アイリーン譚歌 ◇R-18◇

サバ無欲

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Ⅵ. 暁の章

04'目覚め

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ーー朝、あるいは昼。


ぼんやりと目を覚まし、寝台ベッドの上でもぞもぞと座り込んだ娘は、胸下までかかる乱れた髪をそのままに、暁の空を写したような赤い瞳でうつらうつらと霞みがかった周りを見た……だれもいない。

途中から、あるいははじめから。
夢だったんじゃないだろうか。

そんな思いが脳裏をかすめるほどには、娘はつらい思いをしてきた。手のひらには包帯が巻かれ、サイズ違いのボタンシャツをきちんと着て、血や体液で乱れていたシーツすら綺麗に整えられている。一見、なんの変わりもないように。


しかしーー


「ぁ……」


起き上がった途端にとろりと漏れるなにかが。
シャツの隙間から見える柔肌に刻まれた痕が。
手や腰や……ナカに残る、ちりちりとした痛みや熱が。

嘘ではない。夢ではない。
そう彼女に告げている。

そして娘は思い出す。まどろみのなか、あの手がやわらかく頬を這ったこと。少し出てくる、すぐ戻るからと告げた声。だから彼女はわずかな不安も持ち得ない……あのひとは必ず戻ってくると、わかっているから。


かくして。やさしい音で扉は開かれ、赤い瞳に夫の姿が映しだされてーーうすぼけた世界に光が射す。


「ああアイリーン、起きたか」

「ロイ……うん、おはよ」

「飯を持ってきた……食えそうか」

「うん、だいじょうぶ。わ、くだものこんなに……ひさしぶり。ふふ、これ温泉卵?  頼んでくれたの?  これ、は……?  ……」


ロイは寝台に盆を置いて自分も座ると、とろとろと話すアイリーンの頬をなで、銀色の目で覗き込むように彼女の目を見た。

見つめ合い、触れられた手はひやりと冷たく心地よくってアイリーンはほぅ、と息を吐く。いとしい人が、その銀色が自分を見ている。安心感につつまれながらうるんだ赤目を閉じると、ふわりと鼻腔をくすぐる花の香り。


「……ぬくいな。熱は、ないみてえだが」

「うん、だいじょーぶ……ふふ、これ、この花束、きれいだなぁ……こんなにたくさん……寒いのに咲くもんなんだな。ここで育てたやつかな……?」


盆の上には沢山の冬くだもの、パンやスープと一緒に、グラスに花束が活けられていた。手のひら大の花束は、どれも名の知れた花ではなく、どちらかと言えばシガルタの山で見かけたような、小ぶりで可愛らしいものばかりだ。色はさまざまで、棘のあるものは丁寧に削がれ、根元は麻ひもでくくられている。

アイリーンは教養ある貴婦人ほど花の名前を知るわけではない。しかし多くの女性と同じくらいに花を愛でる気持ちはあった。厨房の誰か、あるいはエメやティリケが気を利かせてくれたのだろう。アイリーンはそう思ったが。


「いや、近くの山に群生してた」

「してた、って……え、んん?  ロイ……?」

「……あいつらが場所を知ってたからな」

「え、と、取ってきてくれたの?  なんで……?」

「さぁな……あとで好きなの選んどけ」


はぐらかす声はいやに楽しげで、すこしだけ緩んだ顔を見つめるとわしわし頭をなでられる。どうやら理由は言ってくれないらしい……こんな場合、たいした理由などいらないのかも知れない。

頬を染めたアイリーンは、とろんとまどろんだ赤目を伏せて花束を見た。夫が自分のために……うれしくて花色が鮮明になる。今まで見ていた世界と今日、どんな違いもないはずだ。問題はいまだ山積みで、なにひとつ解決したわけでもないのに。


彼といるだけで、世界はこんなに鮮やかになる。


「あいつらって、エメ?  それともまた別の……?」

「いいや。…………昨日は"疲れた"だろうから、だと。それからこの果物も"見舞い"だそうだ。……"あいつら"からの」

「……ーーッ!!」


淡々と、しかし特定の言葉だけ速度を落として話すロイに、その裏を汲み取ったアイリーンはさらに顔を真っ赤に染める。ぱくぱくと、何も言えない唇が何か言おうと虚空を探る。

ロイの喉からググッ、と潰れたカエルの声がする。笑いをこらえきれなかったらしい。表情は崩さないまま器用なことだ。焦りと恥ずかしさでいたたまれず、わたわたと手足をばたつかせたアイリーンを、彼は自分の胸に抱き寄せ、硬い両足をからませ、とどめる。


「っ、え、あの、あいつらもう来てるの?  むかえに?  ど、どうしよう、おれ、いかなくちゃ。でもなんで……ろ、ロイ、はなしてっ……」

「ここにいろ。あいつらからも"ゆっくり休め"とのお達しだ、焦んな。……にしても、本当に全部、視えてるらしいな」


朝露の匂いが濃厚な胸にうしろから抱かれ、一口大に整えられた甘いくだものを食べさせられながら、ロイは彼らのことを伝える。

彼らは昨日、アイリーンがロイに傷つけられるところを視て大急ぎでこの要塞へ向かい、夜半には到着していたが、傷つけられているはずのアイリーンからわずかにも頭痛が伝達されなかったため、襲撃は控えたのだという。

頭痛がなかった。それはつまり、あんな暴力が嫌じゃなかったわけで、その理由は……自分の思考を丸裸にされたいたたまれなさは通常の比ではない。ううう、と獣のように唸るアイリーンの唇に、赤いくだものがまた押し当てられる。舌で果実を受け取って、ついでに夫の指もぺろりと舐めて、みずみずしい果実の甘さを堪能する。

このくだものも、花束も、ロイが彼らに乗って採ってきてくれたらしい。獣の彼らはさすがというか、山のいたる場所を知っていて、集めるのは苦労しなかったという。


「若えのは俺を見て唸ってたが、年寄りに諌められて納めてた。割に協力的だったのは、てめえのお叱りも効いてるらしい。俺がアイリーンにとってどういう人間なのか、年寄りが諭して聞かせてたからな」

「ふぅん……あ、それ、おいしかった……」

「これか?  ほら食え……とにかくちゃんと食って寝ろ。あいつらには、仲間をここへ呼ぶように言っておいた。早くて夜になるらしい」

「んむ、えっ……?!」

「てめえが行くより効率的だろ。年寄りは来れねえらしいが、帰りに血を持たせてやりゃあいい。血の摂取も何回も必要なのかと思ったが、そうでもねえ、摂取は1回でいいらしいな……知らなかったか?」


こくこくうなずくと、だろうな、と返される。アイリーンは本能的な焦燥感から彼らのもとへ行かなくては、という思考に支配されていたが、どうやら案外、事態は簡単……なように思える。

夫はいっそ不思議なほどに、アイリーンの周りにはびこる問題をするりと片付けてくれる。思えばいつもそうだった。彼が動けば、深刻だった状況がいっぺんに消えてなくなる気になるのだ。


そして、そんな彼だからこそ……アイリーンには不安がある。


「ロイ……ロイは、やじゃないの?  その……"食人獣"とオレが、繋がってんの……。オレと話せるなんておかしいし、いろんな人が、ロイの腕だって、あいつらに食べられーーんんっ、う、ん……ッ」


顎を掴まれ、顔だけをうしろに向けさせられて、深いくちづけが落ちてくる。彼の口内からくだものが転がり、くちづけているうちに潰れて爽やかな果汁がひろがる。

くだもの味のキスをひと通り堪能した後、ロイは唇を離し、鼻の頭どうしをすりつけた。夫からの甘い仕草に熱があがる。顔を近寄せると自然、小さくなる声は、かすれた空気をはらんでどこか夜を連想させる。


「ぐだぐだ悩むな……昨日も言ったろ、お互い様なんだ。それに俺はあいつらに害意がねえなら、それでいい。喋れるなら、こうやって多少の融通も利くわけだしな……」

「そんな……かんたんなこと……?」

「俺にとってはな。……アリン、てめえの心配も分からなくはねえが、今はとにかく休んでろ。考えるのは後でいい。どうせ今のてめえが考えたところで答えは出ねえよ……分かったな、アリン……?」

「うん、ロイ…………もっと……」


身体をよじり、向かい合わせてねだるとロイは、アイリーンを目で射抜いたまま薄い唇にくだものを挟んで、くちづけた。頭の芯がぼうっとして、全身がひりひり焦げつく。さっきまで考えていた何もかもが遠くに追いやられ、目の前のロイでいっぱいになる。

いつか言われたとおりだった。1度知れば2度、3度……際限なく求めてしまう。昨日さんざん突かれたそこに、また埋めてほしいと思ってしまう。

何度も餌付けされ、くだものの皿がカラになってなお、アイリーンはキスを求めた。甘い汁が滴り落ちて染みを作り、ちゅ、と音を立ててロイが唇を触れあわせたまま低くうなる。


「こら……休めって言ったろ、アリン」


咎めるような口調ではなかったから。
嬉しくなって、アイリーンはロイの首に両手を回す。ぐ、と身体に力を入れて、彼とともにゆっくりと寝台へ倒れる。


「じゃあ……やすませて……」

「……アリン」

「ひとりじゃ……やすめない。ロイ、ロイがいなきゃ……」

「ああクソ……どこで覚えやがった……」


言葉だけは迷いながら、ロイの舌が深く、口内を蹂躙してゆく。ぴちゃ、ぴちゃ、しめった音がするたび腰がうずいて、擦り付けるとロイの分身が熱を孕んでそこにあるのがたまらなく嬉しい。

音も、気持ちも。
伝わればいいのに、と思う。

彼らに教えたい。この人がどれほど切ない声で自分を呼ぶのか。やさしく丁寧に求められて、自分がどれほど悦んでいるか。知ってほしい。


「アリン……」


こんなに愛されていることを。
アイリーンは全世界のなにもかもに、伝えたかった。



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