも『あんな事』の方が気になってしまう。だが、フランツは結局『あんな事』意味を教えてくれなかった。
『そのうち、分かるよ』
そう言うだけだった。
「これ、アンナマリー嬢が休んでいた間のノートです」
「前に話していた珍しいお菓子が手に入ったから」
「帰るなら送るよ」
三人は鼻息荒く詰め寄ってくる。それをやけに冷静に見ている自分がいた。
(あー……この人達も、妹にいいように利用されていたんだ。馬鹿馬鹿しい)
「ごめんなさい、今日は私、フランツと帰るから。また今度ね」
アンネリーゼは髪をかき上げると、彼らの横をすり抜けて行った。
「お帰りなさいませ」
屋敷に帰り、自室に入ると外套を着たままベッドに寝転んだ。普段なら絶対にしない。行儀が悪い。だがもう限界だった。今日一日でかなり神経をすり減らしてしまった。ある程度は覚悟していたが、予想以上だった。流石あの妹だ。想像以上にかなりヤバい。
(それにしても、フランツ様……。まさか、第二王子殿下だったなんてね)
全くそうは見えないが事実だ。そして、今朝会った彼の兄は……無論王太子殿下という事になる。
あの資料にあった名前を見た時、見覚えがあるとは思ったが……。対面するのが初めてだったため、全く気づかなかった……
アンネリーゼは、資料を取り出すと意味もなく眺める。フランツを含めた四人以外にもハートマークは付いている。見ているだけで頭が痛くなってきた。
「はぁ……」
あんな事……それが何かはまだ分からない。だが、おそらく悪い事に違いない。
それにしても、よくもまあ王太子相手に喧嘩を売るようなマネができるものだ。あんなに激怒しているというのに、アンナマリーが無事なのが奇跡に思えた。
(王太子殿下は意外と心が広い方なのかしら……)
◇◇◇
学院に通うようになり、早くも一ヶ月が経った。だからといって馴染む事はない。相変わらず遠巻きにされては、ひそひそと何やら噂されているようだった。
だがアンネリーゼは、この状況に慣れてきた。はじめはフランツの後ろでビクビクしながら虚勢を張っていたが、今では特に気にならない。
たまに廊下などで王太子等と鉢合わせるとすごい形相で睨まれるが、それにも慣れた。慣れとはすごいなぁとしみじみと思う今日この頃。
「ご機嫌よう、フランツ様」
「アンナマリー、おはよう。課題見せて~」
フランツの言葉に教室中の視線が集まるのを感じる。皆一様に目を見張る。それはそうだろう。フランツの話によれば、妹は課題どころか、授業すらまともに受けていなかったそうだ。無論課題などの提出は必須なので、自分の信者達にノートを代わりに書かせていた。ちなみにアンネリーゼは、彼らとは関わりたくないので距離を取って逃げ回っている。
アンナマリーは昔から、勉強など頭を使う事が嫌いだった。屋敷にいる時も、勉強は勿論、本すら読んでいる姿を見た事がない。それでも母が妹に怒る事は一切なく、一方アンネリーゼが同じように振る舞えば、怒鳴りつけられ即座に反省部屋に入れられていた。
幼い頃、遊んでいる妹が羨ましく、言いつけを破って部屋を抜け出し外で遊んだ事があった。暫くして見つかってしまい、激怒した母はアンネリーゼを地下の反省部屋に放り込んだ。
反省部屋は真っ暗で少し肌寒く、何もない。床にはカーペットもクッションもなく、直接座るしかない。ずっと座っているとそのうちお尻も痛くなり冷えてきて、身体を震わせた。成長してからは、反省部屋に放り込まれる事はなくなったが……それでもたまに夢に見る。
ずっと、妹が羨ましくて仕方がなかった。その妹に、今自分は成り代わった。
(私が、アンナマリー……)
だが、いざそうなるとやはり自分がいい。自分でない他の誰かの人生なんて生きたくない。そんな風に感じた。それでもアンネリーゼは、家の名誉のためにと懸命にアンナマリーを演じた。
だが半月が過ぎた頃、精神的に疲弊したアンネリーゼはふと我に返った。妹が悪いはずなのに、どうして私がこんな目に遭わないといけないのか。きっと今頃妹は、アンネリーゼとして母に甘やかされながら、実家の屋敷で悠々自適に過ごしている。片や自分は、せっかく学院に通う事になったのに、アンナマリーのふりをしなくてはならない、勉強もしてはいけない、フランツ以外友人だっていない。それどころか妹が何かをやらかしたせいで周囲からは遠巻きにされ無視されている。王太子達からも事あるごとに凄まれる。まあ、アンナマリーの信者の彼らだけは味方のようだが……ちょっと気持ち悪いから近寄りたくないし。そう考えて、やめた。くだらない。
冷静になって考えてみれば、あの妹のためにそこまでする必要性を感じない。確かにラヴァル家は守りたい。だから一応アンナマリーとしては過ごす。だが、もう演じるのはやめる――
通学する際のドレスは自分の物を着用した。毎日、しっかりと授業を受けて課題も自分でやって提出する。正直、授業は退屈だった。アンネリーゼには簡単過ぎたが、誰かと机を並べて学ぶという事が新鮮で面白かった。昼休みにお弁当を食べて、放課後は図書室へ寄る事もできて、少しずつ学院生活を楽しみつつある。
「あの……ここ分からなくて。よかったら教えてくれない?」
この生活を続けて三ヶ月ほど経った頃、一人の女子生徒から声をかけられた。はじめは声が出ないくらい驚いたが、アンネリーゼはすぐさま快諾した。
するとそれから暫くして、他の生徒達も話しかけてくるようになってきた。
今でもアンネリーゼに対して完全に無視を決め込む人間が大半だが、それでも話し相手ができた事は嬉しい。
「結局皆、他人事なんだよ」
放課後、アンネリーゼは裏庭にいた。隣にはフランツが座っており、珍しく不機嫌そうな彼はそう言って口を尖らせる。
「どういう意味ですか?」
「だってあんな事があったのに、少しアンナマリーが変わったからってさ、簡単に手のひら返すんだもん」
その言葉にアンネリーゼは眉根を寄せた。時折、彼は誰の味方なのか分からなくなる。まるで自分が馴染むことを、許さないと言われている気がした。
(あんな事、ね……)
未だアンネリーゼは、『あんな事』の全貌を知らない。話し相手はできたが、まさか本人がやらかした事を聞けるはずもない。無論フランツは教えてくれないし、気にはなるが知る術はなかった。
「でも、ほんの一部の方々だけですから」
「ふ~ん」
フランツは不満そうに適当に相槌を打ちながら、アンネリーゼに手を伸ばしてきたのでそれを慣れた様子で躱す。
「ちぇ、ケチだな」
「ケチじゃありません。破廉恥な事はお控えください」
フランツの事は別に嫌いではないが、隙あらばこうして身体を触ろうとするので、正直困っていた。
「あ、そうだ。明日から暫く、僕いないから」
翌朝、アンネリーゼは少し緊張した面持ちで屋敷を出た。
この数ヶ月、フランツと一緒にいない時はなかった。片時も離れず側にいてくれた。だが、その彼は今日から暫くいない。私用があると言っていた。
その日の昼間はいつもと変わらず過ごしていたのだが、放課後になりフランツはいないにもかかわらず、いつもの癖で気づけば裏庭に来ていた。
すると、そこには先客がいた。まさかの王太子であるリシャールだ。彼はアンネリーゼに気づくと舌打ちをする。露骨過ぎる態度に、慣れたとはいえ思わず後退る。
睨まれたまま動けない。思わず、ごくりと息を呑む。その時だった。
「え?」
僅かな衝撃の後、頭の上に重さが加わる。
「ピーピー!!」
(頭の上で何かが鳴いている……?)
「アレキサンドロス!!」
(アレキサンドロス? 何、それ……)
リシャールはそう叫びながら駆け寄ってきた。視線が頭上に向いている。
「アレキサンドロスを返してもらおうか」
「返せと、言われましても……」
アンネリーゼは何もしていない。
「貴様、またアレキサンドロスを叩き落とすつもりか!!」
今、すごい台詞を聞いた気がする。……叩き落とす!?
頭を少し動かすと、それは今度はアンネリーゼの手にとまった。
「可愛い……」
小さな鳥だ。つぶらな瞳と淡い青色の身体。ピーピーと鳴いている。その姿に思わず頬も緩む。顔を近付けると、すりすりとしてくる。本当に可愛い。それなのに無情にも、この鳥をあの妹は叩き落としたらしい。経緯は分からないが、酷過ぎる……「アレキサンドロス! 早く戻って来い!!」
手を伸ばしてくるリシャールは必死だ。まるでアンネリーゼが、この鳥を人質に取っているような気分になる。
「っ!?」
「あら」
だが、鳥は飼い主であるはずのリシャールの手を突っつく。そして後退りして再びアンネリーゼに甘えてきた。瞬間、絶望したような顔をした彼に同情した。
「何故だ、アレキサンドロス……」
急におとなしくなったリシャールとアンネリーゼは、二人並んでベンチに座った。
(何、なに? この状況は何!? 怖過ぎる……)
平静を装ってはいるが、内心は混乱していた。横目で彼を盗み見ると、可哀想なくらい項垂れている。よほどショックだったのだろう。
「昨夜、アレキサンドロスと仲違いをしたんだ」
「……」
何も聞いてないが、勝手に語り出した。
「今朝も機嫌が悪く、昼休みにポケットから逃げ出してしまった」
「……」
この鳥を連れて歩いていたんだ……。普通学院までペットを連れて来るものだろうか……というか仲違いって、鳥と? アンネリーゼは引き気味にリシャールに視線を向ける。
「いつもならば、仲違いをしたとしても翌朝には機嫌は直っているんだ。なのに今回は一向によくならず、ついには逃げ出してしまい……しかも、こんな女に擦り寄るなど……。以前はあんなに嫌がっていたにもかかわらず……何故だ」
また睨まれた。
(え、これ、私が悪いの!? 何か理不尽過ぎる……)
そんな中、空気を読まない鳥は、アンネリーゼにひたすら擦り寄ってくる。彼からの恨めしそうな視線に嫌な汗が流れた。
何だかよく分からないが、いたく気に入られてしまったようで、リシャールの膝の上に鳥を乗せてもぴょんと跳ねて戻ってくる。彼の元に返したいのに、返せない。何度繰り返しても変わらず、気がつけば辺りは薄暗い。正直言って帰りたい。アンネリーゼは一刻も早くこの場から立ち去りたくてたまらなかった。
「あのですね、非常に申し上げにくいのですが、そろそろ帰らないと……」
怖過ぎてリシャールの顔が見られない。怒られそうだ。だが、意外にも「分かった」と返事がきた。
「お嬢様、それはどうなさったのですか」
無事屋敷に帰ると、リタがアンネリーゼの頭上を見ながら目を丸くした。
「……鳥よ」
「それは見れば分かりますが……」
頭の上がお気に入りらしく、馬車に乗ると共に手から頭へと移動した……複雑だ。
あの後、リシャールにこの鳥ことアレキサンドロスを預けられた。いや、押し付けられた。
『こうなれば致し方ない。非常に腹立たしく嫌ではあるが、アレキサンドロスは貴様に預ける』
そんなに嫌なら預けないでください! そう言いたかったが、相手は王太子だ。断れない。
結局、アンネリーゼは断りきれずに屋敷に連れ帰って来てしまった。
別に生き物は嫌いではない。むしろ好きだ。この鳥は可愛いし、文句はない。だが、王太子のペットを預かるなどと……怖過ぎる。何かあったら私はどうすれば良いのだろうか。連れ歩くくらい溺愛しているようだし、もしかしたら首が飛ぶかもしれない……。あぁ、でも叩き落としても大丈夫なら平気かも?
それにしても、どうして私がこんな目に遭わなくてはならないのか。
アンネリーゼはまたため息を吐く。
未だ自分の頭の上で機嫌よく鳴いているアレキサンドロスに手を伸ばすと、スリスリしてきた。
(まあ、でも可愛いし……ちょっと預かるだけだし、いいでしょう)
アンネリーゼは気を取り直し、簡易的に書かれた取扱説明書のようなものを見てみる。リシャールからあの場で書いたものを渡されたのだ。
「えっと、何々……『アレキサンドロスの……一日……』」
(えっと、何? 何か始まった!?)
『ある日、アレキサンドロスは城の中庭にある木の枝に止まり、南天の実を食べた。これは異国から譲り受けた貴重な植物なのだが、体調が悪くなり暫し寝込む。故に南天は食べさせないように』
見た目は厳格そうなのに、中身は結構やばい人かもしれない。大体、南天の実など食べさせる事ができるはずがない。彼は自分で貴重な、と書いているだろうに……。アンネリーゼは南天の名前は聞いた事があるが、現物は見た事すらない。
「……長い」
一体何ページあるのだろう。アンネリーゼはパラパラと捲っていく。もはや最後の方はどうでもいい事柄ばかりに思えた。親バカ。そんな単語が頭に浮かんだ。
(子供の日記みたい)
そう思うと、ちょっと笑える。彼がアレキサンドロスを大切にしているのはよく伝わった。威圧感が半端なく怖い人だが、意外と根は優しいのかもしれない。
「よし! 預かったからにはしっかりお世話しないとね。アレキサンドロス、ちゃんとリシャール様と仲直りしましょうね」
「ピー!!」
指で顔を撫でると目を細めて喜ぶ。やはりアレキサンドロスは可愛い。
翌日。今日と明日は、学院の休日だ。アンネリーゼは出された課題を済ませた後、優雅にお茶を飲みながら読書をしていた。頭にはアレキサンドロスが乗っている。
「失礼致します。アンナマリー様、お茶のお代わりをお持ち致しました」
そう言いながら部屋の中へ入ってきたのは、侍女のニーナだ。
「ありがとう、ニーナ」
礼を述べると彼女ははにかみ、お辞儀をして下がった。
この屋敷に来たばかりの時は、使用人達があまりに暗く怯えていたが、今では笑顔が見られるくらいになった。たわいもない会話もしている。
「リタ、ありがとう」
「どうなさったのですか、急に」
リタが使用人達に探りを入れて、これまでの事を聞き出してくれた。この屋敷の使用人達は、はじめはもっとたくさんいたらしいのだが、妹のあまりに横暴な態度と振る舞いに耐えきれず次々に辞めていったそうだ。だが、今残っている者達は家庭の事情でどうしても辞める事ができずに、残るしかなかった。
次々に辞めていく使用人達を横目に「代わりなんていくらでもいるから」と言っていた妹も、なかなか代わりの使用人が見つからない現状に焦りを見せると、今度は「もし辞めたら、家族がどうなるか分かるわよね」と彼らを脅したそうだ。それをリタから聞いた時、頭だけでなく胃まで痛くなる気がした。その報告を受けた直後、アンネリーゼは使用人達を集めて謝罪し、これからもこの屋敷で働いてもらいたいと頼んだ。
皆一様に戸惑っていたが、最終的には頷いてくれて今に至る。
「ううん、何となく言いたかっただけ」
「おかしなお嬢様ですね」
「ピー」
アレキサンドロスが鳴きながら、テーブルの上に降りてきて角砂糖をくちばしで挟み一飲みした。ご機嫌に飛び跳ねる。
「鳥って、角砂糖が好きなのね」
「……聞いた事がありませんが」
「しかも、アレキサンドロスって本当に賢いのよ。アレキサンドロス、これ何本?」
アンネリーゼが指を二本立ててみせた。
するとアレキサンドロスは「ピーピー」と二回鳴く。
「ほら、ちゃんと理解しているの。アレキサンドロス、お手」
今度は手を差し出すと、アレキサンドロスは片足を乗せる。
「ね、すごいでしょう?」
その様子にリタは苦笑するが、アンネリーゼはすっかりアレキサンドロスを気に入っていた。
休み明けの放課後、アンネリーゼは裏庭のベンチに座っていた。
「アレキサンドロス」
ふと背後から声が聞こえ視線を向けると、リシャールが近寄って来るのが見える。
「無事だったか」
ものすごく失礼な物言いだが仕方がない。アンネリーゼは、リシャールにアレキサンドロスを差し出す。
「アレキサンドロス、リシャール様よ」
「アレキサンドロス!」
感動の再会だ。無事に何事もなくリシャールにアレキサンドロスを返せたと、アンネリーゼはホッとする。ところが……
「ピー!!」
「っ!?」
あんなにご機嫌だったアレキサンドロスは、なぜかリシャールの手をくちばしで突っつきまくる。
「あはは……どうしたんでしょうね。先程までご機嫌だったんですけど……。リシャール様、大丈夫ですか!?」
よく見るとリシャールの指から血が出ていた。
「あ、あぁ……これくらい平気だ」
ショックを受けて、それどころではない様子だ。肝心のアレキサンドロスは、ぴょんぴょん跳ねながらアンネリーゼの懐にもぞもぞと入っていった。
アンネリーゼは、リシャールの血が滲んでいる指をハンカチで押さえる。
「帰りましたら、ちゃんと消毒なさってくださいね」
「あ、あぁ、その……すまない」
バツが悪そうにリシャールは顔を背けた。
「それにしても、困りましたね。一体どうしたら……」
アンネリーゼは懐の膨らみに視線を落とす。朝屋敷を出る際にアレキサンドロスを鞄に入れようとしたところ、なぜか入るのを嫌がった。ドレスにポケットはないので困っていると、アレキサンドロスはアンネリーゼの懐にもぞもぞと入ってしまったのだ。
「……あ、あの」
暫し悩んでいると、リシャールの視線が自分の胸元に向けられている事に気づく。
その事に一気に恥ずかしくなり顔が熱くなった。
「っ……ち、違う!! 断じてそうではない!! 私はアレキサンドロスを見ていただけだ!!」
「は、はい……分かっています……」
分かってはいるが、恥ずかしいものは恥ずかしい。二人して黙り込み、リシャールの頬が少し赤く染まって見えた。
「そ、そうだ! あれは、どうだ。しっかり読んだのだろうな!?」
リシャールは動揺を隠しきれない様子で、話題を変えてきた。あれとは、おそらくあの取扱説明書の事だろう。
「はい、拝見させていただきました。リシャール様は、本当にアレキサンドロスの事を大切に思っていらっしゃるんですね」
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